カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

怒り 悲しみを 逃がすという意識

ネガティブな感情を 自分が感じるのは

人として 当たり前

それを嫌がったり憎んだり 自分で自分に注目させると

増幅する一方なので さらに自分を疲れさせる

いずれは それを見つめて きれいに手放してほしいと願うけれど

すぐに捉え方を変えることが できない場合もあると思う

だからそのときは まずいったん 離れるほうを選ぶ

自分自身に 無駄に注目させないよう 感情自体を逃がしてしまうのだ

逃がす と 決める そちらを自分で選ぶ ということ

そうした感情が自分のなかに起こった うん それを感じた 以上

起こったら うん 感じた 以上

ただ それで済ませ 感情をまず放す

さらにそのとき 感情に伴って思い出す

腹立たしい あるいは悲しい感情が起こった場面の記憶も

「あえて」切る 長々と とか 繰り返してまで 思い出さない

思い出したところで 今すぐに それは変わらないから

いずれね やがて 客観視できる状況となり

その怒りや悲しみ以外の感情とともに

起こったことを見つめられる日も来る

そのときは 今のように 生々しい感情から離れ

切なさや 苦笑など 別の気持ちとともに見つめられるようになるから

今はただ

自分が 怒っている

自分が 悲しんでいる

そのこと自体を やめる練習を してもらえたらと思う

私はこの練習を始めたとき

まさに試されるかのように

「怒ったところで絶対に 意図が通じない相手」から

気持ちが瞬間沸騰するようなことを 言われたことがある

仕事の場面で もう ダメだこの人 とあきらめていて

自分が 害を受けずに仕事することに集中しようと決め

この相手には感情的になるだけ無駄だと思って

そういう練習をしていた そのまっ最中だったのだ

怒って それを相手の前で見せないよう抑えようとしたら

生まれて初めて 頭皮の毛穴全体が一瞬で ブワッと開いて

そのこと自体に 自分で驚いた

まさに頭から湯気出てるかも

「怒髪天を衝く」ってこれか! と知った

で その人の前を離れたあと 別の場所に移って

ああ この怒りって 私のなかでは間違ってないけど

あの人に対してはこの気持ち 届かなくて無駄なんだな

と 自分でしみじみしたら

スーッと 身体から 何かが抜けていったのだ

たぶん「起こる」「感じる」「逃がす」ということを

あれほど体感できたのは あの日が初めてで

あそこまで感じられるようなことは

その日以来 起こってないけれど 

あのときは あえて練習させられたかも とさえ思えて 本当に驚いた

たぶん涙もね 同じように 逃がすための道具になると思う

自分のなかで その感情を繰り返し 長引かせるほど

自分でその感情自体を 奥へ奥へインプットして

自分を痛めつけることになりうるから

涙などの何かに変えるか

その瞬間はいったん 割り切ることを優先するか

いずれにせよ 痛いまま抱きしめ 自分をギリギリ締め付け

悲劇の主人公であり続けることは やめたほうがいいと思える

それをやると 体調などにも 影響を及ぼすし

肌も痛むし 眠れなくて 次の日以降もよけいに

自分を落ち込ませるだけだから

感じるのは当たり前 別に感じてもいいのだ

どうしたって何度でも 湧いてくる場合だってある

そのこと自体は 本当に 責めなくていい

ただ わざわざ自分で 悪化させる練習を重ねず

逃がす練習のほうに 意識を向けてほしい

感情に呑まれているときはどうせ

考えてもよい思い付きは生まれないのだ

わざわざ繰り返して 味わい 痛めつけまくるのではなく

感じたら それをただ次に 「逃がす」と意識すること

そのほうが 自分にとってラクだ 

今は そのほうがいいや と

肌で感じてもらえることを 心から 願う 

それは「逃げの姿勢」とはまったく違う

見ないようにするのではなく

いずれいつか 

自分が 解決できるようにするための ひとつの方法

あとで客観視できるものに変えていくためにも

「今はいったん ここにある この痛い感情そのものを 逃がす」と

選ぶものなのだと 私には思えている

ウットリしていた私

この仕事が始まったら

きっとこんなふうに あの部分で 忙しくなるから

あれをやって これもやって それからここにも注意しなくちゃ

ああ もっと気づけるかな 広く見渡せるかな

時間足りないから 大変になるけど

全部 全部 丁寧に 完璧にやって

それで ほめてもらうんだ……( ̄∀ ̄)・:*:

