カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

追伸:そうあらねば、~されてしまう

先の投稿の続きで一つだけ、刷り込み、

という観点について、伝えておきたい。

「○○できなければ、△△をされてしまう」という思い込みを、

親や家族などから植え付けられている場合がある。

もっともひどい例が、言うことを聞かないと殴られる、

しかも命に関わる虐待レベルのもの、だろう。

あるいは、親にとってはしつけのつもりの「普通」の体罰、言葉でも、

子どもにとってはその内容の理解以前に恐怖心から

「言うことを聞かないと痛い目に合う、

よけいに苦しみを与えられる」という思い込みに

つながってしまっていることもあり得る。

このような刷り込みが起きている場合には、

やらなかった場合を想像するだけで、「恐怖」が湧いてくるだろう。

でも、覚えておいてほしい。

あなたがもし、自立できる大人の状態であるのなら。

その恐怖心は、やがて自分で外せる。

少なくとも恐くなった瞬間に、

「今でも○○できなければ、私は殺されてしまうのか?」と

自問することは、有効なように思える。

暴力によって実際、現状でも命の危険や身体的危険にさらされる、

またはあり得ないほど延々と、嫌な言葉攻撃にさらされるのであれば、

今すぐ、そこから離れることのほうが絶対的な優先課題だ。

そうではない、食事させてもらえず家にも入れてもらえず、のような

危機的状況が今すぐ、訪れないのであれば、

その恐怖心は「刷り込み」なのだと、

自分で気づいていくことが可能になる。

親の言うことをあなたはそこまで聞かなくてもいいのだ、もう。

そういう区分け、線引き、よい子であらなければいけない「枠」そのものを

自分が抱えてきたのだ、ということに、

自分で気づいていってもらえたら、と願う。

その思い込みを外すには、ものすごい勇気も、

たぶん、他者の協力も必要なことがあると思えるが、

自分がこういうふうに思い込んできたんだ、と

自分のために理解してあげることは

とても大きな一歩になると思えるので、

まず、少しずつでもいいから

「なぜそう思ってしまうのだろう?」

という疑問の感覚を持つところから、始めてもらえたら、と願う。

できないとは「やらない」を選択すること、それで「も」いい

鬱になっている人はとくに、かもしれないが

あらゆることにおいて「できない」という言葉を多用し始めると

それを「自分の能力の至らなさ」と結びつけ、

さらに「否定」「悲観」することになる。

否定し悲しむ、つまり、自分を痛めつけてしまう。

でも、暗い気持ちのときに、その気持ちのまま

何かしようとしても、実際に気分は乗らないことが多い。

→気分が乗らなければ、楽しめない。

→楽しめなければ、達成しても大きく達成感を味わえない。

→達成感を味わえなければ、やれたとしても

 「やった意義」をそれほど感じられない。

そう、ゆえに、たとえ最後まできちんとやったとしても、

自分が望んでいたほどのものは「得られない」ことに

なってしまいかねないのである。

だから、その場合は「やる」「やらない」以前に、

暗い気持ち、を変えていくほうが先なのだ。

そこを忘れて「やらねば」に陥ると、

いつまでたっても何をやっても達成感は薄いままに

なるかもしれず、なおさら落ち込むことにもなりうるのだ。

そもそも。

「やらなくちゃいけないのに」「こうでなくてはいけないのに」

という義務のようなものを、自分に規定して負わせたのは、

ほかならぬ、あなた自身である。

どうしてもそれをしたい、という思い込みの一種であれば

自分の「欲」で、自分に義務的なものを負わせている。

それを果たす「責任」がある、というときでも、

周囲とうまくやりたい、お金がほしい、

他者に協力したい(これは自分の子どもも含め、だと思う)、
 
場合によっては自分を「よく見せたい」などの理由を伴うだろう。

これには、実は「正解」というものはない。

たとえば、お金が山のようにあっても

お互いにさみしい家族……がたくさんあるように

こうなりさえすれば「絶対正しい」というものはないのだ。

つまり、やはりこれも、

それぞれどのような形でどこまで、何を「負う」か、

規定しているのはあなたである。

「~あらねばならない」「~せねばならない」という表現で

自分をその状況へ「持っていこう」としている。

たとえ、やってみることが可能な場合でも、

それが「日々のチャレンジ、挑戦なんだわ」という

気概やワクワク感を持てなければ、結局、自分を縛ることになる。

ワクワク感を持つかどうかも「あなたの捉え方次第」である。

できるにせよ、できないにせよ、

「どういう気持ち」でそれを受け止めるか、は

あなたが選んで、規定しているのだ。

つまり、できない、のではない。

そういう表現を使ってあなたが「わざわざ自分をつらい方向で縛る」、

自分にとって苦しい視点を固定し、プレッシャーをかけたうえで

「やらないことを選択」しているのだ。

なぜ、そんなやりかたで、そんな選択をしなくちゃいけないんだろう?

