カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

私が自分に作った『根本的な罠』の話

母にとっての悲しい過去、

そういうプライバシーにも関わることなので、

一部、ぼかして書く。

多少、わかりにくいことを、許してね。

 

うちの母は身体が小さい人で、

骨盤も小さくて、ゆえに私は、早産で生まれた。

 

小学生になったとき。

母は、私を生むより前に、

2回、流産を経験していたことを知った。

 

それでも母は、どうしても

子どもが2人は欲しいと願ったのだそうだ。

流産を経験していてもそう思えたのなら、

それは母にとっての祈り、

みたいな気持ちだったのかもしれない。

 

そして私が、生まれた。

9ヵ月の早産で、保育器に1ヵ月間、

入るような病弱児ではあったけれど、

私は、生まれた。

 

でも、当然のことながら、

私は自分が生まれたときのことを

小学生になったときには、覚えていない。

そのとき、家族がどんな気持ちで

いてくれたかまでは、覚えていなかった。

 

そして流産の話を知った私は、そのときにこう捉えたのだ。

 

流産した2人のうち、どちらかがもし、生まれていたら、

私はこの世に生まれてこなかった存在だった、と。

 

とくに、私と兄弟姉妹の間で、

誕生しなかった存在のことを、私はなぜか身近に感じた。

そしてその人の分まで、生きるのだな、と捉えたのだ。

 

このとき、私はある種の罠に落ちたと、今なら思える。

自己否定につながりそうな、自分の存在価値の薄さ

(本当なら、私は、生まれてこなかった子ども、という認識)と、

だから私は、2人分生きなければいけない存在、がんばらねば、

の2つを、思い定めた瞬間だったから。

 

一見、前向きでありながら、自分内で、自分を『低く見守る』視点、

自分を縛る視点にも、それはなっていった。

がんばらねば、の根拠に、私が自分で、使ったのだ。

 

母が、流産という、女性にとって

すごく辛い、悲しい経験を経てでも、

望まれて、9ヵ月、小さな身体の胎内で育ててくれた存在だったのにね。

しかも全身黄疸が出て、生まれた日に輸血となり、

保育器には入ったけれど、

そうまでして、育てようとしてもらえた価値のある子どもだったのに、ね。

 

生まれてきた子どもは、皆、そもそも、

そうやって誕生してきた子どもなのだ。

ひとりの例外もなく、母の胎内で存在することを

ゆるしてもらえた存在。

 

しかも私の命の、元の半分は、

母が女性として『生まれたそのとき』から、

卵子として存在していたんだよ。

 

つまり、母の母、私の祖母が、母を胎内で育てたときから、

細胞としての私の一部は、生まれていたのだ……。

それが命のつながり、生きものとしての、私の存在の『元』にある。

 

そしてまた、父親からも、一番早く、卵子にたどり着ける力を受け取っていた。

さらには、遺伝子、というものの組み合わせを、

私のために、独自に変化させてもらえたから、兄弟姉妹とは違う、

他の人とは違う、私、が生まれた。

 

他の人とまったく同じにはならないよう、

私が、周囲が、私のことを、

ひとりの人間であると識別できるように

変化させてくれたのは、誰だろう?

宗教的に言えば、神さまになるのかな。

 

誰かの完璧なクローンではない、

量産される人形みたいな存在、ではない私。

この世にたったひとりしかいない私。

卵子と精子が協力し合い、さらに個別に、

いろいろな変化をさせてもらい、それを受け取って、

胎内で育って、そのあとから生まれてきた、私という存在。

 

『本来ならいらない、生まれなくてよい人間』ではなかった。

出産という苦しい思いをしてでも、

生まれてよいと思われ、生まれさせてもらった存在だった。

 

そして生まれてからも、生きものとして、

毎日、動植物の一部を、命を、

これまでたくさん、いただけている存在。

 

いっぱい、いっぱい、すでに受け取っている。

受け取ってきた結果としての、今の私がいる。

 

それに感謝せず、あの苦しんだとき、

私は、何を卑屈に捉えていたのだろう。

 

何を求め、何を認められたがり、

足りない、足りない、満たされよう、と

もがき苦しんでいたのだろう。

 

存在として、私は、もうすでにゆるされていて、

もうすでに、たくさん受け取れていたのに。

日々、受け取っているし、

これからも、受け取っていけるのに。

 

いてもよいから、生まれさせてもらえた。

私が『生まれた』こと、が、少なくとも

他者を安心させ、安堵させ、あるいは幸せにしていた。

 