ほんの少しは 誇張しているけれど

ワーカホリックが楽しかった

仕事にのめりこみたかった時代の私って こんな感じ

勝手に尽くす 尽くしてる つもりになって

仕事先の 相手のこと 勝手に思い遣って

ほめてもらえるだろうという シーンを思い浮かべ

想像してウットリしていた みたいな

どのツール制作でも どんなクライアントさんだろうと

結局はそこに 当てはめようとしていた 

私の理想の「ほめてもらえる」お部屋へようこそ

相手に尽くして認めてもらえそうなところへ 導くの

やっていく途中で どの部分を尽くせば気に入ってもらえるかを探り

それにひたすら 合わせていく……と

それは美しい理想 美しいWin-Winだと 自分では思っていたけれど

なんのことはない 単なる「滅私奉公」で

Win-私なし おままごと みたいな 仕事ごっこ

はい 私が尽くす役するから あなたは受け止めて 喜び ほめる役ね

あらゆるクライアントに対し それを私が押し付け

その枠に はめようとしていたともいえる

いや 実際にね 手をかけないよりは かけたほうが

お客様は 喜ぶ確率 そりゃ高くなるし

何を喜ぶのかも 探るわけだから

関係性として 気まずくなることもないんだけれど

勝手に やりすぎ

勝手に 期待し

やればやるほど 自分で期待度が上がる分

見返りが少なく感じて

あれ? もっと? もっとかな? って

さらにあれやこれやの技術を駆使して

尽くし続けるしかなくなって……

「よいものを作る人」という評価の見返りが 出来る限り欲しいがゆえに

自分がどうしたいのかと 相手の希望が せめぎあうこともあり

ある部分 自分の意向も 消えていき

なのに顧客との間では どんなものをつくるか

どんどん 欲が深くなる一方で

どんどん 自分が やること増えて

ま 最後に壊れたのも 自業自得だったわな と

だからね やり方 変えるんだ 練習積んでいこうと思えていること

きちんとできる そこは 自負していいと思えるから

「なるべく最上級に ほめてもらえる」という

私の理想のお部屋へ 相手を招くのはやめようと思う

そもそも その部屋つくると おままごとになって

しかも最後に 自分が壊れるから

相手がどれくらいの「出来」を望んでいるかも見て

自分がどの程度 労力使うかも踏まえ

手を抜くわけではないけれど 「適正」を探るようにしようと

単価 時間 規模 その都度 いろいろ 相手によって違うのだから

やたらめったら なんでもかんでも 全力で尽くすのは

「滅私」で自分を見失うから やめようと

これって たまたま 読者さんの「恋愛」の話がきっかけで 気づけたことで

(KちゃんThanks!)

仕事も恋も 共通する面はあるんだなと 苦笑した(^_^;)

だからさ 名曲「北の宿」になぞらえて言うならば

ちょっと説明長くなるけど 昔の私って

着てもらえるかどうか まだわからないセーターを

勝手に「喜んでもらえるはず」と想像したうえ

その妄想で 寒さどころか眠気もこらえ

徹夜で 嬉々として編んでいた

わけです

うーん 我ながら なかなか ウザッ( ̄▽ ̄*)汗

もうやーめる! っと!

意識して 練習しないとなー(笑)

感情を眺めるという、その「眺め方」~その4~

先ほど書いた、自分のなかの「苦しい感情の渦潮」

その存在をゆるす、ということ。

そんなのイヤだ、ゆるさない、という人は、

いずれ、苦しい状況そのものから卒業することを目指してほしい。

だが、

傷があること、できたこと

自体は、決して「ひどい」だけのことではないのだ。

本当に何もなく、ただただ平穏に、のんびり牧歌的な毎日。

それを「飽きずに楽しめる」かどうかは、その人の性格によるだろう。

刺激がないとイヤだ! それが当たり前で「普通」でしょう!

