カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

拒絶と選択

すみません、自分のことに(まだ)かまけていく

必要があるようなので、再び他の方のブログシェアで。

 

このところ言い続けている

理屈でものごとをやろうとするがゆえに

苦しいんだよ、の話で、

別のよい表現をされている方の記事を

見つけられたのでシェアします。

 

有名な方ですが、私はたまたま、

この方のブログは読者登録していません。

たぶん、向いている方向の範囲、というか

『幅』が、結構、違うのだろうな、

という感じです。

 

でもこの方もオッサン入っておられるので(笑)、

文章は好きで、友達からFacebookで

シェアされているときにときどき、読みに行きます。

そしてパシッと心地よく感じたりする。

 

理屈でないところで、感覚で、

しかも流されてその場の雰囲気でなく、

『ああ、これだわ』と思うところまで

行ってみる(待ってみる)のもひとつ。

 

併せて、心屋さんの少し古いFacebook記事も載せるので

(続きのところが「もっと見る」や「その他」と表示されない方は、

下のほうにある日付のところを押せば、全文読めるはず)、

可能ならログインして、コメント欄も含めて読んでみてください。

 

何を自分が決めていくか、そのために、

どう自分で「腑に落として」いくか。

決して仕事だけの話ではなく、ね。

 

迷いはあっていいし、時間がかかってもいいのです。

それは自分にとって必ず、必要なルートだから。

そこを非難するから、ややこしいことになる。

『自分が決めて、やってよい』という意味を、

逃げ、ではない部分でつかんでいただければ幸いです。

 

◎秦由佳さん
『それ、選んでいるんじゃなくて拒絶しているよ。』
http://amba.to/1KYM8xb

 

◎心屋仁之助さん

 

ステキな記事に出会えたことを、今日も感謝します。

 

Photo by ゆんフリー写真素材集

 

認める……何を、どの部分を?

今日は、少し長いけれど、

他の方のブログもシェアさせていただきながら、書きます。

 

まず、あなたが見つめているその「心地悪い気持ち」は

あなた自身が大きく扱うからこそ、

「まるで自分の全体を覆っている」かのように感じるけれど。

決してそうではなく、

あなたが「自分をそれで覆うことを許可している」のであって、

それはあなたの中の「一部分」にしか過ぎないのだ。

 

他者に対する非難だけでなく、自分に対する卑下であっても、ね。

 

人の内面には、黒も白もあります。

たとえ相手に非があるもの! というときでも、その黒いものに

意識を集中させて、ずっと感じ続けているのは

あなた自身が選択していること。

 

でも、そうやって、黒を「問題だ!」と大きく『意識』したら?

あなたがそこに、自分の意識を集中させたら、

白の中の黒だけを見て、黒い! 黒い! と

「自分に」言い続けることになる。

 

そうやって、自分の心の方向性を、

自分が決めているのだ、ということです。

別にそんなことしなくても、いいのです。

それは自分や相手の、ただの一部分なのだから。

 

そして、黒い部分を直したい! とか、なんとかしたい! と思うなら。

黒い部分の「全体像」を知ること。あなた側の、ね。

その『勇気』だけが必要です。

 

あなたは今まで、黒い部分の「理由」を知って、

そこから次に、頭の中の「理屈」を使い、

自分を納得させようとしてきただろうけれど、

その理屈までは、いらないかもしれません。

知ってみた、そのあとで『自然に変化していくものに任せる』という方法も、

きちんと、使ってみてほしい。

 

表面的な方法論で自分を納得させようとするから、

かえって感情がこんがらがってしまうこともあるのです。

 

相手によって引き起こされた感情であろうと、

自分に対する感情であろうと、

それを捉えているのは自分、です。

自分の中に、「黒い部分も、あるんだ」ということ。

それは、あなたを「守っていてくれていた」ものでもあって、

単に、その守る役割を「終えさせてあげる」だけでもいいのだ、ということ。

 

そのために、根っこにあるものまで含めて、

自分の『全体』を「知る」勇気だけを、

いつか、出してほしいと思います。

 

理屈ではなく、排除でもなく、

ただそっと「そういう自分にも、○を出す」ということ。

そして自然の力(時間という薬も含めて)に委ねていくことも、知ってほしい。

その象徴だな、と思えた記事をまずひとつ。

これは草の話なのだけれど、

なぜそうなるか、ということでは

ないところで起こることだと感じられました。

理屈をつけたければ、後からでも探せる。

でもそれより今は、

全体を見てみること、排除しないこと、

そしてそのことによって起こる

「理屈ではない部分」で変化していくもの、を知ってください。

◎中央園芸 さん
『ヤブガラシを駆除するには』
http://amba.to/1LcDIW9

 

それから、もうひとつ、大切なこと。

あなたが自分を『知る』ことによって、ただそれだけで、

それを「消す」チャンスが生まれていきます。

よいものを必死で取り入れるだけでなく、

消していくこともまた、必要なのです。

消すことによって、スペースを空けてください、自分のなかに。

 

