カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

『心地悪い』ものは『心地悪い』でよい。そのうえで、ならば私は。

昨日の続きのような話。

自分の判断をすぐに採点するのをやめると、

ただ『私はこう感じているのね』が現れる。

 

具体例としてこの前、私が出したものをもう一度、拾ってみようか。

書類を作って渡したら、その書類がどこかに行ってしまい、

しかも渡した本人が「受け取ってないんですけど」と言いに来た。

 

はい、事実はこれ。

起こった「出来事」は、これだけ。

書類は今、実際、なくなっている。

 

そしてこの場合、それは『仕事』であり、

『書類を仕事上のルールで、待っているお客さま』がいて、

その締め切り時間が迫っている。

 

たまたま、これは仕事上の話なのだから、まずやるべきことは、

どうやったら『待っているお客さまに、迷惑をかけず渡せるか』である。

 

なくした人が何をもくろんでいるか、

私が何をどう感じるか、よりも先に、

もともとの目的を、できるだけ滞りなく果たすことが、この場合は最優先。

だって時間、ないのだもの。

私はそういうふうに捉え、優先順位の1番目を「渡すこと」に設定しましたよ、と。

 

そして単純にね、業務としてそのトラブルを減らすのなら、

受け取りのサイン欄、作ればおしまいなの。

紙1枚なんて、怒濤の仕事の流れが起こっているときなら、

なくなってしまうことも、あり得るから。

よろしくないけれど、普通に、あり得るから。

そのときに「どこにある可能性が一番高いか」を、

なるべく明確にわかるように、あらかじめ手を打てばいい。

 

で、あとは、私が「受け取ってないと言い張られること」を、

心地悪く感じた、という事態が残る。

 

私は、なくした人に『怒り』を覚えることもできる。

なぜなら、もらってない、と言い張るその相手の「姿勢」のことを、

『問題が起こったときには真っ先に「私には責任ありませんよ」と主張しに来る人』

と捉えることもでき、それは私の感覚では『卑怯』な部類に入るやり方だから。

その責任逃れのやり方を、私はズルイと感じる。あくまでも私は、ね。

 

私なら、渡された記憶がもし自分にはなくても

その『なくなった事実』を「手元にない」と表現するし、

「作ってもらいましたっけ?」と尋ねにいく。

つまり相手とは、事実の受け止め方が違う。表現の仕方も違う。

問題に対処する際の、感覚が違う。

それだけのこと。

 

で、さらに、私はその相手のことを、そもそも

「認められたい気持ちが強すぎないか?」と見ていた。

 

ならば。

「怒っても、きっと、ある意味ムダ。今は通じない」

と、私は捉えることにしよう。

職場というところでの、業務上の人間関係において、

今すぐに自分が怒りを持った挙げ句、

さらに伝えて「届かない空しさ」まで抱えるの、イヤだわ。

 

と、この場合は私が『折り合いをつける』ところはまず現状、放棄した、と。

 

そうしたら、相手が先に、勝手に怒った。

しかも相手も『折り合いつける』の部分は、放棄してきた。

 

おお、すげー。

だがしかし、やっていることの後半は、

はい、お互いさま。

 

そうなのよ、怒りもある意味、

その相手と『和解』『共有』『共通認識』を持ちたいがゆえに

表れたりすること、あるのよね。

「こちらの考えをわかってよ」「言ってる意味を、正確につかめよ」だから。

 

そこが必要なければ、怒りだって、実はそれほど湧かない。

たとえ湧いても、仲のいい友だちに、

話させて、と頼んで、時間を作ってもらえばいい。

吐き出したらそれでスッキリすることもあるし、

どうしても整理できなきゃ、カウンセラーさんのところへ行けばいい。

 

で、それ以降は、私と「違う感覚」の人が、

常に職場の近い位置にいる、という状況を、私が『どう扱うか』であって。

 

相手が怒っているのも、まあ、心地悪いと言えば心地悪い。

私とは関係ない、ご自身の抱えている問題の部分で

怒っておられるだけなんだけど、

それでもわざわざ敵意を表情に出されて目も合わされない、なんて態度を

表現されるのは、別にいい気分ではない。

 

その一方で、トラブルの責任はない、と

真っ先に言い張りにきた相手のことを卑怯だと思った、

その自分の感覚も、まだ存在している。

 

