カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

自分の内側に『生じる感覚』に従ってみる ~その3~

今回の記事、その1・その2はこちらからどうぞ。

◎その1
http://miharu.feeling.jp/?p=2773

◎その2
http://miharu.feeling.jp/?p=2777

 

で、大事なのは、外側からの、その感覚みたいなものを、

自分が『どう受け止めたか』。それをまた、モヤモヤ感とか、

清々しい感覚、温かい感じ、などで、きちんと自覚してみること、なんだよね。

理屈とか理由とか、そういうところでない部分での、自分の「感覚」を知ること。

 

あるいは自発的にやる、自分から動く場合も、どんな感覚を優先して、

あるいは想像予測映像を持って(期待して、心配して)、動いているか知る。

 

不安から、おそれから、義務感から、自分が動くときって、

自分の中に、明るい方面の感覚、湧いてこないよ。

ギリギリしてる感じのもの、黒い、暗い感じ、重たい感覚のもの。

だからこそそのとき、自分に言い聞かせなくちゃいけなくなるのよ、

何らかの「大義名分」を。

「ダメ、○○であるべきでしょ!」って、

わざわざ自分を叱咤しなくちゃいけない。

楽しければ、想像しただけで素直にうれしくなるもの、自分が。

 

これ、家の掃除ひとつとっても、応用できるよね。

きれいになったあとの爽快感を想像して、やることに決めるのと、

やってる間の「面倒くささ」、重たい感じを想像するのとでは、

動き出し具合も変わる。

で、自分がやらないと、自分で爽快感、受け取れないんだよね。

他者に期待しても、受け取れないことがある。

 

何を大事に扱うことにするか。さっきの電車の話なら、

周囲の気配を想像することから湧き上がってくる、

自分の黒い感覚のほうを大切にするのか。

席を譲ってみる、という、温かい感じを、自分が使ってみるか。

 

しかも使ってみた結果。

必ずあとから! もしかして相手の笑顔と感謝が返ってきて、

温かい気配、の交流が起こって、自分も相手も、周囲の人も、

結果的に外側からホンワカしたものを受け取って、

そのままダイレクトに自分の中に、もっと温かいものが湧くかもしれないのだ。

 

掃除も終わった「あと」でやっと、爽快感が生まれるんだよね。

お風呂も、入り終わって外に出た、その

いちばん最後が、いちばん清々しい感じになれる。

 

わかるかな? 想像したものを想像通りに受け取れるかどうか、

事前に予測しても「そうならない」ことはある。

でも、やるまで結果は、わからない。

 

ならば理由がどうこう、でなく、どの感覚を大切にするか、で選んでみよう。

やった結果、疲弊して、自分が暗い黒いものだけを受け止める感じがするなら、

自分にとって今は、あるいはそもそも、やらなくちゃいけないこと、ではないのよ。

 

えー? じゃあ、仕事とか勉強とか家事、今、イヤだけど?

という人は、やらなければあとで自分が、

どんな感覚を内側に湧かせることになるかを、

素直に捉えてみればいい。

勲章みたいなものを周囲からもらって、鼻高々になる絵を期待するなら、

うん、別にやらなくていいよ。そんなの、その通りになるとは限らない。

 

勉強することで、広がる可能性を想像できるなら、

その可能性のワクワク感を、いちばん大切に扱えばいい。

ならばそのためにやるのは、今、なのだ、林さんじゃないけど(^◇^;)

 

他の感覚より、なるべく明るいものを選ぶ。

暗い方向にしか感覚を持てないことは、今はやめる。

明るいものでも、どうしても選べないときは、

自分がかなり疲れているとか、パワーがないんだな、って、自覚する。

それなら今は何より、自分にパワーを充填するほうが先。

情けない自分に正直でいよう、って、昨日書いたのは、この部分のことだ。

 

面倒くさい、という黒いもののほうを自分が優先してみる。そのときは、

ちゃんとその内側の感覚も単純に自覚してから、優先させよう。

その「あと」で起こる不快感、だるさ、それらから湧く身体的感覚も

自分が選んだんだってこと、きちんと踏まえておこう。

だって、今はパワー、足りないもの。仕方ないのよ。

 