例としてお金の話の記事を載せるけれど、

これを、あなたがフォーカス『してしまっている』問題に

置き換えて読んでみてください。

愛情だったら、どうなるか。

家族関係、仕事、健康……。

 

自分をありのまま、認めるというのは

まずその問題を「一般的な言葉」に

置き換えてみて、

それから「感覚的に」

それは本当にそうなのか、それしかないのかを素直に

感じてみる

ってことでも、練習することが可能なのだと思えます。

ジャッジせずに感じるだけ。

 

Give and Take

の視点でしか、ものごとを見られないから、

いつまで経っても、その自己卑下(ときには被害者意識、

ときには自意識過剰)から抜け出せないのかも、と。

 

自分軸とは、

ワガママや自己中心的な発想とは

まったく、別の種類のものだよ。

 

何かを得るために、とか、

駆け引き、しなくていいの。

得るために自分を下げたり売ったり、

自分に嘘をついたりするから、苦しくなる。

 

◎美女養成講座☆高橋ナナ さん
「戦闘機を買えるくらいのはした金ならいらない。」
http://ow.ly/SThII

 

◎きょん さん
『引き寄せの壁から学ぶ』
http://amba.to/1iVc0km

 

最後にこれらも。

コーチングというのは、基本的に、

自分のなかに「良い思考方法を取り入れる」ための技術であると、

私は感じているので、

あくまで「消しながら」やっていく方法のほうが、

苦しい人には向いていると思えるのだけれど。

 

全体を知る、消す、というだけでは、

今までの自分の習慣でどうしても

苦しさを感じてしまう、という人に、

これもまた「違う見方を知る」の話。

知ったあとで「だって、そう言ったって!」と決めつけてしまうのは

今までの「黒い方法で自分を守る」だけであって、

逆戻りして、苦しいだけですよ、と伝えておきます。

 

戦うだけがすべてではなく、

静かに離れる。距離を置いていいんだよ、その状況から。

それもまた、「勇気」なのだろうと、私には思える次第。

◎reiko tezuka さん
『他人を評価したり思い込みで悩むのは、時間の無駄遣いですよ。』
http://amba.to/1OdHSh4

 

◎スピリチュアルティーチャー癒羽(ゆう)さん
『たとえ一見悪いことが起こったとしても』
http://amba.to/1OdI4wS

 

こうした種類の勇気たちを、あなたがいつか、使えていきますように。

 

※今回は、記事内容に言及していないので、

事前許可を取らず、勝手にリンクを張らせていただきました。

どうかご容赦ください。

問題がありましたら、お手数ですが

ご一報いただければ、対応させていただきます。

 

2015_10_03

Photo by miriam
Pixabay

 

「心地よさ探し」という遊び

面倒くさいことを

「面倒、面倒、面倒」と呪文のように唱えながらやるのと

「この部分は面白いからそこだけでも味わおう」って思いながらやるのとでは

自分の打ち込み具合が変わってくるよね。

 

私は、鬱を過ぎた以降、自分の「気持ち次第」で、文字通り

すべてが変わる

ということを経験をしたから、

何かをするときには極力、その、やることの面白い部分を

「味わおう」って、意識するようになった。

 

どんな小さいことでも一つひとつ、

「どうやったら心地よくなれる?」「楽しくなれる?」を

探しながらやるの。時間もあまり、意識しない。

でもって、手を抜くところは抜く。

 

低血圧になったら、朝、どうしてものんびり過ごしたくなったから、

コーヒーを飲む時間は必ず一定程度、確保する。

ええ、仕事がある日に結構、遅起きしてしまったときでもね(笑)

その代わり、そういうときは化粧で手を抜く「覚悟」をして、

化粧は昼休みの時間を狙うとか、割り切る。

 

それこそね、洗濯物の干し方まで変わったよ。

楽しめる干し方、と言ったらなんだけれど、

心地よくなる順番、干す位置、並べ方。 

どれをどうやって、どの順で干すのが

「今日はいいかな?」みたいな感じ。

そのために一定の時間は確保するようにしよう、とか。

 

休日も平日も、無駄に焦らない。

眠ければ寝る。起きていたければ起きている。

食べたければ食べる。食べたくなければ食べずに寝る(笑)

休日のお出かけ予定でも、自分一人の場合なら

その日の気分で簡単にキャンセルする。

そういう意味では「気まぐれ」を明確に、自分に対して許した。

 

こうなってくるともちろん友達との約束でも、

鬱前にはほとんどしたことのなかった「遅刻」をすることはある。

で、そのときは、真剣な気持ちで謝る。

きちんとした意識で真摯に謝るけれど、自分のことは責めない。

そういうときもある、ということを、自分で認める。

 