はい、ここからは完全に、私の選択。

ならば私は、無理して和解しない。

私がこびる必要はない。怒りを返す必要もない。

私は明確に、相手に対して、もともとやるべきこと(書類作って渡す)は

きちんと行った。それでもトラブルが起こって、その対処もした。

相手に対する後ろめたさは、何もない。

 

そこまでで、すでにエネルギー使ったうえ、

さらにまだ、怒りを返すのって、もう自分のパワーの無駄遣いの域に入る。

わざわざこちらも、相手に対してその瞬間、怒りを発する必要あるから、

また、そういう種類の怒りって、思い出すだけでも腹が立つから、

そのエネルギーの使い方って、もはや、くだらん、と思えるのよ。

なので相手の表情も、放置して横に流す。

 

だがしかし、私が自分でその選択をするのだから、

相手がこちらを見なくても、ほかの人と接するときのように、

相手の目も普通に見ようとする、私はね。

 

つまり、ここだけ一瞬、

相手はピンと張り詰めた空気感を発して、拒否を表現してくるから、

私も流すという意識をするためのエネルギーを、毎回使う。

これはもう、避けようはないので割り切る。

 

別に意地を張るとか、そうやって対抗するとかいう感覚もないのよね。

それでも「普通にする」ほうが、一瞬だけで済む、

私のできる今の選択肢の中で、私がいちばんラクだから、そうする。

わざと、すごく「にこやかに」書類を届けに近づくなんてこともしないしね。

 

もしいつか、この空気感を毎回、振りかけられることのほうがイヤになったら、

先日、コメント欄で教えてもらったように

にっこりしながら「どうして怒ってるの?」って、はっきり聞いてみて、

狼狽したところを「ケムに巻く」作戦でも、試してみようかな、とも思う。

 

でもこの相手は今回、たまたまだけれど、

すでにこちらの目を見ないという行動をしているから、

そのまま目を見ずに「別に怒ってません」と即答されそうで、

もしそうなったら私、きっと笑い出してしまって、

余計に事態を悪化させる可能性も(笑)考えられなくはないσ(^◇^;)

 

ま、そんな余談はともかく。

たぶん、私のこの選択って、ある種の「ハラをくくる」ことなんだろうとも思う。

こうやって「なぜ自分はそう感じるか。

そして私にとっていちばん無理なく楽になるために、かつ、

自分や他人に対して、ウソもつかないでいられるために、具体的にどうするか」

を落とし込めれば、

そのあとはもう、少なくとも動揺はしないよ。

 

私が、そうしたいから、そうする。

この部分に不安を感じたまま、行動するのでなく、

なるべく明確に自分でハラをくくってから、事態に対処したい。

折り合いをつけたい人とはできるタイミングで

折り合いつけられるよう、働きかけるし。

 

要は、どちらかが無理して「その場しのぎ」をすることで、

私が犠牲になるのも、相手を犠牲にするのも、イヤなのですわ。

それ、あとできっと、もっとややこしい事態になるから。

 

どう感じるのも自分の自由だから、その感じた結果でやること、

選択したことの責任は、自分で負う。

助けてもらえる人に、整理も都度、お願いしつつ、

あくまでも、気持ちを大事にすることを目的にして、やる。

 

そしてこれはもちろん、相手に対しても同じ。

相手の選択は、なるべく邪魔しない。相手の問題にも、巻き込まれない。

その人が今、学んでおられること、その事実自体を、なるべく尊重する。

 

よほどの支障が出てしまうときは、自分もまた、落とし込みつつ対処するけれど、

今回で言えば、状況、見えてないなあ、というふうに、

相手のことを受け止めているのは、私の感覚で、

それを大切にしたいのも私なのだ。

 

その意識があるうえで、必要なときには気持ちや考えを伝える。

その練習を繰り返していきたい。自分のために。

それでいいのだと、今は思えている次第。

 

だからね、どうせ、だのなんだの言って、

見ない振りをしている自分の気持ちのほうを、

きちんと大切に扱うために、掘り出してみていいよ、と「私には思える」のだ。

あなたを苦しめている『自分がいる』のは、

その部分で、自分の感じていることを無視したり、放置しているからだと、

「私には思える」から。

 

2015_04_18

The Nick Page
ID:201409111000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