なのにそこでまた、グジグジ自分を責めたりして、

身体的感覚で、苦々しい方面のものを選び続けると、

自分のパワー、漏れっぱなしになるよ。ダラダラ使う一方。

 

本当に疲れてるなら、わざわざイヤな想像ばかり繰り返して漏らさないでいいよ。

想像すること自体やめよう。パワーを大切にしてあげよう。

 

そして、最初のほうの話に戻るけれど、信念、観念だけから動くと、

明るい方面の身体的感覚、自分の中に、なかなか湧かないから、

そのときは、自分のその『信念』自体を、実は疑ってみていいよ。

その「こうあるべき」の思い込みこそが、

あなたのパワーの無駄遣いになってるかもしれない。

 

これ、理想とかで自分を追い込む人には効果あると思う。

美しいあり方、素晴らしい出来具合みたいな部分を求めているとき、

自分が本当に目指しているものを見分けられるから。

勉強とか成績とか、性格、心がけ、達成感、に対して冷静になれる。

 

たとえば、単純に、痩せてきれいになることで、何を得ようとしているのか、

本当に感覚のほうで、捉え直してみて。

他者からの勲章、自分への勲章なら、結局、続かないからさ、それ。

勲章的な栄誉を受け取って、鼻高々。認められたその瞬間だけ、明るい感覚。

はい、そこでおしまい……にならないで済む? 

たまたま勲章「も」得た、そのあとで、まだまだ自分なりの

ワクワク感、続けていけるかどうかを、感じてみるといいよ。

 

あと、ふだんはともかく、たまに自分が相手から暗い黒いものを何かしら、

「感覚」として受け取る場合、その人に対しては

いきなり近づきすぎるのでなく、しばらく様子をみよう。

自分が受け取る感覚のほうを、まずは信じようよ。

すると何を、なぜ受け取るのか、観察できるようになるから、結果的に、

相手のことも、自分が大切にしているものも、いろいろ見つけられるようになるよ。

 

どうか、あなたがいつか。

思い込み過ぎた信念、観念のほうにも着手できるよう、

まずはフラットになって、身体的感覚を、捉えてくださいますように。

ホカホカ、ホワホワ、トロトロ、

サッパリ、すっきり、さわやか、

キラキラ、ワクワク、ドキドキ。

明るい感じになれるほうを、自分が優先して、

あるいはそれを、いちばん大切に、目的にもしてみてください。

 

それは使いながら充填もできる、自分をうれしくできるもの。

自分でもいっぱい、受け取れる方向のもの。

だから静かに、心から、

私はあなたがその方向を見てくださることを願いますm(_ _)m☆

 

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Photo by mintchipdesigns
Pixabay

 

自分の内側に『生じる感覚』に従ってみる ~その2~

今回の記事、その1はこちらからどうぞ。

◎その1
http://miharu.feeling.jp/?p=2773

 

自分の内側の、そうした感覚を観察し始めると、

その感覚って、あるひとつの考えや思いつきに対して、

1種類でないことも気づけたりする。

 

たとえば電車に乗ったとき。

チラホラ、立っている人もいる程度の混み具合で、でもたまたま、

入れ替わりにあとから降りる人がいて、

自分が立った前の席が空きました、と。

このとき自分が疲れていたら、すんなり座ったりもするよね。

 

で、次の駅で、足の悪そうなおばあちゃんが乗ってきた、と。

はい。

ここで「あ、席を譲ろうかな」と思った自分がいると、仮定してみて。

席を譲る、という気持ち自体は、思いやりなので、

自分の胸が温かく、あるいは柔らかくなる、ホワッとする感じ。

でもこれが「譲らなければ道徳的に間違ってしまう」というような

義務感から発していたら、ホワッとはしないで、ギリッとする感じ、

場合によっては「面倒くささ」にまつわる、重たさ、冷たささえ感じたりもする。

 

