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ここから新たに始める、ということ(2)

じゃあ、どうやって、視点を変えたらいいのよ、と思う人もいるだろう。

私はそこに縛られて、縛られ続けていて、苦しいのよ、と。

やり方は、まあ、世間一般的には、いろいろあると思う。

酒に逃げたりするのも、一種のやり方であることは間違いない。

でも「逃避」は、実は「縛り」である。

受け止め方を変えないまま「見ないようにすること」は、結局は「自分を縛っている」のと同じ。

かえって、常に心のなかでうつうつと根付いて、密かに存在感を増し、余計に自分を動けなくさせるだろう。

逃げていては、ダメなのだ。その傷に向かえるようになったときに、

傷そのものを、捉え直してみなければ。

それができない間は、誰かのせいにしたり、自分のせいにしたり、黒い気持ちを抱えたままになる。

傷が深いうちは難しいが、黒い気持ちを手放すために、少しずつでも、見つめ直してみるのだ。

これもまた、1つの例。

震災が起こった。福島が汚染された。政府はひどい。電力会社もひどい。

さあ、これをずっと「そのまま」抱え続けたら、どうなるだろう。

日本に住みたくなくなるかもしれない。

それならそれでいいのだが、では北欧に行けば幸せかというと、そうとも限らない。

文化や言葉の違い、気候の違い。食べものも社会も、全部変わる。

では「ひどい」と言い続けたら、国は変わるだろうか。

おまえらはひどい、ひどい、と言い続けたら、相手は反省するだろうか。

ひどいと承知でやっているのだ、国の発展のためとか、大義名分をつけて。

ある程度までは対応するだろう。でも肝心な部分では、さらに巧妙に言い訳するだけである。

であれば「こうするべき」という代案を、冷静に出していくほうが、よほど効果があるのではないか。

あるいはその代案を、冷静に、支持し続けるほうが。

国や電力会社は知っててやっている。

もともとが、「あなたはなんてひどいんだ!」と言われて反省するタマではない。

怒れば怒るほど「巧妙」になる、あるいは強行するだけだ。

であれば、こちらが利口になろう。

怒りを、憎しみを、静かな「代案支持」に変えていくほうがいいのではないか。

日本人が「デモ」をすることは、1000万人だって、効果が薄い。

なぜなら「デモしない人たちが支持」すれば、政治家や電力会社はそれで安泰なのだから。

日本の人口のうち、20歳以上は1億人ちょっとだそうなので、デモの規模が5000万人を越えたら

さすがに政治家も考えるかもしれないが、それは残念ながら、今の日本では実現しないだろう……。

インドのガンジーが非暴力運動を続けたとき、人々が静かに軍に立ち向かい続けたがゆえに、

軍の人たちは、自分の行いを振り返らざるを得なかった。

憎しみは、相手にも反発を生み、憎しみの連鎖を引き起こすことが多いが、

静かで真摯な気持ちは、相手を変えることができるのである。

であれば、真摯に静かに対応したい、と、私は思う。

これが、憎しみや悲しみを「別のものに変えていく」ひとつの例である。

少し、わかっていただけるだろうか。

次はもっと身近に、自分の例を挙げてみたいと思う。憎しみ、ではないのだが、「縛り」という観点で。

ここから新たに始める、ということ(1)

これは、長い話になると思う。分割して書くことになると思うので、了解してほしい。

自分の経験も例に挙げながら……書いてみたいので。

1つ前のブログで、書きながら思っていた。

何かのせい(それが親でも、家族でも、友達でも、恋人でも、会社の上司や同僚でも)で、

自分が傷つけられることは、社会の中で生きている以上、絶対にある。

戦争や天災にだって、人は傷つく。

それは確かに、周囲のせいである。

じゃあ周囲のせいで傷ついた、そのことをずっと「そう思ったまま」生きていて、楽しいだろうか?

さらには、過去の自分の過ち、失敗した自分、それによっても人は傷つく。

そのダメな自分、という部分を反省することは大切である。

でも反省は、「次に生かす」ためにするものである。

ダメなことをした自分を「こんな自分なんて、どうしようもないダメ人間だ」と

抱え続けたまま過ごしたら、それは単なる「後悔」である。

後悔をずっと抱えて生きていくのは、いいことだろうか? 楽しいだろうか? 幸せだろうか?

