カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

身体いじめ=心いじめ

今回は「新型鬱」の方には、すみません、当てはまらないかも。

とくに自分を責めるタイプの鬱の病の方に向けた話です。

鬱の頭になるほど、自分を追い込んだ場合、

身体は間違いなく「すでに、とてもとても、ものすごく疲弊」しています。

危機的状況にあるからこそ、原因不明の発熱を起こしたり、

「疲れた」「ああ、もうなんだか動けない」という信号指令を

わざわざ出して、身体を休ませようとします。

とくにストレスでガンガンに痛めつけられた脳みそはそう。

きちんと「元の状態」で生きたいがあまりに、

身体の恒常性を少しでも保ちたいがあまりに、脳みそが

「危険・危険・危険」という解釈をしてさまざまな信号を発し、

逆に自分を動けなくする。そういう誤作動が起こるようです。

つまり、そこまで自分を「追い込んだ」わけです。

あなたがわざわざ自分を酷使して、虐待みたいにして、自分をいじめた。

ゆえに、その状態になりました、と。

そこまでいくともう「恒常を保つ」ために、身体はしょっちゅう、

何かあるたびすぐに「危険・危険」と信号を発します。

それゆえに、心情的にも、普通より大きい波ができる。

人間は、生きものなので、疲れたら、落ち込むんです。

生きているからこそ、落ち込むことで、

それ以上の無理をさせないようにする、とも言える。

でも、その心情、感情があるからこそ、

生きているからこそ、人は逆に「イキイキ」とすることもできる。

明るい気持ちで満たされている人って、

もう、たたずまいや雰囲気からして

「明るい感じ」を発しているでしょう?

