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目の前の不安

私は被災地ではない地域に住んでいるが、私の周囲の人は自営業も多いため、

皆、仕事の面で多かれ少なかれ今回の震災で痛手を被っている。

会社員であっても、なんだかいろいろと会社の業務自体に影響が出ていて、頭を悩ませている。

ということは、日本全国できっと影響が出ているのだろう。

親がそうなっていれば、子どもたちにも、それは響いているのかもしれない。

この混乱は、徐々に回復していくだろうし(そうじゃないと、様子見をしている人たちも今後、

このままではご飯を食べられなくなる)、復興に関する事業も新たに生まれてはいくのだろうけれど、

それがいつになるのかはわからないし、今はとにかく、「動けない」ことが単純に怖い、

不安だ、という人も、たくさんいるのだと思う。

少なくとも、私の周囲の友人たちには、そういうふうに捉えている人が結構いる。

仕事のこと、親のこと、子どものこと、その他さまざまな問題が、震災を機会として、

一度に振って湧いたようになってしまっているのだ。

そうしたことを見直してみる機会には、確かになっているのだろうと思うけれど、

一度に全部考えても、ましてや今の状況では、よい選択肢が生まれるはずもない。

考えても条件が仮定にしかならない、つまり、あまりに「読めないこと」が多すぎるのだ。

日本の状況がそうなのだから、それをさらに、個人の状況に照らし合わせたりしても、

とりあえずの答えしかみつからないのだ。

で、そうやって、もろもろが「とりあえず」になっちゃうこと自体が、もう不安なんだよね……。

不安デパート勝手に開店、しかも閉店はすぐできず、商品は増え続けて堂々巡り、である。

そこの部分は、正直、ひとつずつ、腹をくくるしかないのだと思う。

たとえば単純に稼ぎが減ったなら、アルバイトでもパートでもなんでも「食いつなぐ」ことが必要だ。

目の前の不安を払拭しようと思うのなら、ホントはそうやって、一つひとつに対し、行動を起こすしかない。

あとは単純に、「しばらくの間のしのぎ方」を、きちんと全部、家族と話し合ってみるとかね。

「子どものケアも必要だと思ってはいるのだけど」というお母さんもいるけど、

自分自身が痛んじゃっているのだから、本当はそっちが先じゃないかと思える……。

お母さんが自分の不安を解消しないと、子どもは根本的に安心できないだろうから。

たぶん、これまではそれぞれ、個別に、かつ徐々に対応できていた(あるいは先送りにできていた)はず。

なのに今は「いろいろ考えなくちゃ」と思い込んで、落ち込んでいるようにも感じられる。

単純に、優先順位をつけようよ。これまでと一緒のやり方でも、とりあえずは大丈夫なことがあるはず。

不安な気持ちを抱えている人ばかりが周囲にいて、いくらあれこれ催促されても、どうせ一度には無理だ。

状況は変わる。不安でいっぱいの人(たとえば年老いた親とかね)も、恐怖心はだんだん収まっていくはず。

責任を負い、催促されている人は苦しいと思うけれど、いっぺんには無理、と言い切ってしまうくらいの

開き直り方をしていい。無理なものは無理、でいい。

無茶して決めて、いい結果にならなかったら、結局、その決断自体に、意味がなくなってしまう。

「不安がいっぱい」あることがもうつらいなら、それを全部、書き出してみてもいいのでは、と思う。

今すぐには対処できないこと、とりあえずの対応だけしておいたほうがいいこと、本当に今、決めたほうがいいこと。

そうやって整理していったら、「化けものの正体見たり枯れ尾花」じゃないけれど、

不安がいっぱいでつらい気持ちは、少しは収まるはずだ。

きっとそうした問題は、人によって内容は違っていても、今までだって抱えていたのだ。

一気に噴出したように思えても、優先順位はつけられるはずなのだ。

震災の被害状況に心がキツくなってしまっている今、ムゲに自分を卑下したりしないで、

自分だって痛んでいるということを、自覚してほしい。無茶な決心、無謀な決断は、しないでほしい。

たとえ責任があっても、そのあらゆる責任を一気に全部背負うのは、普通のときだって無理なはずなのだ。