「頑張る」と「我慢して無理する」は同義語だと思っている人へ

昨日、日付が変わる直前に挙げた前記事と、

そのもう少し前からの、一連の『認められたい』記事にもつながる話。

追伸としての、他の方の記事をご紹介したいと思います。

その前に、自分の文章もいろいろ綴りますが、お許しを。

 

認めてほしい、認められたい。

頑張っていると、ほめられたい。

ほめられたいのに、頑張れない。

2015_04_12

Photo by rafiq s
ID:201502071400
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

頑張れない症状が出ているのに、

頑張れと言う人がいる。

考え方が偏る症状が出る病なのに、

なぜそんなふうに考えてそんなふうにやるのよ!

と怒ったり嘆いたりする人がいる(私はこれをされるのが嫌で、鬱の間中、

実家の両親には病のことを秘密にしていた女……。復活開始後にバレたけど)。

 

これらがね、教えてくれているのは

「あなたが今『認識している』ところの、

その『頑張る』という感覚は、

あなたに、無理を強いる種類の捉え方となっていますよ、

そっちの捉え方でなくていいですよ」

ということだと思います。

 

本来の意味において

「頑張ればよいことがある」というのは、今の私が感じていることですが

(そして何度か書いてきたから……くどいと感じる方がいたらごめんなさい)、

『我慢して何かをやった「あと」で起こる

結果としての楽しみやうれしさ』だけではないのです。

 

頑張る、には、他にも『過程を楽しむ』というやり方があり、

過程を楽しめるからこそ

『頑張る』=『やり続ける』ことが苦痛にならない

の範囲となって、続けられるというメリットも生まれるのだと。

 

たとえばチョコレートやご飯などをダイエットのために大部分、

いきなり絶ってしまうやり方。

そして常に「不足感」を持ち、実際に栄養も不足気味になる。

そんな無理をするから続けられなくて、

反動で、ある日、たくさん食べる。

 

しかもそれまで栄養不足気味で、

自分の身体を「飢餓」の方向に近い状態に追い込んでいれば、

久しぶりの栄養分に身体はとても喜び、身体の恒常性を保つために、

ここぞとばかりに、体内に蓄えようとします。脂肪として、骨として。

 

だから、以前よりずっと早く、一気に体重が戻り、

しかも体型は、ついて欲しくないお腹周りや顔に肉がつく、

という形ですぐ膨らみます。

そりゃそうです、それまで飢餓方向の状態にさせていたのは、自分ですから。

 

○月○日に☆kgになっておくだけ(そのあとはそこまで体重を落とさなくてもよい)、

くらいのわかりやすい目標であれば、我慢も確かにできます。

でも、一生、スリムな体型でいたいなら、

食べる量や運動量を、無理のないペースで調節していかないと、続けにくいだけです。

 

運動も、ある量を超えて習慣化させるると

「その運動量をこの先もこなせるように」と

身体が事前準備のために、大量の栄養素を必要だと感じ始めるのだそうです。

運動系の部活動をしている若者がたくさん食べるのは、

使ったから、だけではなく、準備のためにもそうなるようです。

 

過多な運動は、かえってふだんよりお腹を空かせることになるし、

身体は不足にならないようにと、これまたしっかり蓄える準備を始めてしまう。

つまりは栄養状態、血圧、血糖値、脂肪などの身体状態を的確に把握しながら、

個別に計算され尽くしたプログラムなどを実行しない限りは、

過度な運動も、いつかはダイエットに逆効果になるそうです(同様に、

安易な食事プログラムや薬剤等の使用も、反動をのちほど起こすことにつながるのは

想像できるかと思います。自分を守ろうとしてくれる身体の機能って、

それなりにすごいのです)。

 

ダイエットに限らず、そんなふうに何かのために自分が無理をし続けると、

SOS信号が、自分自身から発せられます。

身体からも、気持ちからも。

 

それを無視して「何とかしよう」とすると、

必ず身体が、あなたを守るために維持体制そのものを変え始めたり、

反動として「何らかのエンスト」が起こるのです。

 

ということは。

自分をひたすらいじめ続ける人には、遅かれ早かれ、結果としての

「良くない反動」が降りかかってくるだけ、になります。

 

