前回、遠くから自分のネガティブさを眺める、ということについて書いた。
それは遠くへ置き去りにすることではないし、
真剣に向き合うために、必死に見つめまくるものでもない。
そういう感情があるな、という「状態」を眺める……、
という表現がたぶん、一番近いのだが、
そんなことをしたことがないとか、
いったい何のことだかさっぱりわからない、という方もいらっしゃるだろうと思う。
私も実際、鬱の真っ最中は知らなかったし、知ってもできなかったと思える。
その後、少しだけ回復したころに治していこうと「覚悟」して、
さまざまな方法を探り、本などを読めるようになってからしか、つかめなかった。
私にとっての眺める練習で一番役に立ったのが、瞑想方法の一種である
『ヴィパッサナー瞑想』で、これはスリランカの国教、テーラワーダ仏教の
お寺(教会)の講話会で、実際にお坊さまから教えてもらったものだ。
ちょっと話が脱線するけれど、ここの一番偉い立場のお坊さま、
アルボムッレ・スマナサーラ長老は、
「私は日本語がわからないので」と、端的でわかりやすい表現を使い、
思い切りサバサバ、ものごとを言い切るお方である。
本当はサバサバ、というよりバッサバッサと斬る、のほうが正しいと思う(笑)
この講話会の質問タイムが、またね。
たまたま私がお伺いしたときだけだったかもしれないが、
「えええええっ!?」と、人生「真剣模索」中の私でさえ
心の中で激しく驚くほど、煩悩炸裂! の質問ばかりで……。
性欲とか金欲とか、支配欲とか、それをどうにも抑えられず困っているとか、
できれば自分以外の周囲を変えてなんとかラクになりたいが
その方法はどうすれば、的なご質問だったのだ。
まじめに質問されていたので、苦笑くらいの雰囲気だったのだが
(実は私、何回か吹き出しそうになったことは秘密……)、
それをまたスマナサーラ長老ったら、限りなく柔らかい笑顔で
言葉は超きっぱりバッサリ、そりゃもうアッパレお見事! なご回答。
……正直、楽しかった(*^_^*)
「この方は、絶対、日本語がバリバリ堪能であられるはずで、
単にご本人が、こういうもの言いがお好きだから、
日本語云々のせいにしてやっておられるに違いない」と密かに思った(笑)
と、脱線しました(^_^;)すみません。
機会があったら講話会、ぜひ一度、どうぞ。
最後にテーラワーダ教会のURLリンク張りますね。
で、そのヴィパッサナー瞑想に似た感じのことを、説明してみようと。
これは表現上、かなりのチャレンジになるので、
今まで避けていたのであった……ゴメンナサイ。
まずテーラワーダの教え方にならって、私たちの、
身体上の出来事から話してみたい。
たとえばあなたが今、蚊に咬まれたとする。
肌は赤くなって、丸く腫れ上がり、かゆみが生じる。
すると脳への伝達によって、あなたには「かゆい」という感覚が生まれる。
そこであなたは、そのかゆみを気にして、「かゆい、かゆい」と意識する。
意識することによって、今度は「かゆさ」そのものを
「より不快」に感じるようになる。
すると「咬まれて悔しい」という感情が生まれたり、
自分を咬んだ「蚊」に対して、憎しみが生じたりする。
起こった出来事、その事実は「蚊が私の血を吸った」である。
症状が出たことにより、あなたが次々に思考や感情を展開する。
そして「憎しみ」という感情さえ抱くのだ。
そんなふうに私たちは、起こった出来事について「あとから」解釈し、
いろいろな理由や感情をくっつけて(たとえば、かゆい、悔しい)、
何らかの結論(たとえば憎い)などに至る。
そう、わざわざあとから、自分で何かをいろいろくっつけちゃうのである。
なかには、憎い、に至らない人もいるだろう。
かゆいことさえ、気にならない人もいる。
でも、「憎い」になると、蚊を探したくなり、
蚊を責めたく(やっつけたく)なる。
「怒り」が湧くからだ。
そしてかゆみがおさまるまで、それに気をとられたり、
次には、蚊をたまたまどこかで見ただけで「怒りと憎しみ」が湧く
(血をもらっておきながらかゆくするなんて恩知らずめ! とか
その無駄なシマシマ模様よけいムカつくわ! と(笑))。
こうした例をもうひとつ挙げてみよう。今度は逆パターン。
小学生のころ、漢字の書き取り練習をした経験が、たいていはあるだろう。
たとえば「住」という漢字を、書いてみる(今は書く代わりに、
この漢字を一つずつ、左から右へゆっくり丁寧に見つめていってほしい)。
住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住、住……。
実際に書いてみると、もっとわかりやすいかと思う。
たぶん20回くらいを過ぎるころまでには、「住」という漢字が、
片仮名の「イ」に「主」をくっつけたもののように見え始め、
「主」にも意味がないような感じに思えてきて、
「ただひたすら何か線を書いて、それを並べているような、変な感覚」を
覚えたりしないだろうか。
意味があったはずの漢字が、意味がわからなくなるような、
漢字ではなくなっていくような。
点と線の集まりのような。
あれ、何を書いてるんだろ、私、みたいな(笑)
感覚的に少し麻痺して、別の作業と化しちゃうような感じ。
似たものとしては、長距離を走る際の
「ランナーズハイ」も挙げられるだろうと思う。
遠くから眺める、というのは、そういう感覚に近い。
漢字の練習みたいな単純作業系なら、
私たちはすでにその練習をしたことがあり、
感情は「あとから」くっつくものであることも、
実は感覚的に理解しているのである。
日本テーラワーダ仏教教会
→http://www.j-theravada.net/index.html
~ふー。その2に つづく~