楽しむ、ということ、その中身の『基準』を

「刺激」でなく「心地よさ」にした、とも言えるかな。

それを意識し始めたら、生活全般、力まなくなった。

今まで無駄に力んでいたことも「やめてから」気づけた。

 

これって、私が年を取ったからか?(笑)と最初は思っていたのだが、

いやいや、今までが穏やかじゃ「なさ過ぎた」んだわ、と。

「穏やかさ」なんて自分には想像の範疇外だったのよ、たぶんね。

 

たとえば仕事も、キリッと、とか、キビキビ、などを意識しすぎて、

なんだか毎朝「戦いに行ってくる」ような感じ。

まあ、私は高評価をバリバリに求めていた生き方だったから、

よけいにそうなっていたんだと思うけど。

 

今のゆるやかさ、穏やかさって、自分が

「こうやったら楽しいわ♪」

「これは今、集中して片付ける、ということを楽しもうっと」

などと探し始めてから、身についたもの。

で、そういうことを本気で意識し始めたら、

何をやってても、全部そこそこ、楽しめるの。

 

狙った「遊び」を、ちょいちょいやるような感覚?

仕事では、それによって時間はスルスル流れて、

自分はほぼ、楽しくて穏やか。

なので、かのお姉さんのことを

観察しようなんて意欲も持たずに済む。

別に、彼女がどこでどうやって、それこそ何をしようと、

私は私で、好きなようにやっていればいいんだもの。

いちいち引っかかって「あげる」、

気分を害する方向でつきあって「あげる」、

さらには引きずって相手のことを気にして「あげる」必要なんて、一切ない。

 

こうしたやり方を、私はやっと自分に「許可」したんだな、と思う。

身体を張って何かを『獲り』に行くような感じでない、やり方。

 

でね、面白いことにこれ、

「後から」新たな評価も、戻って来始めたのだ。

基本、自分がずっと微笑できる、ニコニコしていられるでしょう?

ゴミ袋ひとつ縛っていても、普通に笑顔が出るからさ。

あら、ぷっくら膨らんだ、カワエエ(*^_^*)

とか思って、そういうのを探してにっこりやってるから。

 

今の会社で、周りの複数の人から「いつもなんだか笑顔で、

なんかいい感じの雰囲気よね」

「優しくて柔らかい印象」と言われて

「ええええええええっ!?」となりました。

そういうことは一切、意識していなかったのでびっくりした。

 

だって基本、私はオッサン脳で、はっきりものを言う、勝ち気系。

かの「お姉さん」に対してさえ、吹き出すようなキャラなんだもの。

それこそそんなこと、初めて言われましたさ。

 

しかもそもそも私ね、見た目も勝ち気そうで、はっきりしている印象を

持ってるのだよ。昔なんぞ、赤色が似合いすぎてて(笑)、

「赤い服を着ていたら、100m先からでも木元だとわかる」と

先輩方に言われていたような感じ。

まあ、原色とか今でも着られるしさ、実際。

 

柔らかい、とか思ってもらえるようになったのは、明らかに

「自分が楽しめそうな部分を絶対、探すぜ♪」と決めて、

一人で勝手に楽しみ始めたからだと思う。

 

こういう今の私みたいなやり方って、どう感じる? ダメかな?

眠っている布団の肌触りや色合いまで「心地よさ」を

求めてみたりするの、面白いよ?

ガーゼタオルとか、その日の気分で敷いたり。

 

お出かけして渋滞にはまったら、こりゃもう仕方ない、

ならばいっそ、車内カラオケしよう! とか。

 

電車が止まったら「あ、ならばこの本を、じっくり読めってことだな」とか。

 

道を歩いているとき風が強ければ、

葉裏がはっきり見える街路樹の「いつもと違う姿」を

「おおっ」と思いながら鑑賞するとか。

 

その気になって探し出したら「おお」「あら」「これはっ!」

が案外たくさん、見つかります。

同じ仕事をしていても、違う部分を味わえる。

 

ねえ、どうせそれを「やらなければいけない」とか

そこで「時間を過ごさなければいけない」のであれば、

自分が自分に意識させて、その「とき」の何かを、味わってみようよ。

その許可を、自分に出そうよ。

 

どんなに暗い気持ちのときでも、

そういう許可は、自分に出してあげていいんだよ。

心地よさそうなものをほんのちょっとでも味わう、というほうへ、

自分が切り替える練習を、してみてね。

 

それこそ、ぼーっとするのも、「悪」ではないからさ。

何かを「悪」だと捉えることを『やっている』のも、常に自分、なのだ。

 

P.S.

ゆえに今回のブログデザインなぞ、

私の「今までの印象」とは真逆方向です、きっと。

単にそういう気分で、そういうのが楽しかったからこうなっただけで、

身内が見たら「どうした、見春!?」って思うかもしれない(笑)

そのうち、気が向いたら感想を聞いてみよう(≧▽≦)

 

Photo by nidan
Pixabay