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受け止め方、の難しさ

鬱の状態のときに、自分のことを悪く受け止めてしまうことは、「症状」として仕方のないことである。

仕事などで実際にうまく動けなくて迷惑をかけることもあり、そういうときはなおさら、心苦しく感じるだろう。

が、しかし、それは高熱や大けがのときに動くようなものであり、判断力も動作もにぶる。

本当に、そういう症状なのだ。

その「症状」、高熱が出ている、あるいは怪我をしている自分自身をどんなに責めて、反省したところで、

熱は下がらないし、傷も治らない。

休んで安静にして、熱が下がりやすくなるよう、傷が治るよう、身体に協力するしかない。

それは心の問題でも同じだ。もっといえば、心の痛みだからこそ、さらに、痛むような考えや思いそのものを

やめるようにしないと、傷口が広がったり、さらに熱の原因を増やすだけなのだ。

とはいえ、何ごとにつけ、悪く捉えるよね、どうしても。

で、それがいけないとわかってても、今度は「なんでこう捉えてしまうんだ」と、別の角度から嫌気がさしたり。

まさにそれこそが、やっかいだけれど、「罠」のようなものなのだ。

怪我の部分にナイフを使うのをやめて、金づちに持ち替えただけ。

自分責める、という意味において変わりはない。

難しいことを承知で言うけれど。

そういう考え、思考そのものを、まずやめてほしい。

何があろうと、どんなことになろうと、自分が自分の受け止め方を、自分で変えていかない限り、

その罠のようなスパイラルから抜け出すことはできないのだ。

どんなに失敗しても、いい加減でも、自分に甘くても、違和感を感じても。

「自分が悪い」という単語を、頭のなかからなくしていくしかないのだ。

「悪いと思ってはいけない」「悪いと思ってはいけない」とこだわっても、スパイラルにはまったままになる。

それもまた、別の角度からの、自分の否定だから。

自分に、命令することをやめること。

こうあるべき、こうするべき、こうならなくてはいけない、という指令を頭で考えて自分に出すのを、やめること。

今、病にかかっているあなたにとって、「こうでなければいけない」という制限は、必要ない。

せいぜいが、「他人に八つ当たりしないようにする」ことと、「誰かを心理的・物理的に傷つける」ことに

気をつける、くらいだろう。鬱のときにそれをやってしまうと、あとで後悔の念が湧いてきた場合、

他人が相手なだけに、とめどがなくなってしまうから。初めから、そうなることを避けるようにするほうが無難だ。

それ以外のことは、すべて「放置する」。脇に置く。仕方ない、と思ってそのまま、どこかに置き去りにしてしまう。

本当に、仕方ないのだ。あらゆることが、仕方ない。

自分を責める自分を、ただ、止める。その思考を、続けないようにする。

たぶんたいていの場合において、あなたが思っているほど、あなたは大きな何かを仕出かしたわけではなく、

多少、周りの評価が甘くなったことにより、違和感、異質感を感じるようになった、その辺りが変化する程度だ。

プライドの高い人なら、そう見られること自体に耐えられなさを感じるかもしれないが、

「病気になってしまった」のは事実であり、なってしまった以上は、ふたたび、

あらためて、そこから変化していくしかないのだ。

あなたの感じている過去は、今、何があっても、変えられないのだから。

はっきりとした自分の例を一つ上げる。

私は1人目の知人を亡くしたとき、確かに激しく後悔した。ものすごく自分を責めた。

その知人が死にたくなっていたその気持ちを、一番「近い感覚」で理解していたのは、たぶん、私だったから。

その後、その知人のお墓を訪ねる勇気がやっと現れたとき。

冬の寒い日、雪の中に建つ墓石に向かって、私は号泣しながら謝った。

墓石に向かって、泣きながら「ごめんなさい」と何度も何度も繰り返した。

でもね。もう、その知人が戻ってくることはない。

私がどんなに激しく反省し、後悔したところで、その知人の命は、二度と戻ってこないのだ。

では、私にできることはただひとつ。

残された者の痛みを、これほどきつく、激しく、自分が受け止めたのであれば、