私も頑張りすぎていたときは、身体の抵抗力が落ちて、

まんまと大人の麻疹で入院とか、やっていました。

ま、子どもの頃「三日ばしか」にしか罹患してなかったことも原因ですが(^^;)

 

あとは壊死性リンパ節炎。ひたすら微熱が続いて、身体がだるくなるという病。

大病院の、リンパ系の専門医でも

「教科書でしかお目にかかったことがなかった」と話してくれました。

 

そんな感じの反動、そして最後に、徹底的に自分を認められなくなる、鬱という病。

段階を経てますね、ええ、私も。途中で気づいても良かったのにね……。

 

まあ、私はそういう学び方でないと、気づけなかったタイプということです。

そして今はその学び方自体、私自身は否定していない。

それどころか、鬱病で気づけて良かったと思う。

鬱病の、さらにその先を進み続けていってしまうと、

見えてくる出口は「生きるか死ぬか」しかなくなるから。

その出口を、確かに私もあのとき、暗い暗いトンネルの中で見ていたから。

 

話を、元に戻しますよ。

『頑張る』その力は、だから今の私には、

『楽しめること』に向けたほうがよいのだと思えるのです。

 

たとえば単純に、

歌ったり、踊ったり、音楽を奏でたり絵を描いたり、

自分が楽しむための文章を綴ったり、

何かを観に行って晴れ晴れとした楽しい気持ちになったり……。

 

そうやって、笑うこと、心地よくなること、うれしさを感じること。

自分の感覚を喜びの方面で満たしてあげることは、

自分にとって決して『苦痛』ではないはず。

 

それならば、そうした喜びの時間を、費用面でも確実に得たい。

ずっと安定した「安心」も、自分は欲しいから、

たとえばそれゆえに、サラリーマンをやるのだ、というふうに捉えてみる。

サラリーマンという立場は、自分が選んだ『安心と喜びのための通り道、手段』である。

そういう意識が当たり前になれば、仕事をやる意味も、

少しずつ変わっていくでしょう。

 

さらには、その、自分が選んだ仕事で、自分が「楽しめる部分」に気づければ、

「楽しみを味わう」ほうに注目することで、

ストレスを少しでも減らせることにもなります。

 

この作業はわりと好きだな、と思えたら、

その作業が、なぜ好きだと思えるのかも、

自分のために、知っておくといいですよ。

一度、紙に箇条書きでもして、

そのポイントを自分に対して見える形にしてあげるのはお勧めです。

あと「やるのが苦痛ではない作業」にも、よいポイントは隠れていると思います。

 

つまりはやった「あと」の達成感でなく、自分に向いている部分を味わう、

その過程を楽しむことのほうに、

力をより、注いであげればいいのだと。

これも『頑張ること』の範囲には、含まれませんか?

自分が注力するのだから。

 

もちろん、今は苦しすぎて、仕事など手につかない状況であるのなら、

ひたすら「過程から楽しめること」を探せばいいですし、

それすら難しいときには、柔らかいタオルケットなど、肌触りの良いもので

自分をくるんで、安心させてあげて、眠りましょう。

眠りが浅いなら、寝る前にゆっくり入浴したり、

夕方4時ごろに、軽く疲れる程度まで散歩してみるのもいいですよ。

そろそろ寒さも、和らいでくるでしょうしね。

 

そのときには、街路樹の下草の花や緑にも、注目してくださいね。

何も求めず、でもそこで「普通に、シンプルに」生きている植物を見ることは、

自分に「温かい気分」を与えてくれます。

花の中心部分の、不思議さや美しさを見てもいいです。

 

町の喧騒は、どうしたって今の自分とは関わりない、と

思える人もいるでしょうから、それこそ自分を非難せず、

はい、関わりないままでいてください。別にそれでいいので。

そんな期間もあるのです、人生では。ただそれだけの話です。

今の状態で見栄、張らなくていいですよ。それってホントに、くだらないから。

変わりたいとか言いながら、見栄を大事にし続けると、

よけいに変化を遅くさせることにつながります。

 

何のためにそんなこと、するのでしょう。

変わりたいなら、「ちゃんと変わって」みていいじゃない。

過去の栄光の美味しいところを残したい?

それが理由で今、自分が苦しんでいるのに?