そして、たとえそれが『過去の出来事』であったにせよ、

根本は、誰しも同じ。

望まれても、生まれ出でることのできない存在も、たくさんたくさん、いた。

たとえ『親になんか、望まれていたとは思えない』人でも、

生まれることはなぜかゆるされた、結果的に。

 

でなければ、あなたは今、ここにいない。

悔しいかもしれないけれど、そこだけは事実で、

しかもその命は、祖父母からも、そのもっと前からも、つながっている。

つながってきたからこそ、いる存在。

 

立派でないとか、いろいろ卑下しているかもしれないけれど、

つまりは自分のことを、たとえば立派だと思いたい、

そこに囚われているだけなんだよ、今は、たまたま。

私が自分で罠を作って落ちたかのように、

あなたも何かを、自分にとって苦しい方向で捉えているだけ。

 

今もすでに、食品としての、他の命をいただけている、

実りという次世代のための命を、いただけている存在。

誰かが一所懸命育てくれたものを、受け取れている存在。

自然が、自分らしさを発揮してイキイキしている、

それを受け取れている存在。

 

自分内で罠を作り、その罠に自分から落ち、

足りない、と信じ込み、あえいできた、

その時でさえ、豊かに受け取ってきたからこそ、今、ここにいる存在。

 

もっと早く、そこに気づいてみても、よかったのにね、私。

今、ここにこうして、存在することを、素直に、感謝してよかったんだね、私……。

 

2015_03_28

Photo by efzareklam
ID:201502240000
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

他者の例なら、気づけるかな……(>_<)

もうね、昨日の記事を書いた翌日に、

なぜこんな強烈なものに出会ってしまうのかと

軽く絶句してしまう……。

 

迷ったけれど、これらに立て続けに出会うということは

伝えろ、ってことだと思うので……。

自分的にはかなり異色な形で、

その立て続けを紹介したいと思います。

記事いろいろ紹介編、1本は読み物サイト、残りはブログ。

 

私も「まだ変なふうに認められたい」な方面を持っているがゆえにね……。

厳しかったですよ、かなり。

 

1本め、とてもとても痛い思い込みの例。

読むの、辛かったら途中でやめてね。

マイケル・ジャクソンのことも思い浮かんでしまった、

自分を見捨てて、他人に気に入られるように全部出しまくって、

その代わりにたとえすごい評価をもらっても……、

もらってももらっても足りない、もらうほど不安になる、の例。

 

それをやり続けても、その視点のままでいる限りは、決して満たされないよ、

の究極の例、のひとつだと思える。

逆に、まったく出せない人も、実は同じ視点の問題、抱えていると

私には感じられる。

たとえばクールぶってるだろうけど、と、あえて言っておくね。

 

2本め以降は、どれを選ぶか迷ったけれど、

昨日の気づきの感謝をこめて、

心屋さんのお弟子さんシリーズで(でもブラックではないよ)。

2本め以降の記事でフォローもするとはいえ、

ある意味、ショック療法ですね、ゴメン……。でも意識してやってみる。

 

どんなに頑張っても、視点が違うと、苦しいまま。

頑張っていく、よりももっと前に変えてほしい、

「自分を見捨てている」という視点……。

そこに、気づいていただけますように。

 

一見、恋愛などの方面に傾いているかのように

受け取る人もいるだろうけれど、

「ファン」や「鳩」や「彼」等を、

自分が認められたい相手に、

自分が認められたい世界に、

置き換えてみてね。

 

1本め、とてもとても、とっても! 強烈な例。

「14歳でAV女優を志した」さんまもハマったAV女優・紗倉まなが抱える闇

 

2本め、ソフトな例と、視点の説明。

■いいこって どんなこ?

 

3本め、相手をダメ人間にするよ、の例。仕事や会社に置き換えるといいかな?

【業務連絡】お金のセミナーにお申込みの方へ/お節介オンナは都合の良いオンナ

 

リンクさせていただいた記事の方、許可なくリンクしてすみません。

カウンセラーさんとして活動をされていることを考えて、

今回は勝手ながら、ご連絡なしでリンクを張らせていただきました。

ご不快でしたら、ご連絡ください。すぐ削除いたします。

そして気づきを、ありがとうございました。

(追記。翌日、やっぱり勝手にリンクは居心地悪くて、

事後承諾ですみません、と連絡して、無事にお二人から掲載許可をいただけた。

よかった……。感謝)。

 

さて。

「ここまで私はひどくないし」と思われた方。

では、相手の、あるいは自分の「どの辺が、どこまで、ダメ」ですか?