というこだわりのある人には、耐えられないと思う。

そのこだわり自体「あなたの好み」の範疇、個性なのだけれど。

しかもそういう刺激っていう類のものは、自分にとって必ずしも

「楽しくてうれしくて喜ばしい」ものばかりではありえないと思うのだけれど。

なぜか人って、いろいろな刺激を欲しがるのに、

それが自分にとって良いものじゃないと、ゆるせない傾向にある。

リスクがあるからリターンもあるのだけれどね、本当は……。

ま、それはさておき。

何らかの出来事、状況、人間関係により、あなたに苦しみが生まれました。

あなたの心に「傷」ができました。

その傷って、捉え方、見方、使い方次第で、こうなることをご存じだろうか。

22013_12_23reinbow_clystal

内側からの虹が輝いて見える、傷を内包した水晶玉。

この美しい写真は、こちらからお借りしました。

INFONIXさん

こうした輝きは、傷を内包していないと生まれないのだ。

透明で透き通った完璧な美しい自分、それを求める気持ちはわかるけれど

こうした傷が個々にそれぞれ、付いていくことにより、

あなたの個性が生まれ、あなた個人の、世界にひとつだけの輝きも生まれる。

これはたまたま水晶の写真だけれど、

私には、人ってこういうもののようにも思えている。

光の当たり方によっても輝きは変わるし、

傷の大きさや角度、つながりによっても違う。

そして、まったく傷がない人なんて、

生まれたばかりの赤ちゃんくらいではないだろうか。

親からの価値観、生まれた環境、成長過程に起こる人間関係、選ぶ学び方……。

それらがすべて一緒で、受け止め方も完璧に一緒、の人なんていない。

すべて、世界でたった一人・ひとつの存在である大切な、

あなたの個性につながってきたし、これからもつながっていくのだ。

しかもその傷と思っていたものを「輝き」に、これから変えることもできる。

でも今は、あなたがこの傷の存在自体を、自分で否定しているのだ。

上手な見方、捉え方、使い方自体がまだつかめない、というのはわかる。

そんなのは、傷ができて初めて「どうしよう」と思えるものであるし、

その時点からしか練習できないし、

あらたな傷をおそれ、おびえる気持ちもわかる。

それでも、なお。

その傷はあなたの学びに変えることができ、あなたが光を当てることによって、

そんなふうにして「捉え方」の角度を変えることで、輝きに変えられる。

そもそも私は、そんな美しい球のような「器」ではない! と思っている人。

変形しているなら、丸め直せばいい。

器が小さければ、内側から徐々に膨張させることもできる。

外側からつけた「ふくらみ」は、その立場が終われば「はがれて」しまうけれど、

内側からのふくらみは、あなた自身で作り出せていく。いろいろなことから。

カチカチでゴツゴツの器しか自分でイメージできないなら、

いっそのこといったん、粉々に壊したっていい。

あなた自身にとって「良い見方、捉え方」のできることを、

長く使えそうな粘着剤にして、まず最初は自分を粉から練って、

粘土状にして、あらたな美しい球を、作り出せばいいのだ。

どうしても透明にしたい? 

ならば思い切って、いずれは自分をかまどの火にくべてみよう。

ガラスは高温で砂を焼かないと、化学反応を起こさない。

それと同じなのだと思える。

どんな傷になるか、どんな輝きを放てるかは、

もちろん選べるときもあれば、選べないときもある。

でも、傷がある、ということ自体を受け入れることは、

決してマイナス面ばかりでないのだ。

それは、あなたが成長していくための糧にできる。

何歳からでも、お迎えが来る間際まで、輝きを増やしていける。

起こった良い出来事で自分を傲慢にしていったら、

それは果たして善なのか?

起こった悪い出来事で自分が人の痛みも知るようになったら、

それは果たして悪なのか?

そういうことなのだ。

自分に「起きたこと」の、見方を変えていく。そのためにまず、

「傷がある自分」を認めて、ゆるしてあげてほしい。

ただ、そうなんだな、と。

そのこと自体には、善悪はないのだな、と。

そういうふうに、自分の苦しみを、少し遠くから眺められるよう、

練習してみてほしい。

どんなに「今は」いびつに思えても、

離れて見られるようになれば、それを輝きにするためのヒントも生まれてくる。

今までに聞いていたメッセージが、自分のなかで「腑に落ちる」機会も生まれる。

傷を拒否し続けると、外からやってくる輝きへの「ヒント」も、

実は受け入れにくくなるかもしれない。

その傷に効くかもしれないのに、

あなたが傷の存在そのものを、否定してしまうからだ。

今は苦しいだろうけれど、その痛みは、あっても、だいじょうぶなのだ。

いずれ、だいじょうぶに、変えていけるのだ。

あなたの身体も本当は、あなたの心を安定させるべく「恒常性」を保とうと、

実は毎日毎瞬、協力してくれているのだ。60兆個の細胞の、協調した働きによって。

自分が扱える範囲、心のなかのこと。だいじょうぶ、にしていくために、

今はまず、傷があることを「眺められる」ようになってもらえたらと思う。

傷の渦中の記憶に戻って呑まれるのでなく、感情の渦潮自体を遠くから新たに、静かに。

「そう私は受け止めたんだな」という視点。そのための落ち着き。

まずは眺められるようになって、感情に振り回されなくなって、そのあと、

できるようになったときでいいから、

その出来事と感情を、見つめ直してみてほしいと願う。

640px-Naruto_Whirlpools_taken_4-21-2008
写真 Author : Hellbuny
ウィキペディア「徳島県 鳴門の渦潮」写真