目の輝き、口元の微笑、振る舞いの元気さや温かさ。

これは感情というものがあるからこそ。

そして、それを見たりして「受け取った」人をも、うれしくさせる。

元気な子どもや、かわいい犬が広場をうれしそうに走り回る姿は、

人を温かくさせる。それは、感じる心を持っているからこそ。

道端にある石は、そこにあるけれど、イキイキとしたものを発しない。

ものすごく美しい、あるいは荘厳な石なら、見た人を「おおっ」と

思わせるけれど、生きものほどの能動的な「雰囲気」は放たない。

「感じる気持ち・心」、感情があること自体は、

決して、悪いことでないのです。

でね。

誤作動が起こるようになって、感情の波が激しくなると、

当然、ちょっと疲れただけでも大波が来たりして、

それが来たときは落ち込みも強く、苦しみも大きくなる。

そこに至るほど、自分の身体と心を追い込んだのは、ごめんなさい、

確かに自分なのです。そこはもう、割り切るしかないこと。

周囲から虐待されてる場合など、

自分の感情そのものを完全に失ってしまうような

よほどの過酷状態でない限り、最低限、

「その環境から逃げ出す」という選択肢は、自分にあるはずだから。

ゆえにそのときは、自分に、延々、謝ってあげていいのです。

気づかないうちに、そんなになるほど、自分をイジメ抜いていた。

責任感とか、立派になろうとするあまり、

自分に延々「~ねば」「~べき」ばっかり課して、

失敗するごとに、自分を罵倒したりして。

そういう反省(というより自己虐待)の時間も含め、

もしかしたら夢のなかでも、

24時間、365日、奴隷のように、自分をこき使ってきたのです。

うん。そりゃ、生身だからね、壊れるって。

なので、誤作動が起こるようになったら、

それこそ「自分を責める」「なぜうまくいかないか悩む」ことは、

正直に言うと、意味をなさなくなります。

どこまでが反省や「きちんとした改善策の検討」で、

どこからが「脳みその誤作動」か、自分で区別つかないもの。

私もぜんぜん、区別なんかつかなかった。

ひたすら、私が悪いんだ、としか思えなかった。

そりゃそうです、脳みその誤作動なんて、感知できるはずない。

だから、真摯に反省しているつもりでも、結局、

脳みそを余計に疲弊させ「病をわざわざ長引かせている」に

すぎない……ということも、しばしば、いや、かなりの頻度で起こります。

ゆえに。

自分が「イキイキ」してきたな、という確かな実感が

「長時間続く」ようになるまでは、苦しくなったら、

「それごと、つまり苦しさも含め、自分を甘やかす」ことに

ひたすら、専念してください。

こんなに苦しくなるほど、自分をいじめてたんだな、

ごめん、本当にごめんね、私。

はい、ただ、それだけです。

それ以上の「どうして」「なぜ」「どうしたら」は、

ぶっちゃけ「禁止」と言い切ってもいいでしょう。

たとえば急にひどい風邪を引いて熱が出たら、

そのとき、ウイルスを退治しきるまで、身体は発熱します。

どんなに真摯に反省しようと、改善策を検討しようと、

ウイルスに勝つまで、身体は発熱を続けます。

発熱している間、身体はずっとつらいです。当然ながら。

その際に「反省する感情」なんて、まったく役に立ちません。

逆に自分を責めて叱咤激励すればするほど、

自分をイヤな気持ちにさせるので、余計に脳みそが疲れ、

ウイルス攻撃の手さえ緩んで、長引いてしまうかもしれません。

ましてや鬱の方は脳みそ、もろに誤作動中です。

そこまで緊張させ、重荷を負わせ、作動をおかしくさせたのです。

そのときに叱咤だの理由・原因探しだの、

そんな余計なことしたら、はい、

あなたが、身体のがんばりの、邪魔をしている

ってことになります。

苦しいなあ。つらいなあ。

ああ、追い込んじゃったもんなあ……。仕方ない。

そう、受け止めて「流す」しかないのです。

その苦しい原因の「いちばんの根本」ってね、正直、

「自分を今まで追い詰めすぎたから」だけです。

表面的にはいろいろ、何かの事件や出来事が起こったとしても、

鬱の人があれこれ改善しようと「悩むこと」自体、

「まだこれ以上追い詰めるんですか?」って、

身体に悲鳴をあげさせるだけになります。

本当に、これ、苦しいね。うん。

ごめんね。もうこれからは、いじめるの、やめていくわ、私。

それだけ思って、自分に謝って、身体を温めてあげて、

美味しいものを少し食べるか、美しいものを見るか、聴くか。

なんらかの方法で自分をひたすら、

「慰めて」

「優しくして」

あげて、それでも気分が上向きにならなければ、もう寝てください。

疲れているのです、それほどに。

人によっては、落ち込みの波を短時間で上手にかわせるようになるまで、

長い練習期間が必要な場合もあります。

とくに自己虐待が激しかった人や、虐待期間が長かった人は、

「慰める」こと自体に慣れるまで、