過去をゆるめて手放すこと、そんな頭の中だけにしかない、記憶という「亡霊」に、

もう自分が縛られなくていいこと。

それをゆるそうよ、まず自分に。

 

遠くの景色とか、空を眺めるのも心地よいでしょう。

とはいえ、展望台等の、あまりにも高い広い眺めは、

自己の「現実感」をさらに薄くするので、

鬱の人には単純に向いていません、あしからず。

高すぎず、かつ、雑草が生えているような土手の上くらいなら、ちょうどいいかも。

 

そんなふうにして『あ、これは心地いいかな、楽しめるかな』というものに

少しずつ、気づける機会を作って、自分にそれらを増やしてあげてください。

 

私の場合は、もはや回復するしかない、と自分に定めた頃、

睡眠時間がまだ狂いまくっているなかで

平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』に、ずいぶん助けられました。

時代小説にはそのときまであまり興味がなかったですし、

当時はまだ完結していなかったのですが

(現在は新章で、子どもたちの時代の話になっています)、

そのとき出ている最新巻までの全巻を、何度読み返したことか……。

悲しみの中の温かさも表されていて、慰めとなりました。

 

ま、こんなふうに提案のみをしても、

「ふん、どうせ私は」とソッポを向かれるだけかもしれないので(笑)、

楽しむことを無視した『頑張り』について

ていねいに説明してくれている記事を、ご紹介しておきますね。

このブログ、タイトルこそ『スピリチュアル』と付いていますが、

今回の説明は、英会話の勉強 vs. Google翻訳など、

現実的でちょいと笑えますよ。

 

読者からの反応(というか反発)が強すぎて、意図せず1週間にも渡って

ご説明されることになったようです。

文章も読みやすいので、ぜひ最後まで、読んでみてくださいね。

スピリチュアル的な部分は受け止めなくても、本当にだいじょうぶな話ですから。

 

◎みつろう さん
『笑えるスピリチュアル ~ 知ってるトキはシっている ~』

努力シリーズ①
努力シリーズ②
努力シリーズ③
努力シリーズ④←これはメソッドだから、いつでも使えます。(だそうです)
努力シリーズ⑤
努力シリーズ⑥
努力シリーズ⑦

 

 

「辛い自分」をそれ以上責めない、憐れまない

鬱、あるいは鬱的な状態により、脳みその働きが

暗い思考ルート中心になっている方は、

働きが普通になれば本当は、

そうは受け止めないこと

も、自分にとって悪く捉えたり、

わざわざわざ悲しい感情を引き起こすきっかけに使ったりします。

 

私も過去を振り返ると、

なぜあのように受け止め、使っていたのだろう、と思える出来事が、

いくつも見つかります。

 

つまりそのとき、それくらい自分の脳みそを、

限りなく疲れさせて、誤作動を起こさせているということ。

 

起こっている事態の内容云々ではなく、

その「根っこの原因」、自分の内側に、

いろいろな意味においての、

あなた自身の「疲れ」があるのです。

 

うまくいかないことがあって、

でもそれを必要以上に、より強く

『うまくいかない、いかない、いかない、

ダメだ、私はダメだ』と、自分が

まるで何かの呪文のように唱えてしまうなら。

 

その瞬間にこそ

「今はそういうときなんだ、

これは自分の脳みそが、

疲れすぎて辛いと訴えてるんだ」

ということに、気づいてあげてください。

 

あなたが、そこでさらに脳みそを酷使して

自分を責めることでも、

憐れむようなことでも、ありません。

そういう脳みその状態になっていること、

そういう症状が出ていることは、

 

よい

悪い

 

の判断を、超えたところにある「事象」です。

 

私たちは、脳みその仕組みを持って生まれてきましたが、

その脳みそのことをすべて知っているわけでもなく、

ましてや、自分が望むように制御できるようにはなっていないのです。

たまたま『思考』として表れるので、完璧に制御できそうに感じるだけです。

思考も機能の一部、ですし、

自分が制御出来る身体の機能なんて、

身体がやってくれている「すべて」のことから見れば、

ほんの一握りしかありません。

 

心臓の動きを、自分で止められますか?

血流に、流れるなと命令すれば、

血管から血は引きますか?