どうか、時間は必要、という腹のくくり方をして、自分のケアに気をつけつつ、対処していってほしいと思う。

優先順位の低いものは、やはり時間をかけて様子もみながら、不安からではなく、考えていく。

まず自分にとって、そして皆にとって、よい選択をしていけますように。

先日も書いたけれど「あきらめる」のではなく、落ち着いて「新しい視点」から、ものごとを見つめていけますように。

穏やかな気持ちになれる日が、多くの方々に、早く訪れますように……。

身体と同じように、心も休めさせられれば……

鬱々とした気持ちのときは、悪いことばかりが頭の中に浮かぶ。

過去の自分。

これまでに起こったことを思い出し、自分に嫌気がさす。

苦手な人との会話で傷ついた自分。

直接的な原因ではないはずの、古くて嫌な想い出まで浮かぶ。

たとえ、誰かのせいで今の状態になったとしても、

その人を恨みながら、どこかで、そう受け止めてしまった自分を責める。

今の自分。

何もできない自分にも、嫌気がさす。

どうしたらいいのか、まったくわからない。

焦っても何も変わらず、身体も力が湧かず、言うことを聞いてくれない。

魔法の杖を振ってくれるおばあさんは現れないし、

医者や専門家に聞いても「しばらく様子を」と言われ、悲しくなる。

この先の自分。

ますます希望は持てない。

いつ治るか、そもそもこの状況から抜け出すなんでできるのか、と思う。

できる、いや、できるはずがない、と自問自答を繰り返す。

それだけでもう、疲れてしまう。

こうしたことは、折れて傷んでしまった心を、治していく最中に起こる。

でもこれは、実は自分でその心の傷口を、刃物でグサグサと傷つけているのである。

足を複雑骨折したとき、ギブスもせず、安静にしているのもイヤで、

無理矢理、歩こうと努力するだろうか。

高熱が何日も続いてフラフラなのに、そんな自分が許せなくて、

ずっと起き上がり、家事や仕事を延々と、続けるだろうか。

無理矢理に、ご飯をいつも通り食べ続けるだろうか。

身体に起こる病気や傷は、「安静にして治すもの」と、自分で理解できている。

そういうものだと、周囲も認めてくれている。

骨がくっついてから初めて歩く練習をするし、

熱が下がってから初めて、ご飯の量を増やし、軽い家事から始めるだろう。

なぜ、心の傷だけ、それができないのだろうか。

自分に心地いいものだけを側に置き、好きな音楽やマンガ、テレビや本を楽しみ、

あるいは食べて、ゆっくり寝て、まずは傷を治す必要がある。

傷が治ってきてから初めて、リハビリは可能になるのだ。

折れた足のまま動き続けたら、治癒にも時間がかかり、足は変形するだろう。

高熱のまま動き続けたら、別の病原菌にもやられ、たいへんな事態になるかもしれない。

死にたくなるほど苦しいから、今は、余計に。

あなた自身が、ぬくぬくと自分を守り、いたわらなくてはいけない。

泣いて、感情を発散させるのもいいだろう。

それは決して「甘え」ではない。心の治療なのだ。

私は、これに気づくのが遅かったから、余計に時間がかかったように思う。

リハビリを開始できる時期は、自分でも感知できる。

もし、いたわっても時間がかかったとしたら、それはそれだけ、あなたの傷が重症である証拠だ。

涙はかまわない。でも、頭の中でイヤな思いだけがグルグルと渦巻き始めたら、

どうか「あ、また自分でグサグサやってる」と、思ってほしい。

こうした思いは、必ず浮かぶだろう。そのときには好きな音楽でも聴いて、

あるいはもう寝て、その思考を自分から切り離してほしい。

どうか、自分が楽になれる時間を、今は少しでも過ごせますように……。

「つらい気持ち」でいる時間

脳の話は、ごめんなさい、明日にして……。

今日は先に、つらい気持ちが続く間のことについて、

自分の経験と感じたことを、記しておこうと思う。

鬱を経験したことがある人や、悲しみのなかから抜け出せないでいる人、

死にたい、でも死ねない、死にたくない、と、気持ちが揺れ動いている最中の人にとって、

今、毎日、時間が過ぎていくことは、それだけでもう、とてもとてもつらいと思う。

少なくとも、私はそうだった。

死にたいときは朝が来るのもイヤだったし、死ねなくなってからも、