私は他の人に、この痛みを与えるようなことは、してはいけないということ。

そのためには、この病を克服するしかないんだ、ということ。

それしか、ないのだ。そう思えた。

ここまで激しいものでなくても、あなたが自分を責めることは、きっと、応援してくれる周囲にも、

痛みを与えるだろう。そして何より、あなた自身に、もっとも痛みを与えることだろう。

その病を、治したいのであれば。

今、また、そこから、新たに始めていく。今から、徐々に変わっていく。それしかないのだ。

そのために、自分を責めていくような思考回路からは、脱していく必要があるのだ。

家事などの作業でも、趣味的なことでも、寝る、でもいい。とにかく、マイナスのスパイラルを

切り離す練習をしてほしい。

過去に対しても、事実は変えられないけれど、あなたの「受け止め方」を変えることはできる。

「ああ、ある意味、あのときはそう考えても仕方なかったな」などと、解釈を変えることは、いつかできるのだ。

ただしそれは、切り替えられるようになってからの話である。

変化していく時間は、人によって違うだろう。

でも、変えられない人はいない。器質的な何か、はっきりとした原因がない限り、

生まれつき鬱であった人はいないはずだ。

そこへ「変わっていった」のであれば、さらに変わっていくことはできる。

せめてそのことだけでも、心にとめてもらえればと思う。

少しずつ、少しずつ

気持ちがつらくて動けないときは、いろいろなことができなくなって、よけいに自分を責める。

人は落ち込んだら、サクサクと動けない。そんなことは当たり前なのに、

この病になると、とたんに自分を責める材料に切り替えてしまう。

今までできていたことを全部いっぺんにやる必要はないのだ。

そんなことは、病が治ってから「できるようになる」練習をすればいい。

習慣づけ、をやり直せばいいだけのことだ。

そんなことよりも、いまは「とてもつらいのにできた」というところを味わうほうが、

よっぽど身体にも心にもよい効果が出る。

まず、眠るしかできない人は、寝てみよう。こんなにたくさん眠れるのか、と驚いてみよう。

それだけ、疲れているのだ。ああ、今まで大変だったんだなあ、心と身体。

今も毎日、疲れてるってことだなあ。

気持ちが弱まると、身体は休息を求めるんだ。

そういうことをしみじみ実感するために、眠っていいのだ。

少しだけ、なにか、できるようになってきたら。

少しだけ、気の向いた家事に着手してみる。

たとえば本棚の整理。

どうせ途中で疲れちゃって、本が散乱して、さらにそれで、イヤになるに決まっている。

頭の中ではそういう想像をしてしまうだろうから、たとえば棚ひとつ分。大きい本棚なら、半分でもいい。

段ボールや大きい紙袋をひとつ用意すれば、散らばって大変なことになる、なんてこともない。

どうしても取っておきたい大切な本、これはもう、処分してもいいかな、と思える本。

単純に、そういう感じで、最初は分類していこう。

途中で本を読み始めても、別に構わない。本を読む気力が湧いたなら、おめでとう! って話になる。

同じように、音楽のCD、映画のDVD、ゲームのソフト、洋服、趣味の小もの……。

自分が元気なときに好きだったものを、本当に少しずつ、整理整頓していくのだ。

絶対、大がかりにやろうとは思わないこと。

それは普段だってなかなか手がつけられないんだから、小さい変化を繰り返すこと。

最初にザッと仕分けしてから、そのあと改めて並べ直してみてもいい。

繰り返すことで、いろいろ、頭を働かせることができる。だから二度手間・三度手間もOKだ。

ほかに、掃除でも洗濯でも、押し入れの整理でもいい。毎日ゆっくり、少量ずつ。

とにかく、そうやってほんの少し動くことで、「すがすがしさ」と「達成感」を味わえるのだ。

人の脳はやり始めてからしか「やる気」は出ないから、着手するまでがなかなか面倒だと思う。

でも、ダマされたと思って、ちょっとだけやってみてほしい。

単純な行動による小さな達成感の積み重ねが、今のあなたの心に、どれくらい明るさを

もたらしてくれるか。それはまさに、やってみればわかるのである。

たぶんきっと、少しくらいなら、そういうゆとりの時間はあるはず。