すぐ「こんなことしてても」って、思考が逆戻りしやすいでしょう。

そのほうが、変な話ですが、習慣づいていて「簡単」だから。

自分を責める姿勢になったら、どうかぜひ、思い出して、

自分で気づいてあげてくださいね。

「これこそが私を、根本解決から遠ざけてきたんだ」って。

身体が疲れれば、気持ちも落ち込む。

逆に気持ちが落ち込めば、身体も不調を感じるようになる。

実際に病をも、発症する。

それほどはっきり、心と身体はつながっているのです。

自分を甘やかすくらい優しくできるようになること。

本当に、あなたは、あなたなら、それで、いいのです。

どうぞ少しずつでも、練習が上手に進みますように。

自分のなかの「まな板」と「包丁」

……完全に思いつきのタイトルで、

どこへ話が進むかもわからないのだけれど

(すみません)、書き始めてみます。

「自分のバランス」についての話に

なりそうなことはわかっているので。

私たちは、自分を磨いて立派にやり遂げる、ということを

ひたすら重視し、ありがたがってる方向にある、と思える。

それを「どんどんできるように」仕向けられる。

学校で、家庭で、その他の場所で。

自分が好んで、やりたくてやる場合はともかく、

そうでないものについても、それを「求められる」というか。

基礎努力的に、そうあるべきだ、と。

うん、そのこと「自体」は間違いではない。

具体的な目的はすぐに見つからなくても、

今より「まし」な自分になりたいなあ……という

なんとなくの、ボンヤリした動機であっても、

とりあえず練習してみることって、のちに

いろいろなものへ「つながって」いくから、

いいことなんだと思う。

でもね。

それは、調理でいうなら、まずどんどん、鋭利に、

モノを上手に切れる、刻めるようになりなさい、と

つまりは「いろいろな面で器用になりなさい」と

勧められているようなものだな、とも思えるのだ。

包丁の扱い方、包丁の種類、よい切れ味、美しい切り方、等々。

材料が何であれ、たとえ芯を取るだけであれ、

うまくやりなさい、と。

でね、このとき、私たちは意外と、まな板、の存在を

ないがしろにしがちなのかもしれないな……と。

薄いまな板って、やっぱり、モノを切るときに

いまいち安定しないのですよ。

小さいのもそう。

ただ何も考えず、「普通に」刻んだりするだけなら

それでも十分、役に立つんだけど、

本当はまな板も、重めで安定感があって、

かつ、刃物をきちんと適度にやわらかく受け止めて

傷つけない(刃こぼれとかしない)ものであったほうが、

やっぱり「より上手」に、切れるようになると思う。

で、この「まな板」の部分に当たるのが何かというと、

私は「自分自身」のことだと思えるのだ。

自分が「感じること」「気持ち」、あるいは「身体」。

そっちは「あって当たり前」すぎて、見逃されがち、なのかな、と。

ま、なかには「まな板が肥大」してる人もいるかもしれないけれど、

その話は後述。今は「包丁にばっかり気を取られている」場合ね。

ちゃんとね、いろいろな包丁使いを、器用にできるよう

練習していきたいなら、そのとき同時に、

まな板も手入れして、できるだけグレードアップさせようよ。

上手なストレスの発散、自分が「何を大切に思うか」の意識、

「何を大切にして“いいのか”」を見極める勇気。

自分を変に傷つけない、軽く扱わない覚悟。

上昇志向の人ほど、包丁のことばっかりに気をとられているかも

(過去の私なんかは、まさにそれ)、と。

小手先でたまたま器用になったところで、

まな板がヘロヘロのペラペラのままだと、

長くは続かないだろうと思える。

その器用さが、さらに伸びないどころか、やがて

まな板が傷つけば傷つくほど、上手にできなくなっていく。

つまり、自分の注目の仕方が、偏ってたってこと。

両方とも、大事なんだよ。

両方を丁寧に扱ってあげないと、うまくいかない。

傷ついて削られてへこんじゃったまな板だと、やっぱり

すべての材料が、キレイに切れない。

で、当然、他人も、同じように、

まな板と包丁の両方を持っているわけで。

たとえば相手が、自分の技量ミス(包丁)ばかり責めてくる、と

腹立たしく思えた場合もさ。

相手のまな板のほうも、ちゃんと、チェックしてみようよ。

もしかしたら、ものすごく厚くてよいまな板(心の温かさ、思いやり)

を持ったうえで、それがあるからこそ、

きちんと「自分が悪者に思われても」、

いけない部分を指摘してくれてるのかもしれない。

たとえば仕事で言うなら、あるプロジェクトの全体を見通していて、

そのために必要な業務の種類も量も、全体で見抜いていて、

各部下に割り振ってて。

そのうえで各部下が「どの業務の部分で自分を伸ばしうるか」も考え、

それにチャレンジさせたくて、指摘してるかもしれないよ。

そういう「奥の」思いやりや配慮や計画や見通し

(まな板)については、考えてみたこと、あるかな?

