カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

感情を眺めるという、その「眺め方」~その3~

少し時間差で再開。

まとめる方向へ書いていくのに、落ち着きたかった。

下書き的なものは、頭の中にあるけれど、

たいていの場合、最後はどこへ結論づくか、

実はあまりわからないままに書いていることのほうが多いのだ。

いい加減、でやったほうが、流れが良くなったりもする。

ま、その分、脱線も増えるが……。それはヨシと、自分のなかで認めている。

さて。

まず最初に、前記事で、感情と事実を切り離し、

起こった出来事そのものを眺めてみる、と書いた。

これについて、ひとつお詫びしたい。

記憶が生々しすぎて「痛い」状態の方、深い悲しみの最中にあられる方などは、

そんなこと、できるか! という、お怒りを感じたことと思う。

また、鬱の誤作動の脳みそ回路が、現在進行形で開きまくっておられる方は

そんなこと、できるはずない……と、落ち込まれたかと思う。

深い悲しみや落ち込みの最中には、眺めるなんてできないことのほうが、

ずっとずっと、多いと思う。

じゃあ、なぜわざわざ時間差をつけて前記事をそこで終わらせ、

あとからこんなふうに、お詫びしながら説明するかというと、

今はまだ「できない」という、その状態にご自身があられることを、

知っていただきたかったから、である。

ふざけるな! ですよね。すみません。でも、ふざけたわけではありません。

まじめに、真剣に向き合い、耐えようとする方ほど、

何とか早く、この状態から脱せねば、と捉える。

こんな状態であってはならぬ、と、自分を戒めようとする。

でも、その「戒め」を実行していくのには、変えていくための経過、

別の言い方をすれば、手順、段取りのようなものがあって、

たとえば深い悲しみの場合には、悲しみの感情以外にも

怒り、後悔、自責などの感情を徐々に、何度も味わいつつ、

少しずつ「自然に変化していくのを味わう」時期も重要とされているのだ。

それらの感情が湧いてくる順番も、時間も、時期も、人によって違う。

5年経ってから、やっと怒りを感じた、という人もいるそうで、

それくらい、現れ方は千差万別。

だから、戒めるというその気持ちは一応、大切にしながらも、

ネガティブな感情が自分に湧くのを、ゆるすこともまた、必要なのだ。

テレビで(NHK「仕事の流儀」だったと思う)、ある弁護士の方が

おっしゃっていた言葉がある。

最愛の娘が急逝されたというその方は、しばらく仕事ができずにおられた。

やがて、仕事を再開後、ワーカホリック気味に打ち込まれながら

その方はこう話されていた。

「悲しみは、忘れられないんです。忘れられるはずなんてない。

ただ、それとともにある、それだけです。それができるようになった」

悲しみが自分のなかにある、ということ自体は、自分で受容されたのである。

これも実は、「眺める」のひとつの形態だ。

深い悲しみの強い渦は、自然に自分のなかで発生する、

あるいは発生しているけれど。そこには巻き込まれない形で、

「あるという事実そのもの」は、自分のなかで、許容する。

自分のなかに、まるで鳴門の渦潮のような、

悲しみ、苦しみの部分があること自体を、受け入れる……。

こうしたところにたどり着くには、周囲の協力も含め、自身の「ケア」が必要だ。

そういったケアを“していい”と、そもそも自分に、ゆるすことも。

単純に自分を保護し、いたわり、癒すだけでなく、

そういう自分であることさえ、ゆるす。

それには練習が必要で、それゆえに、時間も必要になることのほうが多いのだ。

なので、怒りを感じた方、できない、という落ち込みを感じた方は、

「今はまだ」のときである。そのことを、知っていただければ幸いである。

わざわざあとからこれを説明したことを本気で、真摯に、心からお詫びしつつ、

今はまず、ご自分をケアしていただければと願う。

そうでなく「本当にそんなこと、できるのかな」という素朴な疑問を

もたれた方に向けては、もう少し語ってみたい。

これも、すみません、少し時間を置いてから、書かせていただきます。

~その4へつづく~

感情を眺めるという、その「眺め方」~その2~

ここまでは一応、なんとなくは理解してもらえたかと思う。

そう思うことにして(笑)、次へ話を進める。

起こった出来事に対し、自分があれこれ、

あとから感情をくっつけたのだから。

本来であれば、それを外す(別の解釈にする)ことも、可能であるはず。

が、しかし、ここで登場するのが、価値観、である。

あるいは欲、さらには見栄。

これらを急に変えようすると、たいていの場合、無理が出る。

なぜならそれらは少なくとも、あなたを守ってきたものであるからだ。

たとえどんなにいびつでも。どんなにゆがんでいる、と、

今では捉えられるものであっても、あなたはそれによって今までやってきたし、

「守られるメリット」の記憶は残っている。

たとえば昔、頑張ればほめられた。

だから頑張るのはやっぱり、心地よい。

他者から見たらかなり頑張りすぎているけれど、

もはや「ほどほど」なんて、自分のなかでは

