カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

がんばりすぎる→見返りがほしくなる→苦しむ

25日に、友人と話していたときに聞いたこと。

ある男性が米国へ出張へ行く際に、婚約指輪を購入しようと思いました。

この男性は宝飾専門ではありませんでしたが、

商品デザインができる人だったので、ダイヤモンドの原石を買って

自分で考案した指輪を彼女に贈りたいと考え、

婚約者の女性に、確認を取りました。

女性は、婚約指輪なのだから、

ここのブランドの指輪が欲しい、と言いました。

価格的には大きな差はありませんでした。

さて、男性はどうしたかというと、

やはり自分で原石を買い、デザインしました。

そして女性に贈ろうとしたら、女性は話が違う、と怒りました。

男性は、人の気持ちがわからないヤツだ、と怒りました。

そのケンカがもとで破局したかどうかまでは聞いていませんが、

さて、この場合、悪いのはどちらでしょう、という話。

私たちの結論は「まあ、結局はどっちも、かなあ?」でした。

2人で思い出したのは、クリスマスだったせいもあるけれど、

「賢者の贈り物」という話。

今調べたら、そうでした、米国の作家、オー・ヘンリーの短編でしたね(笑)

男性は女性のためにステキな懐中時計を売って、

彼女が密かに憧れていたステキな髪飾りの櫛を買い、

女性は男性のために、豊かで美しい髪を売って懐中時計の鎖を買った、という話。

この場合は

「クリスマス、という毎年のプレゼントであること」

「サプライズ、が基本にあること」

「そのうえでの思い遣りが、お互いにあふれていること」

で、美談なわけですが……。

お互いにとって、一生に一度しかない「婚約指輪」であるがこそ。

彼女が、もともと好きなデザインであると自分ではっきりわかっている、

ステータスもある指輪を欲しがることも、

デザイナーである彼が、自分で考えた指輪を贈りたいと

(宝飾デザインはやっていないけれど)思うことも、

どちらも間違いではない。

そして、ちゃんと事前に2人で相談、確認ができたのであれば。

彼女は、彼がデザイナーであることを知っているのだから、

なぜそうしたいか、どれくらいそうしたいのかを聞いてみれば良かったし、

彼もまた、どうしてもそうしたいなら、きちんと説得すれば良かった。

そこの部分が惜しかったよね、という話。

まあ、がんばってくれたのだから、

これはこれで一生ものだね、と彼女も思えれば良かったし

(ただし婚約指輪のデザインが、その女性の

好みの範疇であったという前提も必要かも、ですが……)、

男性のほうは確認をしておきながら、結局それを無視して、

がんばって愛と努力も込めたのだから

俺のその気持ち付きで受け取れ、と押しつけるのもどうよ、と。

相手の希望を確認しておいて、それを無視した部分だけは

あきらかに男性が悪いよね、という話に落ち着いたのでした。

聞かずにやったら、さらに押しつけだし……(^_^;)