書いてみてください。

 

次に、書いたこと一つひとつに対して

「なぜそのことを、ダメと思えて」いますか? 理由をさらに横に、

書き出して並べてみてください。

 

そして最後。

その理由、本当に本心からそう納得できる

「自分にとっての本物」のもの、ですか?

自分に対して、問いかけてください。

 

格好つけてませんか?

そうじゃなくても、別によいことはありませんか?

無理していませんか?

 

さらには、

「そんなこと言ってもどうせ」な方。

何をあきらめていますか?

そしてなぜ、それをあきらめていますか?

そのあきらめ、自分でもスルリと納得できるものですか?

自分には良いところがない、イコール「過去に誰かに、けなされた点」

では、ありませんか? 

 

なぜその人の言うことだけを信じて、

自分の気持ちに嘘をつくほうを、選ぶのでしょうか。

 

私はいつも正しい、も

私はいつも間違っている、も、嘘。

そんな片方だけの人間、この世にいないから。

本当に、そんな人、世界のどこにも存在していないから。

 

その思い込みの世界、あなたの空想の世界観から、

そろそろ自分の目を、覚ましてあげてもいいのに……。

 

何よりね。ふだん自分で決めつけている「自分の姿」の逆を、

あなたは、他者にやっているかも、だよ、実際には。

 

気が弱い人ほど、他人を無作為に攻撃するのかも。

だって自分がすぐ傷つけられると信じているから。

あるいは、好かれたいからと相手の面倒をみすぎて、

絡みすぎて見張りすぎて、ウザイと言われることになるかも。

……あなたが今のその弱気な気持ちのまま、それでも、自分のために微笑むだけでも、

世界は、その日から、ガラリと姿を変える。

他者が変わるんじゃなく、自分にとっての世界が、ね。

自分に対して本当はやりたくないこと、やめようよ。

やめて、いいよ、本当に。そこまで世の中、ひどくないよ……。

今日はいろいろ、キツくてゴメンね。

でも、これまでずっと勘違いしたままで

自分を覆っている、その手のひら。

苦しいままなら、そろそろ本気で、外してみない?

 

2015_03_24

Photo by miez!
ID:201208011000
GATAG フリー画像・写真素材集 3.0

 

○○する、○○になる、なんて……

前回の記事で、自分の状態について、

やわらかく「ある」ことも、

自分のために選んでいいよ、と書いた。

 

たぶん「何言ってんだよ、そんな気持ち、今、なれるわけない」と、

反発する人もいるかな、と思いながら書いたのだけれど。

 

気持ちが変わらなければ、自分をやわらかくすることなんてできない、

やわらか、なんて、今の問題を抱えていたら絶対無理。

もし、そう感じている方がいるならと思い、今日は書きます。

やわらか、をひとつの例として扱い、もう少し。

 

まず。本当に物理的に「身体をほぐす」やり方で

自分をやわらかくすることに対して、

すごく抵抗を感じるという方は、少ないと思う。

 

マッサージを誰かにしてもらうなんて、あり得ないとか、

お風呂に入っているときに、身体の力を抜いてリラックスするなんて

絶対に許されない、と思う人は、ほとんどいないはずだよね。

 

マッサージだって、知らない人に触られるのは嫌だとしても、

気心の知れた人だったら、また、肩や手のひらを優しく揉むくらいなら、

たいてい、だいじょうぶなんじゃないかな。

 

この「肌に何か触れるものによって」自分が力を抜くことって、

発熱等で、血行を良くすることが身体にとって負荷が大きすぎるなどの場合を除いて

単純に、自分をやわらかくしてあげられるということは、

ご理解いただけると思う。

 

では、なぜそのときは、やわらかくする「許可」を、

自分に与えることができるのだろう?

 

意味、わかるかな。

なぜそれが可能かというとお湯や、身体への優しいタッチが、

あなたの抱える問題と、何ら関係性がないから、だよね。

 

もし万が一、お湯に浸かることで今の問題が増幅するなら

今日は入浴しない、と選択するだけで済む。

 

お湯そのものは、別に悪いものではないし、

それを使い、自分が身体の力を抜くことも、別に悪いことでない。

単純に、そのとき『力を抜く』、という身体の状態を、

味わうだけの話だと、あなたははっきり、わかっているはず。

 

だったら、前の記事で例にあげたような、

プリンやガーゼや羊毛などを自分の中にイメージしてみることは、

何か、とんでもない問題を引き起こすのだろうか?