誰かに手抜きがばれるような気がして、怖くてできない。

たとえば昔、好きな人から深く傷つけられた。

だからもう、誰かを好きになんてにならない、という感覚。

それによって「傷つくこと」から、自分を守ってきたりしたのだ。

苦しくても、それでどこか、自分がメリットを感じていたら、

速攻でそれを手放すことはできない。

そして、速攻で手放す必要もないし、形を少しずつ変えていくだけで、

実は完全に手放さなくてもいいものだったりもする。

だから、価値観まで掘り下げていくのは、少しずつでよい。

見栄も欲も、手放すのは少しずつでいい。

人の助けを借りる必要もあったりする。

鬱の人なら、少しずつ、薬を手放しても安心していける練習も必要だ。

そうしたバランスは、あくまで「心地よい範囲」で探っていいのだ。

今はまず、漢字練習をし過ぎたときのように、

意味をなくす感じで、そのネガティブな気持ちを「眺めるほう」を

練習してみよう。

これもまた、ヴィパッサナー瞑想の方法にならって、説明してみる。

最初は、くっつけた自分の感情を、元の「事実」にまで戻してみるのだ。

ひどいことを言われた。叱られた。失敗した。下手なやり方をした。

そういう「事実」の部分である。

誰かから何かを「された」のであれば、

「された」の部分も外してみる。

誰かが、あなたに対して、何かをした、言った。

自分自身のことなら「それが起こったシチュエーション」のほうまで見てみる。

たとえば頑張りすぎた人なら、

あそこで、無理をしてみたかった。どこまでできるか、と思った。

チャレンジしてみたかった。言ってみたかった。やってみたかった。

やらねばならない、と、捉えていた。

ただ、責任を感じていた。自負があった。

まあいいや、と、流した。

そう。

そのときは「それでよい範囲」と思っていたことだったりするはずだ。

今になってからの、あとからの後悔、は、とりあえず一切、つなげないでほしい。

馬鹿だったなあ、なんて反省も、今はまったく必要ない。

今はそうした余分なものは、見つめる「部分・枠」から、はっきり外してほしい。

……この辺まで戻れば、起こった出来事、自分の決断、などについては

少し「眺める」感じになってこないだろうか。

その瞬間は、それがただ、「あった」「起こった」のである。

あるいはその直後に、あなたが「まあ、いいか」「そうしよう」等のことを決めた。

そう。事実は、それだけ、なのである。

その瞬間にはまだ、憎しみも妬みも、恥ずかしさも悔しさも悲しさも存在しない。

そして。

ものごと、というものは単純に、そうやって、起こっては消えていく。

一瞬のうちに、過去になる。

そうやってどんどん、流れているのである。

その1で書いた「蚊に咬まれた」で言えば、

事実は、咬まれたので脳に信号が行って、今、身体が「かゆさ」を感じている。

それだけである。

咬まれたことによって、ボリボリ掻いて、血が出たとしても。

身体は、わざわざ意識しなくても、かゆさをやがて抑え、

血が出た傷の部分を、修復しようとする。

心の傷も、実は自然な修復作業を行おうとする働きがある。

時間薬、も、そのひとつ。

鬱の人は、そのルートがかなりか細くなっているだけだ(なかには薬によって

逆に一時的に、自然な作用が抑えられている人もいることだろう)。

出来事自体は、そうやって流れ、変化していき、

今の目の前の瞬間からは消えていく。

A: 起こった事実と、自分のその瞬間の考えや行動。

B: それによって自分があとからくっつけた「感情」。

その2つは切り離せるのだし、

切り離せるのであれば、いずれは「別のものをくっつけ直すこと」も可能なのだ。

そんなふうに、まず、当時の(または今の)感情そのものではなく、

それが湧いたときの「根っこの部分」を、眺めてみてほしい。

~その3につづく……が、次記事のアップは少し時間を置きます~

感情を眺めるという、その「眺め方」~その1~

前回、遠くから自分のネガティブさを眺める、ということについて書いた。

それは遠くへ置き去りにすることではないし、

真剣に向き合うために、必死に見つめまくるものでもない。

そういう感情があるな、という「状態」を眺める……、

という表現がたぶん、一番近いのだが、

そんなことをしたことがないとか、

いったい何のことだかさっぱりわからない、という方もいらっしゃるだろうと思う。

私も実際、鬱の真っ最中は知らなかったし、知ってもできなかったと思える。

その後、少しだけ回復したころに治していこうと「覚悟」して、

さまざまな方法を探り、本などを読めるようになってからしか、つかめなかった。

私にとっての眺める練習で一番役に立ったのが、瞑想方法の一種である

『ヴィパッサナー瞑想』で、これはスリランカの国教、テーラワーダ仏教の

お寺(教会)の講話会で、実際にお坊さまから教えてもらったものだ。

ちょっと話が脱線するけれど、ここの一番偉い立場のお坊さま、

アルボムッレ・スマナサーラ長老は、

「私は日本語がわからないので」と、端的でわかりやすい表現を使い、

思い切りサバサバ、ものごとを言い切るお方である。

本当はサバサバ、というよりバッサバッサと斬る、のほうが正しいと思う(笑)

