できないとは「やらない」を選択すること、それで「も」いい

鬱になっている人はとくに、かもしれないが

あらゆることにおいて「できない」という言葉を多用し始めると

それを「自分の能力の至らなさ」と結びつけ、

さらに「否定」「悲観」することになる。

否定し悲しむ、つまり、自分を痛めつけてしまう。

でも、暗い気持ちのときに、その気持ちのまま

何かしようとしても、実際に気分は乗らないことが多い。

→気分が乗らなければ、楽しめない。

→楽しめなければ、達成しても大きく達成感を味わえない。

→達成感を味わえなければ、やれたとしても

 「やった意義」をそれほど感じられない。

そう、ゆえに、たとえ最後まできちんとやったとしても、

自分が望んでいたほどのものは「得られない」ことに

なってしまいかねないのである。

だから、その場合は「やる」「やらない」以前に、

暗い気持ち、を変えていくほうが先なのだ。

そこを忘れて「やらねば」に陥ると、

いつまでたっても何をやっても達成感は薄いままに

なるかもしれず、なおさら落ち込むことにもなりうるのだ。

そもそも。

「やらなくちゃいけないのに」「こうでなくてはいけないのに」

という義務のようなものを、自分に規定して負わせたのは、

ほかならぬ、あなた自身である。

どうしてもそれをしたい、という思い込みの一種であれば

自分の「欲」で、自分に義務的なものを負わせている。

それを果たす「責任」がある、というときでも、

周囲とうまくやりたい、お金がほしい、

他者に協力したい(これは自分の子どもも含め、だと思う)、
 
場合によっては自分を「よく見せたい」などの理由を伴うだろう。

これには、実は「正解」というものはない。

たとえば、お金が山のようにあっても

お互いにさみしい家族……がたくさんあるように

こうなりさえすれば「絶対正しい」というものはないのだ。

つまり、やはりこれも、

それぞれどのような形でどこまで、何を「負う」か、

規定しているのはあなたである。

「~あらねばならない」「~せねばならない」という表現で

自分をその状況へ「持っていこう」としている。

たとえ、やってみることが可能な場合でも、

それが「日々のチャレンジ、挑戦なんだわ」という

気概やワクワク感を持てなければ、結局、自分を縛ることになる。

ワクワク感を持つかどうかも「あなたの捉え方次第」である。

できるにせよ、できないにせよ、

「どういう気持ち」でそれを受け止めるか、は

あなたが選んで、規定しているのだ。

つまり、できない、のではない。

そういう表現を使ってあなたが「わざわざ自分をつらい方向で縛る」、

自分にとって苦しい視点を固定し、プレッシャーをかけたうえで

「やらないことを選択」しているのだ。

なぜ、そんなやりかたで、そんな選択をしなくちゃいけないんだろう?

たとえ、ものすごく身体を壊していても。

立ち上がるのさえ、やっとなときに「○○ができない私」を

非難しているのは自分であり、それを続けていれば

たぶん、体調はなかなかよくならないだろう。

医学的研究により「笑顔」や「笑い」は免疫力を高め、

おなかを中心に筋肉を心地よく振動させる効果が知られている。

あなたがほかのこと、たとえば体調を整えるのを「楽しむ」ことにせず、

「今、できないこと」に注目しつづけていても、

状況は、なかなかよくならないまま、時間が過ぎるだけなのだ。

前にも紹介した「がんブログ」のブロガーさんたちは、

できないこと、にも、将来の不安、にも注目しない。

「今、自分が楽しめること」へ意識を向ける。

それゆえに、日々を穏やかに、楽しんで過ごされている。

これがいけないこと、間違っていること、

計画性も生産性も何もない「ダメなこと」だと非難する人は、

そうそう、いないと思う。

だって私たちは、日々を楽しんで過ごすことを「幸せ」と感じるはずだ。

どんな状況、状態でも、それが可能であることを

日々、体現されている方々を、非難する必要があるわけがない。

周囲から、邪魔が入りました、とか

私には「能力がありません」とか、

そう感じて「悲観」し、「悪い気分」を続け、

なかなか達成感も味わえず、行動も「できない」という

否定をしていくのか。

自分が今はまだ、いろいろ気持ちに余裕がないから

「できない」と感じてしまうんだな、

と受け止め、「じゃあ先に、今、できることで

自分を楽しませて、その『余裕』を

自分に作ってあげられるようにしよう」

と解釈して、「楽しめること」に注力するか。

それを「選択」していくのは、あなた自身である。

「できない」を選ばなくていい。

今はまだ「そこまでをやらない」、

いずれできるようになるための

「余裕」「ゆとり」「機会」をつくる、つまり

先に「自分を今すぐ、楽しくさせること」を選んでいいのだ。

仕事や勉強の「楽しめる部分」を自分が毎日、感じられるようになれば

それだけでも日々のうれしさは増え、幸せを感じられるだろう。

そこに注目できるかどうかは、あなた次第である。

何もできなくても、身体を、脳みそを、休めることはできる。

そのゆとりがあることは「本当はありがたい」ことだ。

音楽を聞いたり、ぐっすり寝たり、ひなたぼっこしたり、

好きな動画などを見たりして

心を「よい方向に感じ、動かせ」られれば、

それは「幸せ」と感じられるだろう。あなたが、そう捉えさえすれば。

何もしなくても「できない」と非難するの、

もう、本当にね、やめていいんだよ。

「今は何もしない」ことを、意識して選択しよう、自分のために。

やらなくても、やるときも、いずれにせよ、「楽しめる」方向を

意識的に選ぼう。温かいお湯につかる、でさえもいいんだよ。

目の前の状況のよい面を探す。捉え方を変えてみる。

小さな楽しみやうれしくなること、笑顔になれること。

それらで日々をたくさん埋める、そんな練習をする。

それはつまり、自分を自分で幸せにできる練習を積むこと。

その練習をいつだって、いつからだって、

自分に積ませてあげていいのだ。

あなたは、「できない」という『不可能』な捉え方に、

がんじがらめに縛られ続けなくていい。

練習を積めば積むほど、自分の心に「ゆとり」が生まれ、

やがてきっと、「できること」も増えるだろう。

幸せを実感し、穏やかな日々のなかでそうなっていける。

あなたはいつでも、いつからでも「そうやっていい」のだ。

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