がんばったら、何らかの成果が出て、気持ちがいい。

でもがんばり方がずれていたら、成果が出ないこともあります。

この男性のように「がんばってやったという、その部分は認めてよ!」

というのは、ときに無理なことも、「普通に」あるのです。

そして、ここでタイトルの話につながるのですが、つまりね、

人はがんばったら、やっぱりその成果が、見返りが、欲しくなるのです。

「がんばったこと自体」のすがすがしさもまた、成果の一つではありますが、

それが責任を伴えば伴うほど、量などが増えるほど、見返りも欲しくなる。

これもまた、当たり前のことだと思えます。

お金だったり、愛情だったり、感謝の言葉、笑顔、喜んでいる様子。

苦労すればするほど、そういうのを得た、見たときに、

「ああ、やってよかった」と思えるわけです。

ということは。

最初は「がんばること自体」の楽しさ、があれば、そこそこできたのに。

がんばる必要があることが増えていくと、見返りがないとやっていけなくなる。

楽しい範囲を超えてまで引き受けすぎると、

楽しさよりも見返りが目当てになっていってしまうかも……なのです。

で、この金額ではこれ、割が合わないや、とか

これだけやったのに、その評価かよ! という不満にもつながる。

なので、ものすごくがんばったのに、

やがて残るのは「むなしさや疲れ」「不満」だけになっていく……。

という悲劇が生まれてしまったりもするのです。

なので、まず楽しい範囲、でとどめて欲しい。

楽しさを見つけながら、そこに意識を集中してやるのが「基本」。

で、責任があって、どうしても、量や質などを、とどめることが難しければ、

「こっちを先にやるから、こっちはあとで」みたいな形の

交渉を、「あらかじめ」きちんとしてほしい。

引き受けてしまってから遅れる場合、

どうしても、最初に責められるのはこちら、なのです。

たとえ相手がかなりの無茶振りをしてきた結果だとしても、

引き受けてしまったのは、自分の選択。

その部分の責任だけは、どうしようもないのです……。

見栄でもなく、「できない」と言ったら評価が下がるという恐れでもなく、

素直に、可能かどうかを判断できる「感覚」を、忘れないでください。

これとはまったく逆の意味で、自分がまだ未経験、未熟であるうち、

まだ能力的に「できていない」段階で、

つまらない内容だからなどの理由で「こちらの適性をわかっていない」だの、

「こんな役割を振るのはあいつが悪い」だの、

相手のほうばかり責めて、非難ごうごうになる方もいますが……。

その量が適切でなければ、先に交渉すべきでしたし

その質がハイレベルすぎるときも、先に交渉すべきです。

低レベルの内容であるなら、さっさと終わらせれば、

自分を見くびった(?)相手に、能力をきちんとアピールできますよ、

ってだけの話で。

引き受けたあとで文句を言うのであれば、自分が本当に

それをさっさと完璧にこなせるレベルにあるかどうかは、

必ず冷静に判断してからにしてください。

でないと、相手から

「それをスラスラできるようになってから、自分の希望を言え」と

言われても仕方ないことを、知っておいてください。

……厳しいかしら(^◇^;)