この講話会の質問タイムが、またね。

たまたま私がお伺いしたときだけだったかもしれないが、

「えええええっ!?」と、人生「真剣模索」中の私でさえ

心の中で激しく驚くほど、煩悩炸裂! の質問ばかりで……。

性欲とか金欲とか、支配欲とか、それをどうにも抑えられず困っているとか、

できれば自分以外の周囲を変えてなんとかラクになりたいが

その方法はどうすれば、的なご質問だったのだ。

まじめに質問されていたので、苦笑くらいの雰囲気だったのだが

(実は私、何回か吹き出しそうになったことは秘密……)、

それをまたスマナサーラ長老ったら、限りなく柔らかい笑顔で

言葉は超きっぱりバッサリ、そりゃもうアッパレお見事! なご回答。

……正直、楽しかった(*^_^*)

「この方は、絶対、日本語がバリバリ堪能であられるはずで、

単にご本人が、こういうもの言いがお好きだから、

日本語云々のせいにしてやっておられるに違いない」と密かに思った(笑)

と、脱線しました(^_^;)すみません。

機会があったら講話会、ぜひ一度、どうぞ。

最後にテーラワーダ教会のURLリンク張りますね。

で、そのヴィパッサナー瞑想に似た感じのことを、説明してみようと。

これは表現上、かなりのチャレンジになるので、

今まで避けていたのであった……ゴメンナサイ。

まずテーラワーダの教え方にならって、私たちの、

身体上の出来事から話してみたい。

たとえばあなたが今、蚊に咬まれたとする。

肌は赤くなって、丸く腫れ上がり、かゆみが生じる。

すると脳への伝達によって、あなたには「かゆい」という感覚が生まれる。

そこであなたは、そのかゆみを気にして、「かゆい、かゆい」と意識する。

意識することによって、今度は「かゆさ」そのものを

「より不快」に感じるようになる。

すると「咬まれて悔しい」という感情が生まれたり、

自分を咬んだ「蚊」に対して、憎しみが生じたりする。

起こった出来事、その事実は「蚊が私の血を吸った」である。

症状が出たことにより、あなたが次々に思考や感情を展開する。

そして「憎しみ」という感情さえ抱くのだ。

そんなふうに私たちは、起こった出来事について「あとから」解釈し、

いろいろな理由や感情をくっつけて(たとえば、かゆい、悔しい)、

何らかの結論(たとえば憎い)などに至る。

そう、わざわざあとから、自分で何かをいろいろくっつけちゃうのである。

なかには、憎い、に至らない人もいるだろう。

かゆいことさえ、気にならない人もいる。

でも、「憎い」になると、蚊を探したくなり、

蚊を責めたく(やっつけたく)なる。

「怒り」が湧くからだ。

そしてかゆみがおさまるまで、それに気をとられたり、

次には、蚊をたまたまどこかで見ただけで「怒りと憎しみ」が湧く

(血をもらっておきながらかゆくするなんて恩知らずめ! とか 

その無駄なシマシマ模様よけいムカつくわ! と(笑))。

こうした例をもうひとつ挙げてみよう。今度は逆パターン。

小学生のころ、漢字の書き取り練習をした経験が、たいていはあるだろう。

たとえば「住」という漢字を、書いてみる(今は書く代わりに、

この漢字を一つずつ、左から右へゆっくり丁寧に見つめていってほしい)。

住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住……。

実際に書いてみると、もっとわかりやすいかと思う。

たぶん20回くらいを過ぎるころまでには、「住」という漢字が、

片仮名の「イ」に「主」をくっつけたもののように見え始め、

「主」にも意味がないような感じに思えてきて、

「ただひたすら何か線を書いて、それを並べているような、変な感覚」を

覚えたりしないだろうか。

意味があったはずの漢字が、意味がわからなくなるような、

漢字ではなくなっていくような。

点と線の集まりのような。

あれ、何を書いてるんだろ、私、みたいな(笑)

感覚的に少し麻痺して、別の作業と化しちゃうような感じ。

似たものとしては、長距離を走る際の

「ランナーズハイ」も挙げられるだろうと思う。

遠くから眺める、というのは、そういう感覚に近い。

漢字の練習みたいな単純作業系なら、

私たちはすでにその練習をしたことがあり、

感情は「あとから」くっつくものであることも、

実は感覚的に理解しているのである。

日本テーラワーダ仏教教会

http://www.j-theravada.net/index.html

~ふー。その2に つづく~