カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

幸せは、ウキウキ気分だけでなく

幸せな状態、と聞くと、どんなイメージを想像する?

自分のまわりにハートが飛び交っていたり、

ウキウキワクワクな満面の笑顔、を思い浮かべるかもしれない。

 

でも、幸せを感じるための充実は、

決してそんな動的な状態だけを指すのではない。

どちらかというと、これらは

『幸せな刺激』

と、呼べるものかもしれないよね。

 

こっちは今、苦しいんだよ、何言ってるんだよ、と

思う人もいるかもしれないけれど、

苦しいであろう今だからこそ、伝えたくなった話なの。

ゆるしてね。

 

幸せの形は、他にもある。

静かで、落ち着いていて、

なんとなく満たされていて、

自分の心が、柔らかい状態。

 

これらは別に、刺激、からは生まれない。

きっかけみたいなものはあるかもしれないけれど、気づきに近いように感じる。

必ずしも他者と関わらなければいけないものではないし、

逆に一人のときなど、自分の心のなかで生み出す形のものであるように思う。

 

自分で作り出せる、自分自身の充足。

パンパンに何かが詰まっているわけではなく、落ち着けるもの。

 

そういう土台もまた、あるほうが、

実際、自分が楽な気持ちになれると思わない?

駆け引きでもなく、戦いでも、頑張りでもないもの。

ホッとできるもの。柔らかい心、になれるもの。

 

それらはもしかしたらすべて、自分で作り出せるのだと、今の私には思える。

そういう充足もまた、持っていたほうが、

自分自身が折れないですむのかもしれない。

 

刺激しか幸せでないと思い込んで、そうならねば、

と決めつけている人が、もしいたら、

だからこそ、あなたは、苦しくなるのかもしれないよ、と、言ってみたい。

 

あなたが自分自身に作り出せる充足、落ち着いた静かな気持ち、を、

もっと増やしてあげようよ。

 

そんなもの、持てないよ! と思い込んでいるならば、

そこにこそ、何か、あなたを苦しくさせる決めつけが潜んでいるかもしれない。

その部分を、ひも解いてみない?

 

なぜ私は、私自身を『静かな幸せの気分』にしたら、いけないのだろうね?

そんなのはつまらない、ダメなパターン?

ねえ、誰にそれを、決められたのだろう……?

 

2015_08_22

Photo by PeteLinforth
Pixabay

 

自分が耐えれば……

ストレスから過食になっても

発熱しても 下痢をしても

 
あんな経験をしたから

身体も変調を起こすのだ と あきらめ

耐えてしまわれる人がいる

 
それは まあ 慣れないゆえ の部分も ないとは言えないけれどさ

 
でも明らかに 耐える必要がないように思えること

変えていっていいことだと思えることであっても

耐える という状態が あまりにも当たり前になっている人は

到らない自分がいるから と

そちらを一番の理由にしてしまったりする

 
かなり長い間 強ストレスの状態から

逃れられなかった人に対し

それは そこまで耐えなくてもいい部類のことですよ と伝えてみたら

初めて そうですね そうなんですね 

と 気づいてしみじみされたりすることもあるのだ……

 
またね よく仕組まれてるなあ と思うのだけれど

その人の その状態を

まんまと利用しようとする人にも 出会ったりされる

あれはホント 何だろうね?

 
私も鬱のとき ストーカー被害に遭ったけれど

何を 発してたのかな……

 
どんなものを自分が発しているかなんて

自分では気づけないんだよね

でも 変な人に出会うよね

 
そしてそれを 拒否する力が確かに弱い人もいて

私はまだ 逃げられたけれど(相手がストーカーだったしね)

捕まってしまう人もいる……

 
だからさ 気づいてね 自分が 呼び寄せている面があるんだよってこと

たぶん 神さまみたいな人に そう言われているのかもしれないよ

 
とはいえ そのことに気づいていくことができるのは

その方ご本人だけだから

私は たとえ話を聞いたところで

耐えなくてもだいじょうぶ ということと

それが気づきになる日が来るのを 見守ることしかできないけれど……

 
なぜか おかしなことになる人に出会うときは

それが自分に何を教えてくれているのかを

見つめてみても良いのかもしれないよ

 
いくつかの そういう出来事に触れる機会があった私の

今の素直な感想です

 
そう 私もね たとえばあの お姉さんは

私が自分では採用しない「やり方」をされていて

それを良い 悪いの枠を外して見つめてみれば

幼い子どものように「私には」思えるそのやり方も

一部の人には気に入られるわけだから

まあ 好んで採用する人もいるのだろうなあ と 感じてはいる

 
自分が採用しないやり方を 目の前に例として

繰り広げてもらっている感覚になることがあるのだ

 
ゆえに お兄ちゃんになつく 妹 みたいなもの? とか思っている次第

(他の人から聞いた話によれば

彼女のやり方はもう少し 女性ならでは な 面があるらしいが

少なくとも私には そこまで深くは見えていないし

それが実際どんなものなのか やり合って 確かめようとも まったく思わない)