さらに、周囲の目線に対する感覚、たとえば気恥ずかしさ、も湧くだろう。

このとき、目線と書いたけれど、まさに他者の注目を

自分が集めてしまうように感じる、想像する。

その目線は、首~顔のあたりに、針っぽいものが当たる、または軽くささる感じ。

あるいは目線でなくても、周囲の人が『耳ダンボ』状態になって、

こちらの会話に聞き耳を立てている『映像または写真』みたいなものを、

一瞬、思い浮かべるかもしれない。

すると胸は少し、ドキドキもし始める。

顔に血が集まるような。足元が少し浮くような感覚。

 

かつ、そのおばあちゃんの様子にも、もちろん自分は注意を払う。

譲ったら、もしかして「年寄り扱いして!」などと

怒り出すタイプではないだろうか、大丈夫、穏やかそうだよな、とか。

相手に怒り出されたときの、自分の不快感、『モヤッとしたもの』も

一瞬、想像するのだ。

 

これをね、ほんの数秒間の間に、私たちは、いっぺんにやる。

行動を起こす「前に」だよ、それも。

自分、相手、周囲に対するそれらの想像を、

自分のなかでリサーチ光線みたいに放ち、

そしていろいろな感覚を味わうのだ。

 

実際、席を譲るときには、周囲がそれに気づくから、

こっちに何かが集まる感じ、するんだよね。

他者の関心や注意をこちらに集めることを『耳目を集める』とも言う。

まさにピッタリ、その通りになる。

 

が、ここで他者が関心を持つのは、ほんの一瞬。

にも関わらず、他人を気にするタイプの人は、

視線や関心が、まるで車両中の全員から突き刺さるかのように

どんどん、自分に集まってきちゃうような気がする(想像で)。

すると、はい、意識しすぎて、気恥ずかしさの勝利。

立ち上がりかけてやめる。席を、譲れなくなるのだ。

そしてそんな自分を、情けなく感じる、

イコールその瞬間、よろしくない色合いののモヤモヤ感が、自分の内側に湧く。

 

長々と書いたけれど、これ、ほんの10秒ほどの間に起こって決着がつくことだ。

10秒、かからないかもしれないよね。

しかも自分の疲れ具合も一瞬ではかる、

足や腰、背中のだるさの程度を、リサーチしているかも。

 

別に、何か行動を起こさなくても。

明るい感じ、怖い感じ、イヤな感じ。

私たちは全部、一瞬で想像して、判断しているのだ。

 

そしてこういうことを、私たちは実は、常に、ふつうに、やっている。

会社で、家庭で、公的な場で、プライベートで。

 

外側の気配って意外に、自分は受け取ってるよ。

そしてそれを内側で感覚的に、判断している。

だから聞いてるふりして実は聞いてない人、をなんとなく判別できるし、

相手の怒りもどれくらいのものか、伝わってきたりもする。

ものすごく怒っている人なんかは、熱くて赤黒い感じのものを、

周囲に放っているように感じる。それを、肌とか感覚的なものも使い、

言葉だけでなく、全体で受け取っているのだ。

 

~さらにつづく~

 

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Photo by ゆんフリー素材写真集

 

自分の内側に『生じる感覚』に従ってみる ~その1~

昨日の記事で『自分が、どこに力をこめているか』、

もう少し書いていく、と述べた。

そのためにはいったん、全身の力を抜くことも必要だよ、と。

これについて、今日はゆっくり、話してみようと思う。

 

力を抜いてみると、マイナスでもないプラスでもない、

普通、フラット、の状態が、自分の中に生まれる。

 

このフラットさって、感覚的な表現だけれど、その状態から掴めるものは、

気持ちや思い、願いみたいな部分でも思い切り使えるのだ。

あと、自分なりの、危機やトラブル回避にも、ね。

それがなぜなのか、知ってほしいなと思う。

 

で、前置きとして、本当はね。

そこで先に、というか、さらに

自分が信じている『よい状態、あるべき姿』について

同時にフラットな視点から、見つめ直してみるといいのだけれど、

悩みや苦しみの真っ最中だと、そうしたことをひも解こうとすること自体、

ときに、自分が抵抗しちゃうんだよね……。

 

「だって、これが正しいこと、よいこと、よい姿、よい状態、に

決まってるでしょ!」というところから視点を離せなくて、

混乱しちゃったりする。

 

