カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

傷を「自分が」埋めていい

今日は、

こんな自分は生きていてはいけないのではないか、

という方向の思いを感じておられる方に向けて、書いてみます。

 

きっと、何かがひどく、うまくいかなかった、いっていない、のでしょう。

あるいは何かを、他者から投げつけられて(こういう比喩表現にしておきます)、

傷ついているのでしょう。

 

そして、そういう自分の内側で『二度と元に戻れない』という感覚の部分があって、

それがどうにも情けなくて、悲しいのでしょう。

 

では、そもそも、戻らなくては『いけない』のは、なぜでしょうか。

戻る、のではなく、

『新しくなる』のでは、いけないのでしょうか。

 

ここで一つ、極端な例を、出してみます。

ご記憶の方も多いでしょう。山口県光市の、母子殺人事件。

残されたご主人は、犯人の死刑を求め、当時の裁判所での被害者の扱いにも驚き、

『被害者の会』を設立し、世の中の流れまで変えられました。

 

確かにこの方は、最終的に、犯人の死刑という結果を受け取りました。

しかしその経過においては、

自分が家族を救えなかったこと(それは、無理なことであったのですが)、

また、自分が「人を殺すことを望む」という、その状態について、

とても苦悩されたようでした。

 

たまたまこの犯人は最後まで、本気の反省を見せなかったため

(犯人は「ドラえもん」さえ持ち出して、

精神状態の不安定さを作戦として訴えました)、

ご主人はアメリカに渡り、同じような理由で死刑を待っている囚人に面会して、

インタビューまでされました。そしてその囚人から、

「死刑判決を受けて、やっと、自分がやったことを

反省できるようになった」という言葉を聞いて、

そういうふうに「省みる方法」もあり得るのだ、

ならば犯人にも、そうなってほしい……。

と、その点で、自分の気持ちを、なんとか整理されたのです。

 

ただ、そのあとですら「いいか悪いか」の判断は、自分ではつけることができない、

という心情を、ご主人は語られました。

これらの話は、彼を取材し続けたノンフィクションの書籍に、載っています。

 

そして最高裁の判決が出たあと、

ご主人は「普通の幸せ」を、再婚で、再び得ることを決意され、

マスコミ報道の前から、また、被害者の会の活動からも、姿を消されました。

 

このご主人に対して。

「そんなにもひどい経験を経たのだから、

再び、まともになることなんて、できるはずないし、そもそも求めるべきではない。

人は、そこから立ち直るべきではないのだ」

「忘れることなんてできないのだから、

このご主人も殺された母子のことを一生、考え、抱え込み、

傷ついたまま、苦しいまま、この先の人生を生きるしかないのに。

何をキレイごと、求めてるんだか。そんなの絶対、無理に決まってるのに」

「どんな事情があるにせよ、他人の死を願い、相手を殺そうとしたなんて、

それはまともな人間じゃないのだから、生きているベきではない」

等、を断言できるほどに思われる方は、それほどいないはず……と、私には思えます。

 

むしろ、そこまでつらかったからこそ、幸せになってほしい、

傷が消えることはないだろうけれど、

悲しみが完全にはなくなることはないけれど、それでも……

と感じられる方のほうが、多いだろうと。

 

そう。

そういう意味では『傷』は消えないし、

亡くなった命は、何がどうあろうと、取り戻しはできません。

このご主人も、二度と元の自分には、戻れない。

でも、だからこそ、新たに幸せになってほしい。

そう願うのではないでしょうか。

 

他者のことならそんなふうに、きっと、わかると思います。

自分が受け取った傷によって、完全には元の姿に戻れなくても、

それでもなお、人は、やり直す許可を自分に出していいのだ、

どんなに傷ついても、そこから立ち直っていいのだ、ということが。

 

今、あなたは傷ついて、その弱い自分を責めておられるでしょう。

このご主人も、そうでした。同じ視点で苦しみを味わわれました。

原因が違う? あなたは自分で自分を傷つけている?