 

とくに思考に至っては、

私たちは、自分で何とでもできるものだと

タカをくくってしまいがちですが、

脳みそが働きすぎ、

疲れが溜まってそれがあまりにキツくなれば、

脳みそ自体が、うまく生きて調整をはかり、

そうやって恒常性を保とうとするあまりに、

「今まで自分が知っていた『いつも』」とは違う働きを始めるのです。

 

もちろんそれだけが問題のすべて、とは言いません。

あくまでもそれは『根っこ』ですから、

さまざまな要因、環境やあなた自身の

ふだんからのものの捉え方や、実際に直面してきた出来事等が、

あなたを痛め、疲れさせてきた面はたくさんあるでしょう。

 

でも、自分で呪文を繰り返してしまうほどのときは、ほぼ間違いなく、

『私は疲れすぎています、もう、これ以上ご自分をいじめるのはやめてください』

という脳みそからの信号が、発せられているときだと思えます。

 

なのに、発熱すればまだ、身体の異常に気づいて多少は休める人でも、

脳みその悲鳴は、無視しようとするのです。

 

その自分に対する『自分からの悲鳴の声』を、

どうぞ今は、まず感じてあげてください。

 

どんな事情があるにせよ、

どんな都合があるにせよ、

あなたがあなたの脳みそを

そこまで痛めつけなくてはいけない理由はありません。

 

私から、断言させていただきます。

あなたはそこまで、

自分で自分を痛めつけなくても、

本当にだいじょうぶな人、なのです。

 

何の根拠があって、って?

この手の「捉え方に関するブログ」を読める環境や事情は、

すでにあなた自身から許可されているからです。

許可? そうです、自分に対して、そうしようと感じることができる「思い」。

その部分で、あなたは、力を備えている。

だから今、すでに、さまざまな可能性を自分のためにつかむ『機会』を

自分が持つことを「許せている」のです。

 

そもそも未来が決まった人など、誰ひとりとして存在しませんが、

鬱の脳みそは、未来を悪く考えすぎて『今まさに』苦しむのを、

この瞬間にやめてほしいと、あなたに伝えています。

 

そう、私のブログを読もうが読むまいが、

未来が決まっていないのは同じですが、

きっと何らかの答えを求めて、私のブログも読もうと

思ってくださった方が多いと思うので、

その時点ですでに、あなたは

「ここから抜け出したい」という気持ちをお持ちのはず。

それを『模索する力』があるからこそ、きっと

こんなタイトルのブログにさえ、目を通してくださっているのですよ。

 

どうか、この事実が知らせてくれている『あなたの力』を、

ご自身で、感じてみてください。

そしてそのことを、信じてください。

あなたはすでに、力を備えています。

だからこそ「答えを探そうとすることができる」のです。

 

私は、そのあなたの力を信じているからこそ、伝えています。

あなたの力が発揮されているからこそ、

このブログに今、たどり着いてくださっていることに、感謝いたします。

 

それは、間違いなく、あなた自身の力。

あなたが、あなたのために、すでによい方向で発揮できている力なんですよ。

 

だからどうか、これ以上、

ご自分の脳みそを、疲労させることはやめて、

いったん、ご自身をゆるめてあげてください。

 

あまりにも疲れてしまった、

そういう脳みそなんだと、今はただ、認めてあげてください。

それを批判しないでください。よけいに脳みそを使いますから。

 

そして、脳みその疲れを減らし、誤作動を少なくしていくために、

温かい方向の心地よいものを、自分に感じさせてあげてください。

温かい心地よいもの、のみでしばらく、自分を満たしてあげてください。

あなたの脳みそが、少しでもラクになれるように、

溜まった疲労を、少しでも手放せるように、そうしてあげていいのです。

 

何かを捉え直していくのなら、その疲労感が『抜けたあと』からです。

どうか、私が、これを読んでくださっている方のお力を信じているように、

あなたも、ご自身を信じて、

今の自分を罵倒もせず、悲観もせず、

「そこまで疲れているから、休んでいいのだ」という許可を、

ご自分に出してくださいますように。

 

私はどんなに馬鹿げていると言われようと、

きれいごとだと笑われようと、

これからもこれを読んでくださる方自身のお力を信じて、

こうした文章を綴り、心から祈ります。

まさに今、あなたはすでに、本当にだいじょうぶな人です、と。

それは、本当に『単なる事実』なのです。

 

2015_04_11

Photo by 写真素材ルーム