 

イメージによって「やわらか」な『状態』を作ることは、

あなたには、許されない、あるまじき行為?

 

もし万が一、そこまで……誰かに命令でもされるなどひどい制約を受けて、

考える内容のことまで縛りを受けているなら、

今、私のこのブログを、落ち着いて読めてないはず。

 

やわらかなイメージをすることで力を抜く、

その『状態』と、あなた心の中の『問題』は、

お湯と心、の場合と同じように、本当なら関係性、特にないよね?

 

ではなぜ、そんなこと『できるはずない』、

いきなり可能、不可能、などと、捉えるんだろう?

気分が暗いときには、身体の力を抜いちゃいけないのだろうか。

 

ここから、さらに私は意識して、必要な方に伝われば……と願いながら、

言葉を書いていってみるよ。

 

そんなこと不可能、と瞬間的に捉えてしまった方へ。

まさに、そうした反射的な捉え方が、今のあなたの、

思考のズレ、視点のズレ、の、ひとつの「現れ」ではないだろうか?

 

やわらかなものをイメージすることで、

自分の身体の力を抜くという『状態』は、

あなたの心の中にある問題点と、本来なら関係はない。

でも、あなたはとっさに、結びつけてしまった。

 

もしかしたら他にも、今、別に問題とはつなげなくてもいいことまで、

いちいち自分でリンクさせてから、

捉えがちになっているのかもしれない。

その可能性、私には、あると思えるよ。

 

違う!

そんなふうにリラックスしてる場合じゃないんだもの!

という方には。

 

もしかしたら、そこまで思い詰めるからこそ、よい解決策が生まれない、

それほどまでに自分で、

自分の視野を狭めすぎている可能性があることも、伝えておきたい。

 

さらに。

そんなアイデアレベルとか、思いつきで解決できるような問題じゃないよ!

という方へ。

 

ならば、今のように苦しみながらその問題だけを抱え、見つめ続け、

何も、身体の状態すら変えずに、いろんなものを

問題とリンクさせまくって、嫌な思考と苦しみを続けていけば、

いつかその問題は、解決するかな。

 

脳の快、不快を司る物質を調べている研究者が、

先に「わざと」笑顔を作ることで、身体が反応して『快』の物質を

呼び起こし、その結果、本当に気分が良くなって、

わざとでない笑顔も浮かべるようになるということを、論文で発表してるよ。

 

たとえ鬱のど真ん中でも、たまに入る風呂(たまにしか入れないよね)で

風呂場から出た瞬間、サッパリした感じを一切、感じないという人は、

そんなに多くはないと思う。

そのとき、瞬間的にでも、問題点からは、意識が離れるよね。

 

問題点から自分の注目がそれて、

快、の感覚を、身体に負担をかけることなく味わえたら、

それは、暗い状態の脳みそにも効くことは、知ってるよね。

脳みそも、自然に、別の思考ルートを、つなげられるかもしれないよね。

そうしたら、今の苦しいだけの視点を、少しすつでも、外せるかも。

 

その可能性があるなら、たまには、やってみてもいいんじゃない?

条件反射的な理屈などは、つけないで。

それとも、イメージして何か損でもする? 時間とか、かな?

あるいは効くはずないって、決めてかかる?

では、高価な薬なら、OKなのかな?

 

こんなふうに、関係ないもの同志を、今は私、いきなりつなげちゃうのか……、

何で私、とっさに反応しちゃったんだろうな? など、非難でない形で、

自分の思考パターンを淡々と、遠くから眺めて、

自分に静かに問いかけてみることは、

いずれ、あなたの役にきっと立つだろうと思うし、

ネガティブオンリーの思考回路から、自分をはずしてみて、

たとえば身体の『状態』に注目してみることは、

自己の気持ちを単純に切り替えることにも、つながると思うよ。

 

風を感じる、でもいいし、夕焼けを眺めてみるのでもいい。

今の思考パターンとは関係ないことを味わう、という意識を、

自分の中に作り出してみることくらいは、

自分に許してあげても、私は、いいと思える。

 

よかったら、できる範囲で、やわらか、や、ゆるやか、を味わうことも、

意識して、自分に許可していってね。

 

その選択を自分にしてあげられるのは、あなた自身だけだから。

 

2015_03_16

Photo by aronho
ID:201409111500
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0