後悔も反省も。

後悔、は、過去に視点が向いている。

反省、は、これから先の自分を、見ようとしている。

私は、ずっとそんなふうに思えていて、「反省するとも後悔せず」ということを、意識してきた。

だって、悔やんだって、あとの祭りなんだもの、絶対に。

そりゃあ、「しまった」と思ったことは、これまでいくらでもあるけどね。

あと、「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがまし」という言葉も、そうだなあ、と思っていた。

やってみれば、少なくとも「その結果どうなるか」はわかるから。

「もしやってみた場合」という妄想で頭を悩ませるより、実際に経験してみたほうがいいや、と思っていた。

が、しかし。

鬱になって動けなくなったときは、「反省」なんてまったくできなかった。

私の場合は仕事のしすぎゆえだったので、それを「後悔」という形で悩むことはなかったが、

「なんでこうなっちゃったんだろう」とは思った。

ましてや反省なんて「何を今? この先、動けるとはまったく思えないのに」って感じ。

未来を向くことができない自分が、反省すべき点など、考えつくはずもなかった。

ただただ、「どうしたらいいんだろう」「どうなるんだろう」、それしか思い浮かばなかった。

鬱のまっただ中にいるときは、そんなことに気が回らなかった。

そう、本当に視野がすごく狭くなってて、それらを考えられるような状態ではなかったのだ。

で、とにかく、こんな自分がイヤ、どうしよう、どうしよう、って、そればっかりで。

そりゃあ、そこしか見えなくなっちゃう病気なんだもの、そう思うよね。

でも、そのことには「気づいていなかった」。あくまで、自分は自分の考えを保っていると

思っていたから、「ダメだ、死のう」につながっていった。

たぶんね、鬱のときは、そういう思考が向いてない、というか、

それすらちゃんとできない脳みそになっているのだ。

だから実は、後悔も反省も、まだ必要ない。

だって自分を否定しかできないし、頭はもや~っと重たいし、身体は動かない。

反省したって解決策も思い浮かばないし、後悔なんて、エンドレスに落ち込んでいくだけだ。

周囲からもし、責められたとしても、すいません、で放置しちゃうくらいでいい。

実際、自分がダメな点以外、耳に入らないでしょう。

本当は責められているんじゃなく、心配されている場合だってあるのだけど、

それすら「責められている」ようにしか、受けとめられないんだもの。

「どうしてこうなっちゃたんだろう」も、「どうすればいいのか」も

誰かに「懺悔」のように自分のことを打ち明けるのも、できるときになってからでいいよ。

どうしよう、とわけがわからないときには、「ちょっと待つ」ことが大切。

時間をかけ、脳の働きを少しずつ正常に戻していけば、

四六時中「どうしたらいいんだ、どうしよう、ダメだ」とグルグルしちゃう部分は、収まっていくから。

のちのちになれば、後悔したくなる点も整理されてくる(あらゆることを片っ端から悪く思い出さない)だろうし、

反省するためのポイント……のようなものも、だんだん見えてくる。

「どうして」の部分は今、自分でもよくわからないのだから、人に説明のしようもない。

鬱という病は、そんなところまでおかしくなってしまう、ということを知っていれば、

自分の状態がまだまともじゃない、と、割り切ることもまた、徐々にできるようになっていく。

すべては、少しずつ順番に、なのだ。

とりあえずは、待とう。

実際に薬が効くかもしれないし、誰かの言葉や、何かで読んだ言葉が、薬のように効くかもしれない。

気持ちの波だって起こりやすいのだから、

真っ暗闇の谷底から、少し抜け出せるときがくるまで、今はただ、単純に休もう。

うん、それだけでいいよ。本当にそれで、大丈夫だから、ね。

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