ここまでは一応、なんとなくは理解してもらえたかと思う。
そう思うことにして(笑)、次へ話を進める。
起こった出来事に対し、自分があれこれ、
あとから感情をくっつけたのだから。
本来であれば、それを外す(別の解釈にする)ことも、可能であるはず。
が、しかし、ここで登場するのが、価値観、である。
あるいは欲、さらには見栄。
これらを急に変えようすると、たいていの場合、無理が出る。
なぜならそれらは少なくとも、あなたを守ってきたものであるからだ。
たとえどんなにいびつでも。どんなにゆがんでいる、と、
今では捉えられるものであっても、あなたはそれによって今までやってきたし、
「守られるメリット」の記憶は残っている。
たとえば昔、頑張ればほめられた。
だから頑張るのはやっぱり、心地よい。
他者から見たらかなり頑張りすぎているけれど、
もはや「ほどほど」なんて、自分のなかでは
誰かに手抜きがばれるような気がして、怖くてできない。
たとえば昔、好きな人から深く傷つけられた。
だからもう、誰かを好きになんてにならない、という感覚。
それによって「傷つくこと」から、自分を守ってきたりしたのだ。
苦しくても、それでどこか、自分がメリットを感じていたら、
速攻でそれを手放すことはできない。
そして、速攻で手放す必要もないし、形を少しずつ変えていくだけで、
実は完全に手放さなくてもいいものだったりもする。
だから、価値観まで掘り下げていくのは、少しずつでよい。
見栄も欲も、手放すのは少しずつでいい。
人の助けを借りる必要もあったりする。
鬱の人なら、少しずつ、薬を手放しても安心していける練習も必要だ。
そうしたバランスは、あくまで「心地よい範囲」で探っていいのだ。
今はまず、漢字練習をし過ぎたときのように、
意味をなくす感じで、そのネガティブな気持ちを「眺めるほう」を
練習してみよう。
これもまた、ヴィパッサナー瞑想の方法にならって、説明してみる。
最初は、くっつけた自分の感情を、元の「事実」にまで戻してみるのだ。
ひどいことを言われた。叱られた。失敗した。下手なやり方をした。
そういう「事実」の部分である。
誰かから何かを「された」のであれば、
「された」の部分も外してみる。
誰かが、あなたに対して、何かをした、言った。
自分自身のことなら「それが起こったシチュエーション」のほうまで見てみる。
たとえば頑張りすぎた人なら、
あそこで、無理をしてみたかった。どこまでできるか、と思った。
チャレンジしてみたかった。言ってみたかった。やってみたかった。
やらねばならない、と、捉えていた。
ただ、責任を感じていた。自負があった。
まあいいや、と、流した。
そう。
そのときは「それでよい範囲」と思っていたことだったりするはずだ。
今になってからの、あとからの後悔、は、とりあえず一切、つなげないでほしい。
馬鹿だったなあ、なんて反省も、今はまったく必要ない。
今はそうした余分なものは、見つめる「部分・枠」から、はっきり外してほしい。
……この辺まで戻れば、起こった出来事、自分の決断、などについては
少し「眺める」感じになってこないだろうか。
その瞬間は、それがただ、「あった」「起こった」のである。
あるいはその直後に、あなたが「まあ、いいか」「そうしよう」等のことを決めた。
そう。事実は、それだけ、なのである。
その瞬間にはまだ、憎しみも妬みも、恥ずかしさも悔しさも悲しさも存在しない。
そして。
ものごと、というものは単純に、そうやって、起こっては消えていく。
一瞬のうちに、過去になる。
そうやってどんどん、流れているのである。
その1で書いた「蚊に咬まれた」で言えば、
事実は、咬まれたので脳に信号が行って、今、身体が「かゆさ」を感じている。
それだけである。
咬まれたことによって、ボリボリ掻いて、血が出たとしても。
身体は、わざわざ意識しなくても、かゆさをやがて抑え、
血が出た傷の部分を、修復しようとする。
心の傷も、実は自然な修復作業を行おうとする働きがある。
時間薬、も、そのひとつ。
鬱の人は、そのルートがかなりか細くなっているだけだ(なかには薬によって
逆に一時的に、自然な作用が抑えられている人もいることだろう)。
出来事自体は、そうやって流れ、変化していき、
今の目の前の瞬間からは消えていく。
A: 起こった事実と、自分のその瞬間の考えや行動。
B: それによって自分があとからくっつけた「感情」。
その2つは切り離せるのだし、
切り離せるのであれば、いずれは「別のものをくっつけ直すこと」も可能なのだ。
そんなふうに、まず、当時の(または今の)感情そのものではなく、
それが湧いたときの「根っこの部分」を、眺めてみてほしい。
~その3につづく……が、次記事のアップは少し時間を置きます~