相手の表面の包丁(技量)と自分の包丁ばかり比べて

「おまえだってたいしたことないくせに!」とか、

「おれの包丁レベルを認めないのか!」とか、やってないかな。

まな板部分を表現する、その部分の言葉がヘタな人だって、いるよ。

そしてじゃあ、あなたの「まな板」のほうのレベルは、どんなかな。

自分を両方で、見渡すこと。

もし偏っていたのなら、どちらかだけを見る、

技量を磨く練習自体に囚われてしまうとか、

自分が、自分が! の主張にとらわれる……のはやめて、

もう一方もきちんと確認し、手入れする。

そう、手入れもね、両方とも、必要なの。

さびたり、ぎざぎざになったり、へこんだり傷ついたままだど、

調理が楽しくなくなっちゃう。

それに包丁を砥石で研ぎながらやっていく場合もね、

ときどき「砥石そのものの手入れ」だって必要なんだよ。

砥石も、真ん中がへこむからね。

「手入れするための道具」そのものも「メンテナンス」がいる。

そうでないと、長い期間、上手に練習を続けられない。

うまくできない、って思い続けてる人は、もしかしたら

片方だけにとらわれてるか、メンテナンスを忘れてるか、かもよ。

本来、自分が楽しくうれしく生きていくために、

自分と相手への思いやりや思いはからいや、

身体と心の両方を大切にしようという気持ちや、

それを「周囲に対して表す」覚悟や、

相手もどんなまな板を持ってるかなとか、

そういういろいろを含めて練習する、

それ続けていく勇気、も、きっと必要なんだよ、と。

相手が「まな板のみ肥大」ヤローだったら、その部分で

相手の問題を「自分自身のために」引っかぶらない、とかもね。

自分にとって、いちばんよいバランスを探りながら練習して、

両方で、上手になっていけますように。

あなたにとっての、でも決してあなた「のみ」でもない、

一番加減よいうれしさ、楽しさ、つまり幸せを、育てていけますように。

人の役に立てるのは、やはりうれしいことなんだし、

両方の道具のよいレベルアップ、よい手入れ、よい見渡し、

そうした、自分にとっての塩梅のいいバランス加減をみつけられるよう

心から祈ります。

追伸:「がんばるのみ」以外の応援

武田双雲さんの名言を紹介したので、

そのほかの名言集で、応援旗振りフラッグ音譜やってみたいと思います。

確かに、実際ね。

◎為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

 (やればできる、やらないとできない、なにごとでも。

  できないのは、できるところまでやらないからだ

  -江戸後期 米沢藩主 上杉鷹山)

であるし、

◎求めよ、さらば与えられん 

 尋ねよ、さらば見出さん

 叩けよ、さらば開かれん

 (原文: “Ask, and it will be given to you,

      seek, and you will find knock,

      and it will be opened to you. ”

  新約聖書 マタイによる福音書 第7章7)

なのだけれど。

だからと言って、ひたすらにがんばる、ではないのだ。

その場合の「がんばる」ってやり方は、

できなかったときの恐怖心や、もともとできてない、という

自尊心の低さに基づいているから。

実は、くよくよ迷って、理屈つけてがんばれない人とも、そこは同じ。

だからその際の、ものすごく大事な注意点。

決して、欠乏を補うためにやるのではなく、

自分を「もっと」(←ここ超・重要)喜ばせるために行う、

できればその過程も可能な限り楽しめるやり方で

「チャレンジ」するのだ。

もっともっと、いろいろ、自分が、うれしくなりたいからこそ。

マザーの言葉、として日本では知られているが、

実際には作者不明らしい、この言葉が

欠乏から、という思考が危険であること、

それを明確に教えてくれます。

◎思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 (原文: “Watch your thoughts; they become words. 

      Watch your words; they become actions. 

      Watch your actions; they become habits. 

      Watch your habits; they become character. 

      Watch your character; it becomes your destiny.”
 
  作者不明)

自分を「楽しませられる」やり方・受け止め方での努力であるならば、

それは結果に結びつき、報われる。きっと、いつか必ず。

今日は全体に、言い切りバージョンだったかも。お許しください。

あなたの実際に「成せた日」の、1日でも早い訪れを、心から祈ります。