このご主人も、自分の内側で、自分を罵倒されていました。

どうしようもない状態、に、自分のことを追い込まれました。

 

無記名で悪口を届けてくる人もいたそうです。

死刑反対説を持っている人からは非難され、

この犯人の減刑嘆願署名さえ、求められたそうです

(思い込みの正義感ってこわいですね。

実際に傷ついた他者の気持ちなんて、自分が果たしたい大義名分の前では

どうでもいいのですから)。

 

どうでしょうか。

このご主人が立ち直っていいのなら、

あなたもまた、立ち直っていいのだということは、

感じられないでしょうか。

 

たとえばあなたという人の一部分が、自分を傷つけた。

そして本当に、傷によって、痛んでいる、

『傷つけられている自分』もまた、

あなたの中の、別の部分には存在している。

その「別の部分のあなた」は、このご主人と同じように、

受けた傷で「痛んでいる」のです、間違いなく。

 

人は、たとえどんな経験をしても、立ち直っていい。

このご主人は、それが端的に現れた例の方なのだと、私には思えるのです。

 

本当はそんな傷など負いたくなかった。

傷ついた人なら、必ずそう思うでしょう。

傷のない、苦しみを知らなかった、キレイな自分を思い返し、

後悔にも、さいなまれることでしょう。

 

でも、その傷は、埋めていいのです、自分で。

確かに埋めたところで、完璧に元のような美しさには、なりません。

それでも、自分が埋めていいのです。

そういう埋め方をしたら「いけない」わけでも、

元のキレイさに「戻れない」なら、

『埋めなくても一緒』というわけでも、ありません。

 

とくに鬱の方なら、こんな最低な自分が生きていて、

動物や植物など、他の命をいただくこと自体、不謹慎に思えたりもするでしょう。

私も過去、確かにそうでした。

 

でもそれは、何億年も続いてきた、生物としての営みを、

狭い視野で観念的に、感覚的に、否定しているに過ぎませんし、

そこまでのキレイさだけを求めることは、今だからこそ、起こる視点なのです。

 

そしてまた、嫌なことが忘れられないから、劣っているわけではありません。

光市のご主人が「劣っている人」でないのと同じです。

 

それほど自分が苦しいのだ、ということを、卑下する必要もありません。

今、自分が苦しいのだ、という『事実』、そのことを、

今のあなたが認めてあげていないだけです。

 

苦しい今だからこそ、キレイさにも、またこだわってしまうのです。

何も傷のなかった過去の自分を記憶から引っ張り出してまで、

そこへ戻りたい、と、こだわってしまうのです。

 

ピュアな過去への羨望にこだわっても、未来は変わりません。

傷ついたあなたは、その傷によって、醜くなったわけではありません。

光市のご主人が、醜い人になったでしょうか?

傷によって、二度と見たくないようなところにまで

「成り下がった、変わり果てた」人だと、思えるでしょうか?

 

このご主人も、また。

生まれて初めて知る、自分の弱さに苦しんだからこそ、

それを越えていかれたことが、とてつもない意味を持つのです。

話を知った他者に、自動的に、勇気さえ与える。

とくに、今のあなた、人の痛みをより、感じられるようになっているあなたに、

そのことが理解できないはずはないだろうと思えます。

 

そしてね、あなたもまた、同じ、なのですよ。

卑下し続けていくのをやめ、自分を新しくしていく、

傷によって変わっても、それでも、生きてみていいのだ、という許可を、

あなた自身が、自分に出していいのです。

あなたなりの変化は『出したあと』に、生まれていくからです。

 

『出したあと』でないと、気づいていけないことが、たくさんたくさん、あります。

だからこそ、出してみていいのです、あなたの許可を。

出すことにより、あなたはそこから、学び始めます、ゆっくりと。

 

今はまだ、まったく何の根拠もないと思われるだろうけれど、

あなたは、自分に、

新たに生きていい、ということを、ゆるしてみてもいいのです。

 

その理由は、いずれ、わかります。

自分がどういう『傷の埋め方』をしたのか、

それによって何が生まれていくのか、あとから徐々に、気づいていくのです。

同時に、なぜ自分が自分を傷つけていたかも、

理解を得るチャンスを、自分で捉えられるようになります。

 

自己からであれ、他者からであれ。

傷つけられた人が、これからも、自分は生きていっていいのだ、という許可を、

自分に与えられること。

その「行為」そのものが、何か、誰かのの役に立つ日が来るのです。

 