たとえ、ものすごく身体を壊していても。

立ち上がるのさえ、やっとなときに「○○ができない私」を

非難しているのは自分であり、それを続けていれば

たぶん、体調はなかなかよくならないだろう。

医学的研究により「笑顔」や「笑い」は免疫力を高め、

おなかを中心に筋肉を心地よく振動させる効果が知られている。

あなたがほかのこと、たとえば体調を整えるのを「楽しむ」ことにせず、

「今、できないこと」に注目しつづけていても、

状況は、なかなかよくならないまま、時間が過ぎるだけなのだ。

前にも紹介した「がんブログ」のブロガーさんたちは、

できないこと、にも、将来の不安、にも注目しない。

「今、自分が楽しめること」へ意識を向ける。

それゆえに、日々を穏やかに、楽しんで過ごされている。

これがいけないこと、間違っていること、

計画性も生産性も何もない「ダメなこと」だと非難する人は、

そうそう、いないと思う。

だって私たちは、日々を楽しんで過ごすことを「幸せ」と感じるはずだ。

どんな状況、状態でも、それが可能であることを

日々、体現されている方々を、非難する必要があるわけがない。

周囲から、邪魔が入りました、とか

私には「能力がありません」とか、

そう感じて「悲観」し、「悪い気分」を続け、

なかなか達成感も味わえず、行動も「できない」という

否定をしていくのか。

自分が今はまだ、いろいろ気持ちに余裕がないから

「できない」と感じてしまうんだな、

と受け止め、「じゃあ先に、今、できることで

自分を楽しませて、その『余裕』を

自分に作ってあげられるようにしよう」

と解釈して、「楽しめること」に注力するか。

それを「選択」していくのは、あなた自身である。

「できない」を選ばなくていい。

今はまだ「そこまでをやらない」、

いずれできるようになるための

「余裕」「ゆとり」「機会」をつくる、つまり

先に「自分を今すぐ、楽しくさせること」を選んでいいのだ。

仕事や勉強の「楽しめる部分」を自分が毎日、感じられるようになれば

それだけでも日々のうれしさは増え、幸せを感じられるだろう。

そこに注目できるかどうかは、あなた次第である。

何もできなくても、身体を、脳みそを、休めることはできる。

そのゆとりがあることは「本当はありがたい」ことだ。

音楽を聞いたり、ぐっすり寝たり、ひなたぼっこしたり、

好きな動画などを見たりして

心を「よい方向に感じ、動かせ」られれば、

それは「幸せ」と感じられるだろう。あなたが、そう捉えさえすれば。

何もしなくても「できない」と非難するの、

もう、本当にね、やめていいんだよ。

「今は何もしない」ことを、意識して選択しよう、自分のために。

やらなくても、やるときも、いずれにせよ、「楽しめる」方向を

意識的に選ぼう。温かいお湯につかる、でさえもいいんだよ。

目の前の状況のよい面を探す。捉え方を変えてみる。

小さな楽しみやうれしくなること、笑顔になれること。

それらで日々をたくさん埋める、そんな練習をする。

それはつまり、自分を自分で幸せにできる練習を積むこと。

その練習をいつだって、いつからだって、

自分に積ませてあげていいのだ。

あなたは、「できない」という『不可能』な捉え方に、

がんじがらめに縛られ続けなくていい。

練習を積めば積むほど、自分の心に「ゆとり」が生まれ、

やがてきっと、「できること」も増えるだろう。

幸せを実感し、穏やかな日々のなかでそうなっていける。

あなたはいつでも、いつからでも「そうやっていい」のだ。

さみしい、が隠れてる

自分が自分を責めるとき。

あるいは、誰かを責めるとき。

表面的な心では、自分に対して怒ってる。

誰かに対して怒ってる。

またはそれぞれに、失望を感じる。

でもね。

その失望や怒りの裏には

「もっと認めてほしいのに」

「もっとわかってほしいのに」が

隠れてる。ほぼ必ず、と言っていいくらい、

うしろから、潜んでいるあなたの気持ちの「小さな声」が

あなたに向かって、投げかけられている。

その声に、自分自身が気づくかどうかは、別として。

あなたは本当は、心の奥のほうで、そう叫んでる。