本当は散歩などでもいいのだけれど、それこそ継続は難しいだろうから、まずは家の中で、

自分で自分のハードルをあげないように気をつけながら、ゆっくりやっていこう。

子どものように、「できた!」って思えたりすると、ただそれだけで楽しいよ。

そして今は、それでいいのだ。小さなことこそが、あなたの心に効く“練習”になるのだ。

後悔も反省も。

後悔、は、過去に視点が向いている。

反省、は、これから先の自分を、見ようとしている。

私は、ずっとそんなふうに思えていて、「反省するとも後悔せず」ということを、意識してきた。

だって、悔やんだって、あとの祭りなんだもの、絶対に。

そりゃあ、「しまった」と思ったことは、これまでいくらでもあるけどね。

あと、「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがまし」という言葉も、そうだなあ、と思っていた。

やってみれば、少なくとも「その結果どうなるか」はわかるから。

「もしやってみた場合」という妄想で頭を悩ませるより、実際に経験してみたほうがいいや、と思っていた。

が、しかし。

鬱になって動けなくなったときは、「反省」なんてまったくできなかった。

私の場合は仕事のしすぎゆえだったので、それを「後悔」という形で悩むことはなかったが、

「なんでこうなっちゃったんだろう」とは思った。

ましてや反省なんて「何を今? この先、動けるとはまったく思えないのに」って感じ。

未来を向くことができない自分が、反省すべき点など、考えつくはずもなかった。

ただただ、「どうしたらいいんだろう」「どうなるんだろう」、それしか思い浮かばなかった。

鬱のまっただ中にいるときは、そんなことに気が回らなかった。

そう、本当に視野がすごく狭くなってて、それらを考えられるような状態ではなかったのだ。

で、とにかく、こんな自分がイヤ、どうしよう、どうしよう、って、そればっかりで。

そりゃあ、そこしか見えなくなっちゃう病気なんだもの、そう思うよね。

でも、そのことには「気づいていなかった」。あくまで、自分は自分の考えを保っていると

思っていたから、「ダメだ、死のう」につながっていった。

たぶんね、鬱のときは、そういう思考が向いてない、というか、

それすらちゃんとできない脳みそになっているのだ。

だから実は、後悔も反省も、まだ必要ない。

だって自分を否定しかできないし、頭はもや~っと重たいし、身体は動かない。

反省したって解決策も思い浮かばないし、後悔なんて、エンドレスに落ち込んでいくだけだ。

周囲からもし、責められたとしても、すいません、で放置しちゃうくらいでいい。

実際、自分がダメな点以外、耳に入らないでしょう。

本当は責められているんじゃなく、心配されている場合だってあるのだけど、

それすら「責められている」ようにしか、受けとめられないんだもの。

「どうしてこうなっちゃたんだろう」も、「どうすればいいのか」も

誰かに「懺悔」のように自分のことを打ち明けるのも、できるときになってからでいいよ。

どうしよう、とわけがわからないときには、「ちょっと待つ」ことが大切。

時間をかけ、脳の働きを少しずつ正常に戻していけば、

四六時中「どうしたらいいんだ、どうしよう、ダメだ」とグルグルしちゃう部分は、収まっていくから。

のちのちになれば、後悔したくなる点も整理されてくる(あらゆることを片っ端から悪く思い出さない)だろうし、

反省するためのポイント……のようなものも、だんだん見えてくる。

「どうして」の部分は今、自分でもよくわからないのだから、人に説明のしようもない。

鬱という病は、そんなところまでおかしくなってしまう、ということを知っていれば、

自分の状態がまだまともじゃない、と、割り切ることもまた、徐々にできるようになっていく。

すべては、少しずつ順番に、なのだ。

とりあえずは、待とう。

実際に薬が効くかもしれないし、誰かの言葉や、何かで読んだ言葉が、薬のように効くかもしれない。

気持ちの波だって起こりやすいのだから、

真っ暗闇の谷底から、少し抜け出せるときがくるまで、今はただ、単純に休もう。

うん、それだけでいいよ。本当にそれで、大丈夫だから、ね。