カテゴリー別アーカイブ: 時間

焦るときには切り替える

鬱になって、休んで、時短で仕事に復帰したあと、何が一番イヤだったかというと、

「自分の思い通りに進まないこと」が増えた点だった。

それまでの私は「成功を追い求める者」だったので(ああ、このエニアグラムの話もいずれ書きたいな……、

本を受け取らなくちゃ)、効率性とか、能率とかも大好きで。

仕事はとくに、サクサク進めてガンガン片付けて、内容や量に満足する日々をずっと過ごしていた。

それが鬱を境に、ノロノロして、あ、集中力なくなった、ああ、間違えた……なんてことも起こりやすく、

自分の「気が乗らない」ような感じ。ペースが上がらないのだ。

で、そうこうしているうちに時短だからあっという間に終業時刻になってしまい、「ここまでか……(T.T)」となる。

そりゃもうまさに、壊れかけのポンコツ車のようだった。

壊れる前まではとても手のかかるものをつくっていて、それこそずっと集中が必要だった。

復帰ししてから、さすがにその仕事は無理だろう、ということで、もっと易しいものに担当替えして

もらったんだけど、それすらサクサクとできない、と感じることは、自分にとっては「苦痛」でしかなかった。

日常生活でも、薬の量はそんなにすぐには減らせなかったし、

やっぱり眠りが浅くて睡眠薬を処方してもらうことになったり、一進一退な感じ。

これ、どうなるんだろう、どうすればいいんだろう、と思っていた。

で、結局、少しスピードアップし始めた頃に一気に加速しちゃって、またプツンと壊れ、

仕方なく再休職となってしまったのだ。

再休職してから、それこそいろいろな本なども読んで、ようやく「焦ると逆効果」であることが

わかってきた。もちろん、「この病気では焦るな」という話は、元々、聞いていた。

でも、言葉として知っていたけど、実態はよく知らないような状態になっていたのだ。

何が「焦り」だったのか、自分でよくわかっていなかった。

進まない、ああ……、と思うことも、薬を減らせないのにまた睡眠薬か、と思うことも、

自分では単なる「感情」のつもりでいたけれど、実は悪化につながる要素だった。

「そんなの当然じゃない?」と感じるでしょ? でも、それを「思っちゃいけない」んじゃなくて

「思っても仕方ない」という割り切りを、私が持っていなかったのだ。

いつまでその、のろのろしたペースが続くかは、誰にもわからない。

ちょっとハイペースになっても、またダウンする。そうやってゆるゆるとバランスと取り戻していく間、

いかに「割り切って過ごせるか」が、私は、理解できてなかった。

焦るのはある意味、当たり前だ。自分は、気持ちの上では「最悪のときより確実によくなって」いるのだから。

それが行動として表せなければ、自分に対して「何でだよ」と思うだろう。

でも、「何でだよ」と思い続けることは、自分を責め続けることにつながる。

そこでまた、自分に自分でストレスを与えてしまうのだ。

だから、早く治していきたいなら、「何でだよ」と思ったときに、別のことを考えるようにすること。

「何でだよ」が出たときに「いやいや、今は我慢だ」と思って耐えようとしても、結局は同じストレスになる。

うまく開き直れる人ならいいけど、「ま、仕方ない」と、スッと思える人はなかなかいないだろう。

で、我慢って実は、「何でだよ」という気持ちの進行方向から、逆向きに進み直そうするようなものなのだ。

そうじゃなくて、気持ちをそこから離す。90度、あるいは120度別の方向へ、持っていくような感じ。

まったく違うことを、考えるようにするのだ。

それは趣味的なことでもいいし、今日の晩ごはんでもいい。

他の簡単な事務作業でもいい。

ただ単純に、「できる・できない」の思考から、自分を切り離していくのである。

実際、慣れると「あ、また」と思って、気をつけられるようになる。

ストレスが減ると身体のこわばりも減るので、緊張もほどけていく。

イラッときたとき、身体に力が入ってる、とか、肩に力が入ってるな、ということに気づければ、なおいいと思う。

単純に肩の力を抜いて、肩を下げ、胸を開いて、ほうっ、と深呼吸してから別のことを考えよう。

これもまた、一種の練習のようなものが必要だけれど、そうやって切り離していくと、

徐々に「ま、仕方ないな」とも、思えるようになる。これは私の経験でもそうだった。

あきらめるわけではなく、無理なく素直に、思えるようになっていくのだ。

そこには「おびえ」も「おそれ」も「怒り」も必要ない。淡々とした感覚でいい。

上手な切り替え方については、たとえばカウンセラーさんとか、そういうプロの人から、

あなたに合う方法を教えてもらってもよいと思う。

これもまた、実際に経験していってもらわないとわからないような話だけれど、

自分に対していらつくのは結局、どんなときでも(鬱じゃなくなったあとでも)本当に、