仕事や各種のおつき合い、家事に限ったことではありません。

たとえそれが、子育てであったとしても、なんだと思えます。

やはりそこには共通する部分が、必ずある。

自分のペースは自分でしかわからないし、適性の問題も、どうしてもあります。

やり方を工夫してみて、それでも向いてないなら、

やり方を大きく変えることも必要です。

たとえそこで自分の評価が下がるとしても。

見渡してみて、何がいけないか、どう改善すればいいかを考え、

相手(周囲の協力者、関係者など)に、きちんとその辺をわかってもらいたいなら、

こちらもまた、まず冷静に自分を判断してから、しかも

「相手側にうまく伝わりやすい『伝え方』を、自分で工夫して努力すること」も、

大切なんですよ……というお話でした。

結局、できるにせよ、できないにせよ、

がんばるうえで虚勢や見栄を張ったら、

あるいはまた、状況を伝える交渉を「おびえ」ゆえに逃げたら、

さまざまな問題が発生するかもしれず、しかも、

結果的には、自分が苦しくなっていく一方なのです。

……もちろんこれは、過去に自分がたくさん、

痛い思いを経験したから、自戒もまだまだ含めつつ、の話。

言葉が刺さった方がいたら、ご容赦ください。

「役に立つ」ことと「認めてほしい」こと

誰かの、何かの「役に立つ」ということ。

例えば仕事や家事、ボランティアなどの奉仕で考えてみると

わかりやすいと思うけれど、

やってみた結果、それが役に立ったと感じられれば、

また次へのモチベーションも生まれる。

自分にそれが任されているという責任感の大きさも

感じるだろうし、その任される、という機会を

与えられたことに、誇りを感じたり、

相手からの信頼を感じたり。

そういう達成感、うれしさ、というメリットがあるからこそ、

自分のなかにやりがいが生まれる。

だからこそ、それを感じたくて頑張るのだし、

できれば相手から、言葉や愛情や、仕事ならお金、立場、

物質的なプレゼントも含め、それを示してほしいと願う。

が、しかし。

そのメリットが、達成するためのモチベーション、

よい意味での「目の前のニンジン」であるうちはいいけれど、

ときに、メリットが常に感じられないと

やる気が起こらない、なんてことになったりもする。

ある一定期間で100やるところを10やった段階で

まずいったん示してよ、だったり。

また逆に、自分の達成感をもっともっと、と求め、

本来なら100でいいところを

120、150と勝手にハードルを上げてしまうこともある。

私は後者の考えで鬱になってしまったクチだけれど、

自分がハードルをそうやって上げたり下げたりしていることに

全然、気づけないでいた。

要は、認めてほしかったんだと思う。

これだけのこと、やりましたよ、ほらほら、どうよ、って。

やってみて、相手からの信頼もその行動に対する誇りも、

すべて結果として生まれるもので、

たとえ直接的にはほめられなくても、

役に立っていること、その喜び自体を

「自分自身が」もっと味わえていればよかったと。

なぜ、それが狂っていったか。

今日も1日やり遂げた、手を抜かず頑張った、

そして一定期間かけて終わらせた、仕上げた、という

事実を味わうことを忘れ、

その先、つまりやった結果生まれる、ほめてほしい、

認めてほしい、ということを「目的」にしてしまっていたのだ。

そのすり替え原因の根本にあったのは、

たぶん「怖れ」だったと思う。

認めてくれるのかな、ほめてくれるのかな、信頼を得られるのかな、と。

それが仕事でなく、家族間や友達、恋愛であれば

「愛してもらえるのかな」という怖れになるのだろう。

何か、誰かの役に立ってうれしいのは自分。

その喜びを感じるのは自分。

その喜びを、自分が何よりも受け取っていいはずなのに、

他からの評価、言い換えれば自分以外からの見返りを、

いつの間にか目的にしていたのだ。

こうなると、キリがなくなる。

極端な言い方をすれば、底なし沼状態の見返り欲にはまる。

責任感、という言葉を自分への言い訳に使ったりしながら、

認めて、認めて! 信じて! ほめて! 愛してよ! と

誰かに叫び続けることになる。

相手にそういうものを示してもらうことが「信頼や愛情」の証になり、

ひたすら、それだけを欲しいがゆえに頑張るのだ。

少しずつ頑張っている、あるいは、

きちんとやり遂げ頑張ったという事実さえも、

自分では認めてあげず、置き去りにして。

うん、そりゃあ私、苦しかったはずだわ。

「今日も1日、つつがなく頑張れた」ことを

全く忘れてたんだから。

自分が日々、自分を認めてあげられてなかったんだから。

当たり前だから、仕事だから、あるいは大人だから、責任あるから、って。

しかも私の場合なら、文字に触れるという部分は、

仕事のうえでの喜びのひとつだったはずなのに。

そんなことはもう、すっかり忘れてた。

達成、達成、達成。

見返り、どうかちゃんと、あとからでもちょうだいね、

give me please 信頼&愛情。

……。日々、健康に、息をして、身体が動かせて、

多少の失敗があったとしても、つつがなく1日を過ごし、

さらに言えば1日を過ごせる環境をある意味、周りの協力もあって

与えられ、自分でも努力して獲得し、ときに喜び、楽しんで。

そんな感謝やありがたさやうれしさも置き去りにしていた。

慣れたから、当たり前で。

役に立つこと、自体を、もっと味わってよかった。

認めてもらえるかどうかを怖れ、おびえ続ける必要まではなかった。

人よりある程度は抜きん出て認めてもらわないといけない、

そのために立派に正しくあらねばならない、

なんてことも、どこかで感じていたのだと思う。

結果を出すより先に立派である必要はなかった。

確かに結果が派手な達成、だと、周囲がある程度、

勝手には認めてくれるけれど、

世の中で、長い期間に渡り、スゴイな、と感じる相手というのは、

1日1日、少しずつ積み重ねるという形で努力し、

そうした1日をまた大切にもし、