本来、人は、すべからく「幸せ」であっていい存在だ。人生を楽しんで、幸せに生きていいのだ。

苦しいこと、悲しいことはあれ、うれしいこと、喜ぶことを、存分に味わっていいのだ。

なのに、その「暗い気持ち」のまま生きていって、本当に楽しめるだろうか?

とくに深く傷ついたときは、そのことを思い出すだけで、心の中に血が流れるだろう。

だから傷ついた当初は、まずその「ショック」を和らげることのほうが大事な場合も多い。

でもそのショックが少し薄れてきたとき、その傷を「そのままの形」で抱えていたら、

ただただ、延々と苦しみ続けるだけである。

傷が深ければ深いほど、和らぐには時間がかかるかもしれない。

でも、少し立ち直ってきたと思えるなら、その傷を「治していく」方向へ、視点を変えていいのだ。

一例として、私が話を友人から聞いたことのある、子供を事故などで失った親同士の自助会を挙げる。

最初は、自分の傷を同じ思いで受け止めてくれる仲間がいることに、心から安堵する。

加害者がいた場合は、その加害者に対する憎しみを吐き出しても、誰もその罵倒の黒さをとがめない。

誰かに自分の気持ちを受け止めてもらうことは、傷を癒すことに、とても効果があるのだ。

が、しかし、しばらく時が経つと、そのグループに参加し続けることが、別の意味で苦しくなる場合がある。

そうした自助会は、つらさを吐き出すためのものだから、自分がつらさを吐き出して落ち着いてきたときに、

ある種の「傷のなめ合い」になっている、というふうにも、見えてくるからだ。

もちろん、全員がそう思うとは限らない。でも長い間そこにいることで、

逆に「そこから脱する」ことが難しくなる場合も、確かにある。

本来なら、傷が癒えてきたら徐々にその傷のことを忘れ、

新たに、その子がいない人生を生きていかなくては、と思う一方で、その自助会にいる限り、

ずっと「大きな傷を、大きな傷として抱えたうえで参加し続けなければいけない」からだ。

自分が助けてもらったのだから、と恩を感じれば感じるほど、お返しをしなくちゃ、という気持ちになって

気持ちのズレを抱えたまま、無理を続ける人も多いという。

あるいは「加害者のことをもゆるしてしまうことにつながるのではないか、

それでは亡くなった子に申し訳ない」と。

これでは「傷を癒す」ために参加したはずが、いつの間にか「傷を抱え続けなくてはいけない」ことになる。

だから本当は、「感謝の気持ちを持ったまま、やがては卒業していっていいのだ」ということを

自分に許可する必要がある。

黒い気持ちを感じ続けること自体、本当は、人の気持ちをむしばみ、傷つけていくのだから。

先日書いた本村さんも、裁判に関わっていく間に「死というものを、人が人に、本当に宣告していいのか」

という点で、途中から悩まれていく。それは「憎しみ」とは、別の視点だ。

他人から受けた傷にせよ、自分でつけた傷にせよ、このような考え方、視点の変わり方を、

「自分に許す」ことが、やがては大切になってくるのだ。

……つづく

欲の幅、その見極めと変更と

起きる。

顔を洗う。

着替える。

ご飯を食べる。

家事など、自分にとって必要なことをする。

風呂に入る。

寝る。

ときに、トイレに行く。

身体を清潔に保ち、栄養を摂取し、病にかからないための作業。

生きていくうえで、家と服と食料があれば、これらは基本的にできることである。

そして生きることを、作業の面だけで言えば、これだけでいい。

仕事は自分で稼ぐための手段であり、稼ぐのはすなわち、上に書いたものを維持するために行うこと。

生きるうえで、呼吸は自然に行われ、心臓も意図せずとも動いてくれる。

あとは、維持である。

もちろん、それだけでは「つまらない」から、何かをしようとし、得ようとする。

それは生きていくための作業ではなく、「日々を楽しむ彩り」。

そこで、まず必要なお金を十分に得たりすることが作業として加わる。それが仕事、である。

全員がやらなくてはいけないことではなく、家をキレイに保ち、健康を守ることに集中して

その役割を主に担うのが、主婦や主夫。稼ぐ人を支える役目である。

……と、こういうふうに書けばわかるが、生きることは、シンプルである。

病などにより、健康を維持できなくなってくると、このシンプルさを保つのが

通常より難しくなるが、それでもたいていの人は、病院に行ったりしながら、

できる範囲で、自分のくらしを保とうとするだろう。