どうか、そのことを、この先の人生で、知ってみてください。

今はまだ、何の根拠も、いらないでいいのだ、ということを、信じてみてください。

あなたが、あなたとして生まれ、今、生きている。

ただそれだけの理由で、思いとどまって、埋めてみて、いいのです。

どうか、必要な方に、届きますように。

あなたは、自然にお迎えが来るその日まで、生きていっていい存在です。

だからこそきっと、今、この記事を読んでいるのです。

 

残酷でしょうか。

残酷だと感じられたら、ゆるしてください。

でも、今、苦しんでおられるからこそ、

『先の可能性への力』を持っていることがわかるあなたに、

私が勝手ながら伝えたいので、書いてみました。

心をこめて、届けます。

長くなってごめんなさいね。

 

2015_03_29

Photo by menita
Pixabay

 

ゆがみも ひずみも

ゆがんでいても いいのだ

ひずみがあっても いいのだ

 

完璧な真円にならなければいけないなんて

誰が決めたの?

地球だって 真円じゃないのに

 

自分を叱咤することで

うまくいくのは

もしかしたら学校の勉強だけかもよ

 

勉強ってね 

誰かが「問題」を先に作ってくれていて

そこには必ず すでに「正解」が用意されていて

いつそれに たどり着くか だけでしょう?

 

そして

「正解」に たどり着きさえすれば

問題は 解決するのさ

 

だから自分を叱咤するという「励まし方」を使っても

ある程度までは 伸びるわけで

 

しかもさ

ときどき テストという形で 能力を試されて

それは必ず「点数」に現れるから 成果もわかりやすくて

 

勉強する期間も 範囲も

中間 期末 学年末 入試 などと決まってて

だから何とか 続けられたりもする

 

でもこれ すでに誰かがきちんと作ってくれた道を

淡々と たどるときの やり方なんだよ

 

なのに 人生の問題で 同じように

自分を責め続け 奮い立たせさえ し続ければ

解決策も見つかるはず なんて

どこかで 思ってないかな?

 

もしそうなら それはあまりに危険だよ

それだと延々 外側だけに対処して

自分の内側の 自分に対しては

その声も聞かず 理解しようともせず

ただ叱るだけ 奮い立たせようとするだけだもの

 

いつまで 誰かが敷いたレールを

なんとか探って たどろうとするの?

外側の問題のみに 集中 というつもりなんだろうけど

そうやっていつまで 自分を見捨てて外側に 執着 していくの?

 

正解など 誰も知らないし

正解なんて ないのかもよ

誰かが正解です と認めてくれたとしても

それが真の正解とは限らず

単に相手にとって 都合がいいだけのこともあるよ?

 

なのにいつまで 外側に 答えを求め

外側に 合わせ続けるの?

 

答えは あなたのなかにも

すでに必ず 備わってるんだよ

相手にとってだけ 都合がいいのではない

自分にとってだけ 都合がいいのでもない

折り合える 分かち合える 答えがね

 

それを求めるためには

叱咤だけでは ダメなんだと思う

ゆがんでいる自分

欠けている部分がある自分

それをまず 知って

責めずに

そうなんだな そういう自分がいるなって

ただ 理解する そこからでいいんだよ

 

ねえ 弱い自分がいたら なぜ ダメなのさ?

 

その思い込みを まずは外してみることで

やがては他者の弱さも ゆるせるようになって

すると 他者との関わり方も変化して

自分が少しずつ 楽になるよ

 

責めるくらいなら 自分の内側への視野を

どうか先に 広げてほしい

いろんな弱さを まず静かに 見つけてほしい

そういう自分がいることを

素直に 知ってほしいと願う

 

責めているだけでは もはや変わらないのなら

そろそろ やり方そのものから

捉え直してみても いいんじゃないかな

 

自分を 他人を責めるあなたも また

愛おしい ひとりの かけがえのない

大切な人間 なのだから

 

2014_11_22_1

http://www.amazon.co.jp/dp/B00FLJZ6UY

ほとんど磨かれておらず 内側に黒い部分も持っている

そんな原石のままの 素のままのあなただって

本当はこんなふうに 美しい

 

拒否するだけ 否定するだけ 見ないだけ

それだと 全体像を知ろうとしないわけだから

トータルの美しさなんて いつまでたっても気づけないよね

自分のことは 黒いところしか見ない

そんな偏った視野を続けるの 苦しいよね

 