日々の自分の領分を達成したことを自分が認め、

日々の努力を無理なく続けていらっしゃるな、と思える人だ。

そういう丁寧な積み重ねをするからこそ「結果として」

認めてもらい続けられる……ということになるのだと。

瞬間的な成功者、でもなく、その場限りの

信頼や愛情のお返し、などでもなく……ね。

恋愛でたとえていえば、誰かを想うということが「できる」こと、

そういう相手に恵まれたことそのものが、

ときに片思いであってさえ、嬉しかったはずなのに、

いつのまにか愛や信頼を返してもらう、認めてもらわないと

気が済まない、という事態に陥り、

いつも「返してもらえるかな、認めてもらえるかな」を

目的、愛情の前提にしてしまって、一緒にいられること自体は

本気で真摯にうれしく、ありがたく思わない……。そんな感じ。

見返りがないとやってられない、という気持ちも、もちろんわかる。

何も役に立ってないような気持ちに陥ってしまいそうになる。

でも、任された、という時点ですでに必ず
、程度はあるにせよ

きちんとやれば結果として「役に立つこと」が

すでに相手から想定されている、ということだ。

もっと言ってしまえば、そこにずっといること、

たとえば誰かのそばにいることを許されている、というのなら、

その段階ですでに「自分がいること自体」が

何らかの役に立っているのだと。

たとえ反面教師的な役割であってさえ、

誰かの存在は、誰かに影響を与え、

その影響をどう受け止めるかも、

受け止める人次第、という面は、確かにあるのだろう。

願わくば、その役割も、受け取り方も、

心が痛む方向でないことを祈るけれど。

……うん。前よりは随分、マシになったとは思うけれど、改めて

日々の自分を「ないがしろ」にするのは、

もっと本気で、やめていこう。

できていることを、できたことを、

呼吸して今、生きている事実さえも、

自分が何らかの形で役立ってきたという証だ。

そう、死を選ばなかった結果、そのあとのさまざまな経験で

思い知ったのだけれど、そもそも家族や親族、友達にとっては、

生きていてくれるのが当たり前と、思ってもらえてはいる……。

そこまでの基本に毎日、立ち返る必要はないにせよ、

「自分がやっていること」をもっともっと、大切にしていこう。

1日ケガもなく無事に、つつがなく過ごす……ということ、

働くことも楽しむことも、つまりそれらはちゃんとした結果なのだし、

その結果、というものを、よく過ごせたということ自体を、

誰よりもまず、丁寧に自分が認めてあげようと思う。

その積み重ねはまたやがて、何かを生むはずだから。

穏やかな満足感とか、周囲への感謝とか、

そういういろいろな温かいものを、きっと必ず、生むだろうから。

失敗してはいけない子

子どものころから 全部 何ごとも 上手にやらなくちゃいけなくて

失敗しそうになったら 親がすべて手助けしちゃう子は

大人になって社会に出たとき 失敗したら 大変なことになるそうである

失敗したときの 挽回の仕方が わからないから

「私は 僕は つねに上手に やらなくちゃいけない」子になってるから

……それが重なったら どうやって生きていけばいいかわからない 迷子の出来上がりである

失敗を どうやって乗り越えるか それを 後ろから 支えてあげても

前に回って あれこれやってしまったら その子自身が智恵を養う機会を 奪ってしまうそうである

これは 親に限らず 恋人や友人 後輩 いろいろなところで 言えることで

あなたが 手をかけすぎてあげると 相手は依存してしまって 自分で何も考えなくなるのである

何かにつまづいたとき 自分でやってみようと思わず それ以上の失敗がつらくて嫌だから ただ困り

立ち止まり 迷って 落ち込んで 人に頼ろうとする

ここまで読めば 逆の立場で 思い当たる人がいるだろう

あなたは あなたのせいじゃないけれど 誰かに すがってないだろうか?

だれかに 前に回ってほしいのに と 思っていないだろうか?

何より 失敗してはいけないのに 失敗ばかりだと 思ってないだろうか?

失敗が怖くない人は 多少はまあ いるけれど 失敗が好きな人は そうそういない

みんな失敗したら「あーあ」って思うんだよ がっかりするんだよ

でも その人たちとあなたの違いは 失敗が 絶対的な悪ではなく

失敗しても なんらかの形で 挽回はできると知っていることにある

だから あなたほどには自分を責めず 挽回のほうへ 意識を向けて 済ませることができる

自分の失敗を 失敗したなと認めても どうして自分は……と 責め続けないのである

ふだんは上手に 意識を切り替えられる人でも

鬱になっているときは 自分を責めやすく ショックも忘れにくいから

似たようなことが起こっている可能性はあるだろう

でもさ 誰でも 失敗するの

誰でも 全部はうまくいかないし

鬱になったら 結構 いろいろなことで 失敗するの

でも それがどうした?

たとえば対人なら 謝り 丁寧に対応することで かえって 信頼が増すことさえある

その結果 失敗は信頼の元になっていく それは果たして 悪いことなのか?

失敗で 大きいものを 得られる可能性があるのであれば

それは失敗ではなく あなたの想像していた以外の 手順だったということかもしれない

あなたの理想通りに 想像の範囲内で ものごとが進まないといけないなんてことは 決まってないのだから

だからね 失敗は してもいいんだよ

自分の想像なんて 予想なんて たかが知れてるからさ

その通りにいかなくても それは失敗ではないし

そこから やってみれば また新しいやり方が 考え方が 楽しみが見つかることもある

失敗を 「間違い」に置き換えても 同じことが 言える

違う形になったからこそ 新しい世界が広がるってことが あるのだ

だからどうか 怖がらないで 自分を責めすぎないで

それによって生まれた 新しい世界を(そう 挽回の過程でさえ 新しい世界である)

見つめてみる時間を とってみてほしいと願う