 
いろいろな人がいて いろいろなやり方がある

そのことを 単純に 静かに認めるだけでも

何を耐え 何を耐えなくてよいか

少し違った角度から 見られるようになるよ と 思えるのだ

 
もし 自分がすごく耐えてしまうことに 気づいておられる方がいて

それが自分にとって 苦しいのなら 

なぜ私は耐えてしまうのか そっちのほうを きちんと探ってみてね

 
そして自分にとっての 不必要な耐性は

本当に 本当に 手放していいからね

その勇気も 少しずつ 練習してみてね

 
違う捉え方を 採用してみるだけでも 

その 耐えるというストレス

グンと減らせたりもできるからさ

 

2015_07_13

Photo by Snapographic_com
Pixabay

 

暗闇に持ち込む「光」

私が初めて自分の鬱のことを

ある程度詳しく、

しかも全く知らないと言える人たちに

向けて話すことになったとき。

 

その直前まで、本当に1秒前までは、

こんな話をするのは迷惑をかけるだけなんだけどな、と思っていた。

 

ちょうど2人めの知人の死を知った数日後で、

私は休職中で。

その集まりは『直観力を養う』ことがテーマで、

それゆえに、1週間で気づいたこと、起こったことを、

参加者がそれぞれ、明かすための時間があったのだ。

 

最近の自分、というシェアリング(自分の思いや出来事を

単数、または複数の他者に打ち明ける)。

その主催者の方のことは信頼できていたけれど、

集まった方に対して、あまりに直近すぎる、

自分の身の回りの死をも含めての出来事を説明するのは、

さすがに迷惑だろうと思った。

 

でも主催者の人は、だいじょうぶだから話をして、と言ってくれた。

 

その言葉だけを信じて、本当に迷惑かけるのにな、と思って、

ドキドキしながら、ゴメンなさいと思いながら、語った。

 

そのとき必要なのは、自分の勇気だけ、だった。

 

そして当時は、他にも、抱えていた自分の闇があり、

そのことも話すように「仕向けられた」感じがしたので、

その感覚が本当かどうかわからないけれど、

もうなんか、何でもいいや、と思い、全部、打ち明けた。

 

途中から泣きながら、10分くらいは話したと思う。

泣きまくりながらも、言葉は、止まらなかった。

涙も言葉も、洪水みたいに湧いて出た。

 

そうしたら。

その場にいる全員が、私の痛みの言葉のどこかの部分を、

自分の痛みの経験と重ねて聞いてくれて、そのまま受け止めてくれた。

その場の雰囲気、空気が私にとって、ものすごく暖かいものとなり、

それがこちらに流れ込んで来た。

主催者の方以外、誰も知り合いではなかったのに、

皆が「共感」を示して、私を迎えてくれたような状態。

 

生まれて初めて「見知らぬとか、

そういうことは何も問題ではない」他者の

思いやりを全身で受け止められたような感覚。

 

主催者の方の、感想。他の方たちの、短い感想。

温かい気持ち一色の、空気感。

 

思いはね、エネルギーにもなり得るの。

それはね、あのとき、本当だった。

 

驚いたし、うれしかった。

明かしたことによるグッタリ感はあったけれど、

温かい、ものすごいもの、を受け取れた感じ。

湯あたりした温泉のあと、みたいな感覚だった。

 

安全な場所を見つけて、打ち明ける。

つまり自分の暗闇を、明かしてみること。

それは、暗闇の中でさまよって、ただひたすら、

むやみやたらに手を振り回して

その暗闇を追い払おうとするのではなく、

単純に、そこに勇気という『光』を持ち込んで、

自分の「恥とも言える暗闇に光を当てて見てみる」ことだった。

 

暗闇は、追い出したりしようとあがくことでは消えない。

そこに光を持ち込むだけで、暗闇は暗闇でなくなる。

 

この表現を、私は最近、ある本で読んで、

唐突に、あの明かしたときのことを思い出したのだ。

 

本当に、そうでした。

何かが、変わり始めた……。

 

だから、そういう使い方としてのカウンセリングを、

私は、おすすめしたい。

別に複数に対するシェアリングでなくてもいいから。

 

この状態がもう本当にイヤだから、先は見えていないけれど、

この暗闇を何とかしたいから、他者に打ち明ける、ということ。

 

くれぐれも『何かを得る』ためでなく、

自分の暗闇を明かすために『他者のところで勇気という光』を持ち込む。

そうするつもりで、それを自分ができそうな場所を、

ネットなどで探してみてください。

そしてこの人なら、という人のところへ出かけて、

どうか、いつか、打ち明けてみてください。

 

そのカウンセラーさんが有名か無名かは、どうだっていいのです。

あなたの『感覚』に合うと思える人のところで、

打ち明けてみてください。

 

自分の恥ずかしさと情けなさ、

自分の闇の過去、を。

 

今日は急に、そういうことを打ち明けてみたいと思えたので、

このようなブログ記事にさせていただきます。

 

必要なのは、たったひとつ。

自分を明かす勇気、です。

 

暗闇が強ければ強いほど、

明かす勇気、という光は、

あなたに機会を作ってくれます。

大きな気づき、という、機会をね。

 

どうかいつか、あなたが必要とする方の元へ、

あなた自身から、たどり着けますように。

 

2015_07_02

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