そこに「ややこしい問題」が加わってくるのは、ひとえに「もっと幸せになりたい」からである。

ごめんね、こういう言い方をすると身もフタもないかもしれないけれど、

これ以上のことって、結局のところ、基本は「欲」「願望」なのよ。

もちろん、身近に病人がいて、介護等、そのお世話もあって、など、必要な作業の種類や内容は

人によって千差万別である。でもそれも、誰かが「日常生活を営むのが困難」なゆえに、

サポート役を担当するってことであり、生きていく面でのシンプルさは、大きくは変わらない。

自由になる時間がないから、とか、自分の思った通りにならないから、とか、

そういうことで「不満」は溜まるのだけれど、それは「自分の人生を充実させたい」ゆえであって、

つまりは、あなた個人の願望がどれだけ叶えられるかどうか、の話になっていく。

欲を持つのが悪いってことでは、決してない。

人生を楽しむことはもちろん、生きていくうえでとても大切な要素だ。

でもね。欲ゆえに、キリがないんだ、ってことは、わかってほしいのだ。

誰か、他人によって明らかに自分の行動が制限されているなら、それは単純につらいと思う。

人は、自分の幸せを自分で選んで謳歌するほうが楽しいに決まっている。

でも、ここで、考えてみてほしい。

毎日が不満だらけの人は、いったい、どれほどの願望を持ち、それをかなえたいのだろうか? ってことを。

とくに鬱になると、本当に毎日がダメダメに感じる。

単純な作業でさえできにくくなるし、人間関係もややこしくなる場合があるから。

食べることだって、ままならない人もいるだろう。

でも、毎日三食、ご飯とおかずを必ずきちんと食べないといけないわけでもないし、

睡眠サイクルが狂っても、ある程度身体は維持できる。

それですぐに死んでしまうわけでもない。

つらいのは、今の自分が日々を楽しめないからである。

自分が思い描いた通りの人生じゃない、と自分で「決めている」からである。

じゃあ、そのあなたの決定は、変更、改訂、一部消去できる部分って、まったくないのだろうか?

それはあなたにとって「敗北」なの? なぜ? いつ、そう決めたの?

どんな要素で? そこに過剰な自信はなかった? 無謀な理想はなかった?

どれほど「周りに言うことをきいてもらう、協力してもらう」要素が必要?

どれほど「お金」は必要? どれほど「名誉」「尊敬」「出世」が必要?

先ほども言ったように、生きること自体は、そんな大幅に、困難な作業が必要なわけではない。

ある一定の水準、自分の決めたレベルが達成できないから、と悩むのは、

その部分ですでにあなたの「願望」「欲」が加わっているからなのだ。

学校や職場や、もしかして家庭で嫌な人に囲まれてつらい、と思うのも、

その人たちが欲をあなたにぶつけてくるからであり、

あなたもまた、自分の欲を相手に叶えてもらおうとしているのかも、しれないのだ。

それが根本的な前提としてあるから、お互い、つらくなるのだ。

何度も言うけれど、欲があることが悪い、と言っているのではない。

ただ「見方を変える」「受け止め方を変える」ことで、何か、自分がよりラクに、楽しくなれるのであれば、

それって、OKなのではないだろうか。

その欲に固執する必要がどこまであるかを、見直してみてもいいのではないか、と思うのだ。

欲をぶつけてくる相手を、まともに受け止める必要が、あなたにあるのだろうか?

では、戦わなくてはいけないとしても、どこまで?

稼がなくちゃいけないとしても、どこまで?

「ちゃんとしなくちゃ」の「ちゃんと」って? そのゴールって、絶対なの?

欲をさらに「人間として」だの「正しい」だのという判断に持ち込むと、

自分自身ががんじがらめになったりする。

自分は、間違ったことはしたくないから。相手は、間違ってるから。悪いから。

……自分も、本当は聖人君子ではなく、普通にちゃんと「欲」を持っているのだ、ということを、

忘れてしまうのだ。

その希望をかなえたいのは「あなた」の都合である。

あなた自身がそう「決めて」、目指して、やっている。

相手の横暴さに耐えろ、と言ってるわけでもない。自分をを守るために、戦うこともときに必要だ。

あなたは、相手の欲や希望を叶えるためだけに、存在しているわけじゃないから。

あなたは、独立していていいのだから。従属しなくて、いいのだから。

ただ、鬱々と過ごしていく日々のなか、病気になっていることにさえ落ち込んでいるなら、

自分が苦しんでい