ありのままの 自分を見て 

いい悪い ではないところで 受け容れてみる

そういう自分であることを 苦笑しながらも ゆるす

 

そこから新たにもう一度 始めてみても 本当にいいんだよ……

 

 

自分の価値、というその基準

今朝、起きて、コーヒーを飲みながらなんとなくPCを立ち上げ、

Facebookを見ていたら、こんな動画記事に出会いました。

日本のサラリーマンと米国のサラリーマンの、

月曜午前中の様子の違い……。

◎国民性出すぎ! 日本とアメリカの営業マンの電話対応を比較してみた

2014_09_13_1_douga

http://whats.be/19988

 

一部、強調しすぎてる面はあるだろうけど、

国民性というか、ゆるさの違いは確かにあるんだろうなー、と。

 

で、朝ご飯のパンを買いに行きつつ、今日は風が心地よいので

ちょっとご近所をぶらぶら散歩していたら、

先月、自分の内側で見つけたことをここでもご紹介した

「私が至らないから、皆に迷惑をかけていく」

という感情と、さっきの映像がふっとリンクし、

「うん、まあ、ゆるくても、いいっちゃあいいんだよな、至らなくてもさ。

 

……。

っていうか、あれ??

私、至らない云々って、そもそも自分が、

どんだけ『至れる』ようになろう、

なれると思ってる!?

と感じたのでした。

 

一見、謙虚であるようでいて、同時に自分のことを過信しているのかも。

それにね、そんな「至れるかどうか」に自分が心を砕ける状態ってことは、

そこへ集中できる環境に、自分が身をすでに置けている、ってことで。

 

その環境って、自然環境も含め、周囲の協力もあってこそ、成り立ってる。

天災や暴動などがあったら、それどころじゃないでしょう。

すでに現在、ある種の安定性が保てているからこそ、

そんな考えにもたどり着くわけであって。

 

そういう意味では必ず、それまでに周囲の助けをすでに借りてきたってことだし、

自分が『至ったわ』ということを、もし考えうるときがあるなら、それこそ、

その瞬間は環境や機会にもものすごく恵まれてるってことだ。

ってことは、そもそも生きてる限り、本当の意味で

私ひとり「だけ」の力で立派に実現できることなど

ありえない

という話だよ……。それを忘れたまま「至ったわ、私!」なんて思った日には、

もう超鼻高々、勘違いのおごり高ぶりもいいところだ。

 

そうだよ。人は、一生「至らない存在」で、でもそういうもの、なんだ。

何か、誰かと協力し合うという世界が、あるだけ。

人間関係のみならず、動植物も地球環境も、全部含めて、そう。

 

ときにはそれが、迷惑になることもあるけれど、それは常にお互いさま。

自分だっていつどうなるか、わからないのだ。

ならば自分が、自分のことを、少しはマシになったかな? と思えるように、

協力しあうだけでいい。

その気持ちを持てれば、実はもう、十分なんだ……。

 

逆に、競争にしがみついてさ、誰かと戦って競い合って、

人を蹴落として昇ると、どこかに後ろめたさも残るしね。

まあ、そうやって「清濁併せのむのが、大物の証だ!」

なんて思う人もいるだろうけれど、蹴落とした人って、

そのあと必ず、今度は誰かに蹴落とされる不安と一生、

戦い続けなきゃいけない。「落ちたらどうする?」って。

たとえ蹴落とさなくても、運だけに恵まれて上昇しちゃったらそうなる。

しかもその「おびえた疑問」を問い掛けてくるのは常に、

自分の心の中の自分だから、キツいね、それ。

 

そういう怯えを持ち続けるのをやりたければ

それは選択の自由なのだけれど、少なくとも私はご遠慮します。

 

とまあ、そういうことで。

ふだんから何かと、できなければならないのに、

こうであらねばいけないはずなのに、

自分の思うとおりに、願いどおりにしたいのに、なぜ、

とかいう方面のぎこちない思い込みに、これからもうっかり、

飲み込まれたり、束縛されることはあるだろうけれど。

私はそのたびに「そういうことを考えられる状態、というありがたさ」のほうへ、

早く気づいていけるようになろう、と思えた。

 

ま、結局は相変わらずまだまだ、

私って『井の中の蛙』でございますわ、というお話でした。

m(_ _)mスミマセン

2014_09_13_2_kaeru