せっかく力を抜き始めても、自分がそこでは

常に絶対、力み続けていることには、気づけない。

その力の入れ方が、習慣になりすぎてて。信念、になりすぎてて。

 

このことを、以前『マイナスの無限ループ』の記事で書いた

カウンセラーの方が、信念でなく『観念』という言葉を使って

まさに今日、紹介してくれていました。

見事にタイムリーなので、挙げておく。いやぁ、感謝です。

 

「怒り」とどうつきあうか2・感情には製造元がある

 

この記事では怒りの感情を例にしてくれている。

でもこの「観念」って、怒りという感情だけでなく、

自分のこと、他者のこと、いろいろな評価や判断に使っているよね。

 

で、いつか、この観念の部分にタッチしていく、それをほどいていくことが、

自分をさらに楽にしていける方法なのだけれど、

今はまだ、自分には当たり前すぎて、あるいは

そこに「触れたくもないわ」という人もいるだろうと思える。

 

触れたら結局、自分にダメ出しするだけで、

また「何もない自分」を自覚するだけから怖い、とかさ。

 

そんなこと、実際には、まったくといっていいほど起こらないんだけど、

おそれから、そう捉えている人も多いと思うのだ。

 

な、の、で! ですよ。その前段階として、

力を抜く、そして「抜いた状態」から、

「自分がどんなときに、どこに力を入れるか」

「身体の内側のどこに『力み』『違和感』みたいなものを感じるか」

を、感じ取ってほしいと、思うのだ。

 

具体的に説明してみるね。

たとえば、真剣に、しかも真摯な気持ちから何かをしようというとき。

その最初の瞬間って、私たちは知らず知らずのうちに、

ほぼ必ず、下腹にぐっと力を入れて引き締めている。

覚悟を決める、決意することを『腹をくくる』と表現するのは

ただのたとえではないのだ。

 

下腹部を引き締める、力を入れると、気持ちが落ち着いて、

しかも身体的にも本当に、次の動作に移りやすいんだよね。

腰が揺れ動かなくなって、足がぶれなくてなって、移行も安定する。

 

これはまさに「力を入れる」という例だけれど、

身体全体、それぞれの箇所で生じる感覚って、いっぱいあってさ。

 

怒り、腹立たしさ、は、お腹の下のほうから湧いたと思ったら、

胸を通って頭の先にまで駆け上がる。強いものだと、

一瞬で全体に充填される『グワッとした、

またはブワッとした感じ、感覚のもの』でしょう。

しかも身体の内側が、その感覚で膨らむような感じ。伝わるかな?

 

悲しみは、主に胸を中心に、重たい、冷たい、青っぽいものが広がる。

うれしすぎたら、足元がふわっとする。

上半身が浮き上がる感じになるから、必然的に下半身がおぼつかなくなる。

 

空しさ、は、とくに喉元から胸、お腹の上部くらいまでが、スカスカになった感じ。

心が空っぽ、とはよく言ったものだと思うよ。

 

あと、誰かに対して、自分が感情的にふるまう、

あるいは意識してひどい仕打ちをする、言う。

その情景を「想像」してみるだけでも、

お腹の下の奥のほうから、胃のあたりまで湧き上がってくるような

モヤモヤっとしたものがあって、

それを実際にやると(代わりに皿を割る、のでもいいよ)、

『対象に叩きつけるように、自分がモヤモヤを吐き出す』感じがする。

 

しかもこのときの、この『モヤモヤ』は、決して美しく感じるものではない。

何かしら汚れているような、ネズミ色~黒、茶色っぽい、汚物的な感じ。

 

こんなふうに、何かを自分が行う、考えるとき。

自分に対して、相手に対して、生じてくる『内側の感覚』を、

もっと掴んでみてほしい、と言いたいのだ。

そのために、ふだんから、力を抜いておいて、と。

 

そんなもの、観察してどうなるの? と思うかもしれない。

あのね、ときにね、何を自分の内側に、自分が隠しているかを、

自身で気づいていけるのだよ。

 

……また長くなりそうだから、次につづく。

 

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