マイナスにしかならないんだ、ということだけでも、覚えておいてもらえたら幸いである。

回復を「待つ」つらさ

心を痛めた場合、回復には時間がかかることが多い。

しかも、足を折ったときのように目にみえて「具合がわかる」わけではない。

強いて言えば、内臓疾患にかかって、入退院を繰り返す人の心境に近いだろう。

それでも「検査」のように、数値で回復の状況を測れるわけでもないので、余計にイライラすると思う。

しかも。

心の問題であるから、その回復度合いは人によって違う。

心の問題だから、何かのきっかけでまた、悪化してしまうこともある。

イライラするだろう。心配も不安も、ときによっては絶望もするだろう。

記憶、というものはやっかいで、時間が経つにつれ、切り捨てと強化を行っていく。

そこにこだわればこだわるほど、自分のなかで感情が強化され、

また、たいしたことのない部分は忘れていく。

記憶の美化、というのはよく言われることだが、別に美化に限った話ではないのだ。

でも、そうした思い出の繰り返しをすることで、何かが報われる、ということは、あまりない。

切り捨てられれば幸いだが、たぶん、そうはうまくいかない。

イヤな部分が強調され、場合によっては歪曲された上にこびりつくこともありえるのだ。

そして、それを選んでいるのは、他でもない自分自身である。

なおさら、つらいよね。自分を情けなく感じちゃうと思う。

私でさえ、いまだに「恥」的な情けなさの回路に陥る。とくに自分がサクッと動けないときなどに。

でも、回復を待つ、という利点は、ひとつあるのだ。

それは思い出が「時が経てば、風化する」性質を持っているから。

どれほどうれしかったことでも、どんなに悲しかったことでも、何年、何十年も過ぎれば、確実に、

そのときの感情をまったく同じように味わうことはなくなる。

「そういうこともあった」と思えるのだ。

これは、頭のなかで繰り返し繰り返し、苦いアメ玉を取り出しては「なめ返す」ようなことをしない限り、

すべての記憶に作用する。

つまり「究極の言い方をすれば」だけど、時間が過ぎればいつか、あなたはそのどん底の状態からは

抜け出せるのである。

時間による風化は、人にとって、「優しい」性質を持っているのだ。

そんなもの、耐えて待っていられるか!! と思う人もいるだろう。

それもそうだ。私も、死にたかったときは、その日、その瞬間、その1日がイヤだった。

でも、解決策が本当にまったく見つからない、というわけではない。

少なくとも、それもまた、ひとつの解決策であることには変わりないのだ。

あなたは、すべてのものから見捨てられているわけではない、ということだ。

少なくともあなたの脳は、つらい部分を風化させるべく、時間が過ぎるのを待つことができる。

あなたの心は、そうやって時間をかけてでも、勝手に、回復を図ろうとしてくれるわけである。

あなたの身体が、あなたの心が、あなたを見捨てることは、本当はないのである。

時間という可能性を考慮すれば、そこから抜け出す策はあるのだから、今、自暴自棄、を選んでいるのは、

あなた自身。あなたがそれをわざわざ、選んでいる、と、言えるのだ。

医師が、「様子をみましょう」というのは、このためだろう。

少なくとも時間が経過することによって、何かが変わっていく可能性があることを、知っているのだ。

自己治癒能力は、身体の傷に限ったことではないのである。

だからもし、あなたが、時間という回復手段に、協力したいと思うなら。

協力して、早くその心の状態から抜け出したいと思うのであれば。

自分を責め、人を責める思考回路から、まずは抜け出すことが先決となる。

そこを離れるには、まったく別の、他のことを、みつめるようにするのだ。

新しいこと。忘れていたこと。どちらでもいいから、自分が「うれしくなること」。

心が、ホッとすること。気持ちが安らぐこと。

その種類と回数、そうした気持ちでいる時間を、長くすることが大切になる。

例えていうなら、あなたは今、勝手にサナギになってしまったようなものである。

意図していなかったのに、いつの間にか、サナギになった。

それまでの姿、それまでの価値観は全部溶けて形もなくなり、ドロドロである。

で、サナギのままで、こんなのイヤだ! と言っているわけである。

イメージしてみてほしい。サナギになったのは、自分の心の力で、そうなったのである。

心の力がマイナス方向に働いた結果、その状態になった。

でも、サナギになるほどの力があったのと同様、次に、どんな姿で世に現れるかも、本当は自分で決められる。

これまでの窮屈な人生を生きるのをやめ、本当に自分がいいと思えること、

周囲の人にも自分にも喜びを与えるような生き方をできる、チャンスではある。

きれい事、ではない。それまでの生き方がつらかったから、サナギになったのだ。

じゃあ、そこにしがみついて、過去を思い返し、後悔を続けることは、本当は必要ないのだ。