「だからってじゃあ、どうすればいいんだろう」と

放心しているうちに1日が終わってしまっていた。

死ねなくなったから仕方なく、ただただ、魂の抜けた状態で動いてたって感じ。

それでもなんとかじわじわ、時短で仕事をして、

たまたま少し、波に乗ってがんばれたりすると

反動でまたいきなりぷつんと壊れ、出社できない状態にもなった。

再休職をして、病院にもう一度、通った。

病院を変えてみたら、ありがたいことにそこの先生と相性がよく、

先生の言葉に助けられたりもした。

再度、壊れて休むこととなった私に、先生はこう言ったのだ。

「あなたは今、ポンコツ車を運転してるようなものよ。

それを修理しつつ乗ってるんだけど、まだまだ、修理は終わってないの。

そんな車で、勢いに乗っていきなりアクセル踏み込んだら、

すぐに『プスン』とエンストしちゃうのは、当たり前でしょう?

上手に運転してあげなくちゃいけないし、

速度を上げるのなら、先に、もっと修理しようよ」

自分の頭と身体と心を、車に例えるのがイヤな人もいるかもしれないけど、

私は「壊れるのが当たり前」というところで、少しホッとした気持ちになれた。

そう、もうどうしようもない。

昔は新車だったかもしれないけれど(笑)、

今は、修理が必要なポンコツ車なのだ。

そして実際、3年くらいは、ひどいポンコツ状態だった。

大きいの、細かいの含め、なんだかしょっちゅうエンストしてたしね。

その間、仕事の面で言えば、一番波に乗れるはずの30代後半を全部、

仕事がロクにできないままで過ごした。

当然、キャリア面はボロボロで、収入もボロボロ。

今だって貧乏なまま(笑)だし、

いつ再発するかわからない、という不安もまだ、少しは持っている。

それでもなお私は、今になって結果的に、やっとだけれど、

私の場合は、壊れてよかったんだと思える。

壊れるまでは、自分の価値を、「仕事」の面で一番大きく測っていた。

そして私の仕事は、一人でするものではなく、必ず他者が存在する。

つまり私は、自分の人生が「いいかどうか」の大部分を、

「他の人から認めてもらえるかどうか、必要とされるかどうか」という、

他者評価の面で測るような人になっていたのだ。

だからこの感覚というか思い込みは今、

実際に仕事で他者から認めてもらいにくくなったがゆえに(^^;)、

かなり外せるようになってきている。そういうふうに、自分で思うことができる。

もし万が一、昨日までのブログに書いていたような「思い込み」のまま、

ワーカホリック気味に仕事を続けていたら。

私は人からの評価、人の気持ち、人の気分にに左右されるという、

浮き沈みを、あのまま続けていただろう。

そんな面だけに囚われず、私は、私のことを、ちゃんと全体からいろいろみて、

トータルで見ればOK! とか、そういう新しい感じで、認めてあげてもいいんだ!

なんて思えることは、絶対になかったと思う。

明らかに、自分の「うん、これでOK」と思える枠は、大きくなったのだ。

鬱のあと、そう思えるまで、5年くらいはかかっていることになる。

でも、楽にはなれてきたし、新しい楽しみというか、

変わりつつある自分を見つけつつはある。

実際、人間関係の面も、いいほうに変化し始めているのだ。

たとえば実家の家族との関係とかね(別に仲が悪かった訳じゃないけど、

まあ、この話はまた、いつか……)。

人の死、価値観の崩壊、鬱、貧乏暮らし。これって端から見るとヒドイ経験。

それでも、こんな目に合わないと、そしてこれだけ時間をじっくりかけないと、

私の場合は変われなかった。

それほどまでに、私、生き方が不器用なんだ。高倉健さん並み? いや、それ以上か(^^;)

死ねなかったから仕方なく生きてきて、

2年も経ってから突然、原因不明の体調不良になったりもして(まだ治ってないけど)、

それでも今、ようやく、私だからまあ仕方なかった、と、思えるようになってきて、

このブログを、書いてみようと思えたりもしている。

いろいろ気づくまで、長かったねえ、私。

ワーカホリックに入ったところまで遡ると、10年超か。

でも、あのガチガチでヘンな思い込みと自分の枠を、外せてよかったねえ。

今はしみじみと、そう思えている。