それに気づかないままでいると、ときには、変なほうにもゆがむ。

幸せそうな、充実してそうな誰かに

いい気になるな! という怒りを感じたりもする。
 
そのときの怒り、という感情には、

「よい状態でない自分自身」への怒りも含まれている。

だから、ふがいなさ、を感じさせられ、

相手が差を見せつけた、と勝手に受け止める。

うれしくて、あるいは本気の決意を持って、

それを示した人に、勝手に腹が立つのだ。自分がそうでないから。

ねえ、その気持ちって普通は「八つ当たり」って言われるんだよ。

でもね、その気持ちのもっと奥のほうに

「わかってほしいのに」が潜んでて、それがSOSを出しているのよ。

こんな自分でも、認めてほしいのに。

こんな自分を、何とかしたいのに。

できない。

悔しい。

悲しい。

つらい。

そんな、SOS。

そのSOS信号をきちんと受信して、そこから自分を引き離してくれるのは

誰かの不幸話でもないし

幸せそう、充実してそうな誰かを「やり込める」ことではないよ。

ましてや、ほかの人に「連れ出してもらう」ことでもない。

そんなステキな助けがたまたま届いたとしても、

他者のその助けに、ただすがりつくのみだと、ときが過ぎれば

すぐにまた「元の自分」に戻って、そのときに落ち込むだけ。

その助けをきっかけに自分を見つめ、感じ、ゆるし、

自分で腑に落ちる、ことに丁寧につなげない限り、そうなりやすい。

ああ 私は 今

自分を認めてあげてないんだな

自分と向き合ったときに 非難と否定しかせず

あるいは何か 条件をつけてる

何かを「達成」しないと 認めてはダメだと決めつけてるんだ

そのことに、自分自身が「気づいてあげられるかどうか」だけ。

あなたの助けになる誰かは、24時間、あなたのそばにはいない。

万が一、24時間そばにいて助けてもらうような関係ができたとしても、それは

「共依存」っていう、やはりゆがんで苦しくなっていく関係。

苦しいよ

認めてよ

さみしいよ

助けてよ

その声に「一番最初」に振り向いて

手を差し伸べてあげられるのは、あなた自身だけ。

あなたを除いては、ほかに誰も

きちんとあなたを「立ち直らせてあげられない」のだ。

自分のさみしさを、自分で受け止めてあげる。

そこをやらないから

何かがいろいろ、ずれていき、おかしくなっていく。

そしてあなたはずっと、怒ったり責めたり泣いたりし続けるだけだ。

はがゆく、なさけなく、ふがいなく感じることだけを、繰り返す。

心屋センセが昨日、紹介されていた方のブログで

ダンナさんとの「向き合い方」について、

実はそこを「避けて逃げてきた」方の、気づきの告白が載っている。

この方の場合は、自分とダンナさんの間での話だけれど、

あなたの場合は、「自分」対「自分」の話になるのだろうと思える。

下に、その心屋センセの紹介記事(その方の告白記事、リンク3本掲載)を

張っておきます。

今、ちゃんと自分ができてるかどうか、じゃないよ。

うまくいってるいってない、以前の話。

そんなこととは一切関係ない、あなたの根本の部分、

根源的な部分での「すごく大事なこと」

なんだよ。

一見、苦しそうに思えても、

自分の「さみしさ」に自分が向き合って、それを認めてあげること、

自分に「足りなかったもの」に気づいてあげること。

ただ「そうだったんだね」と、自分でしっかり

非難せず丁寧に、自分のつらさを「感じて」あげる、

自分が自分に「寄り添って」あげることは、

自分を結局は「ラク」にして、しかも強くしていくことにつながる。

たとえば、さみしい、と思ってその思いを吐き出すときも違ってくる。

吐き出すことはいいのよ、悪いことじゃない。

でも、その吐き出し方も、おのずと変わる。

同情を求めるのでなく、自分を整理するために、吐き出せる。

そしてそこには「助けて! わかって! なんとかして!」な

『かわいそうごっこ』プリーズ、も、もう生まれなくなる。

そうした変化が起こり始めることが、

この方の3本の記事を例として伝われば、と願います。

●心屋仁之助「心が風に、なる」

調子に乗って浮かれてたら、痛い目に遭・・・・/超大作