過去は、今じゃない。過去は、未来でもない。あなたの頭の中に、残っているだけだ。

待つつらさ、待てない、と思う心の苦しさ、先への不安。

それらを全部、私も体験している。私もまだ、「世に羽ばたいた」とは言えない。

それでも、私は時間に助けられたし、心地いいものに救われ、生きてるってやっぱりいいのかも、と、

思えるところには来た。

もちろん、周囲の人たちにも救われた。

でも、それを求める努力はした。自分の気持ちを明かした。そういう場に、行った。

ネット上でも、現実でも、病院のカウンセリングなどにも。

つらさを吐き出しながら、心地よくなるよう、生き直してみることを、努力したとは言える。

まあ、まだたぶん、十分に足りてはいないわけだろうけれど。

それでも全部をあきらめるのではなく、弱々しくても心地いい、新しい生き方にしていってみよう、とは思えている。

その過程を私が経たことは、単なる幸運、ではない。

視点を切り替え、自分の過去の「記憶」を風化させていくことは、あらゆる鬱の本に載っている、脱出方法でもある。

時間をかけることは、決して、「間違い」ではないのだ。

そして実際には、絶対に、必ず、時間をかけなくてはいけない、ということでもないのだ。

今は実感できなくても、そういう道はある、ということだけ、知っていてもらえたら、と思う。

周囲の変化と自分の変化

この時期に気持ちが暗いと、たいてい、焦る気分になる。

今年はちょっと、また違うかもしれないけれど。

もともと「木の芽どき」と呼ばれる、気温や気候変化に伴っての体調を崩しやすい時期ではある。

情報を探してみたら、愛媛・松山にあるメンタルクリニックの医師が、このような解説をしてくれていた。

春は、気温が安定せず、初夏を思わせるような暖かい日があったかと思うと、

翌日は花冷えで気温がぐっと下がったりと、気温差が激しくなる傾向にあります。

このような気温差は身体にとってのストレスになります。

また、就職、転勤、引越し、など、仕事や人間関係の変化が

精神的なストレスとなることもあります。身体的ストレスに

日常生活で感じる精神的ストレスが加わることで、

体の司令塔の役割を果たしている自律神経の乱れを引き起こします。

特に女性の体はとてもデリケートですので、自分では気がつかない程度のストレスでも敏感に感じ取り、

自律神経のみならず、ホルモンバランスの乱れを引き起こす可能性があります。

具体的な症状としては、冷え、肩こり、月経不順、などがみられるようです。

この時期は、気分・体調ともに不安定になりやすいと心構えをしていると幾分良いようです。

無理をせず、調子が良くないと思った時には、早めに十分休養を取るようにしましょう。

出典:三番町メンタルクリニック 雑記 2009/04/01

http://homepage2.nifty.com/s-mc/info/090401.html

焦るのは「新しい生活」の人が目につくからだろう。子どもたち、新社会人、引越等々、とくに若い人。

目の前に「変化していく希望」を見せられると、今の自分と比較することだろう。

が、しかし。

そういう境遇的・環境的変化は、決して、プラスの面ばかりがあるわけではない。

とくに進級・進学・就職・転勤などは、時期が来たら「否応なし」に対応せざるを得ないのだ。

年齢・性別に関わらず、一気に、このタイミングで。

緊張しようが、本当は変わりたくなかろうが、本人がどんな状況にあろうが、おかまいなしだ。

……正直、これからが大変な人たちも、たくさんいると思う。

隣の青い芝生を見て、焦らないでほしい。

とくにこの時期の芝生は、青いようでプラスチックだったり(チクチクする)、

実はさとうきび畑(迷う……)だったりする。

それは本人にしかわからないことだし、変われさえすればいいのではない。

心が暗い人はなおさら、自分のペースで、自分の決心がついたときに

輝ける方向へとスタートしないと、意味がないのだ。

他人を見て焦るくらいなら、自分の方向を見つめ直す作業のほうを焦るほうが、まだましである。

「新しい生き方」は、あなたの気づきを、待っている。

あなたのペースで、気づいてくれる日を。

書きながら、自分自身をも励ましている気がするが、本気でそう思っていることは事実である。

怖くても、少しずつ。つらいときはもっとゆっくり、丁寧に。

右往左往しても、少し前進できればいい。道端の花の美しさも、鳥の声も楽しみながら行こう。

寄り道しながらでも、自分を追い詰める方向へではなく、明るい道へ。

「大丈夫」を合い言葉に自分を探り、ぜひ、ひとつずつ、気づいていってほしい。

寄り道しようが、回り道しようが、三歩進んで二歩下がろうが、自分の足で、進んでいけるなら。

それはホントに、ありがたいことなのだ。

皆が、少しずつでも苦しみから離れて、輝いていけますように。

今はただ、心から祈る。