カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

未来をも「自力で失敗へと導く」捉え方

動けないまま、何も変えられないと思い込んでいる人は、

自分が持っている問題点を考えるときに、まずほとんどの場合、

否定形の言葉を使う。

これは、私の思考整理をときに助けていただいている

癒羽さんのブログにも書いてあったことだ。

どんなふうに否定するか。頭の中で考えているときに

でも

だって

どうせ

をたくさん使うのである。

癒羽さんは、今の仕事に就くに当たり、お師匠さんから、

「でも だって を自分が使ったら、100円貯金しなさい」と言われたそうだ。

実際にやってみたら、またたく間に食費を圧迫するくらい

100円玉を貯金箱に入れるハメとなり、

自分が思考のなかで、この言葉を多用していたことに気づかれたらしい。

実際、この言葉は、現在の自分や周りの環境、他人を

否定するだけでなく、未来の方向性をも否定してしまう。

これからを改善していく、少しでも状況よくするための

アイデアは浮かびにくくなるし、周囲には働きかけにくくなる。

想像してみてほしい。

もし、この言葉を実際に多用する人と話していたとすれば、

なんとネガティブなんだろう、あるいはどうしてこんなに不満が多いのだろう、

周囲に対しての使用なら、すごく皮肉屋さんだな、とか、

そんなふうに感じないだろうか?

わざわざ、自分で自分を悪い状況のまま、

保ち続ける努力をしているのと、同じことになるのだ。

そんな努力を、したい人がいるだろうか?

たとえば……かわいそうだね、大変だね、と、人々の関心を買って

注目してもらって、絡んでもらって、延々、慰めてもらいたい、とか?

それくらいしか、効用は、私には思いつかない。

そんなこと言ったって、現在、大変なんだもの、と言うなら、

じゃあ「でも だって どうせ」と言い続けていたら、

何か変わってよくなっていくんですか? と尋ねたい。

自力では現在、どうしても変えるのは難しい、

しばらくは、どうしても様子を見る必要があるなら、

なぜ、わざわざ「でも だって どうせ」を繰り返さなくてはいけないのだろう。

今すぐは無理だからこそ「でも だって どうせ」を使わなくていいような、

少しでも気持ちが明るくなるようなことを、考えてみてはいけないのだろうか?

あるいは、今は逃げていることが自覚できているなら、

うん、逃げてる、今は仕方ない、それが私だ、と素直に思ってしまえばいい。

悪いわけではない。待つことが必要な場合もあるのだ、実際。

だから認めて、いったん、そんなふうにグダグダ否定してしまう気持ちごと手放して、

他の否定しないでいい部分を考えるとか、全然そういうのとは関係ない、

好きなことにでも関心を向けるほうが、

よほど気持ちは落ち着くのではないだろうか?

落ち着いているときのほうが、よいアイデアも思いつきやすくなるのでは?

どうしてもできるだけ早急に解決する必要があるなら、

それこそ「でも」とか逡巡している場合ではない。

「何から」なら、自分にもできるだろうか? という無理のない検討に、

意識を集中させていったほうが、よほど建設的だ。

わざわざ自分で、過去の経験から記憶を引っ張り出して照らし合わせ、

現在も次も未来もダメに違いない、と決めつけること、

それを「でも だって どうせ」で繰り返し考え続けることについて、

私が気づけていない効果でもあるのだろうか。

……自分へのそんな言い訳が、楽しいはずはないだろうに。

人間は、反省も謝罪も改心も、改善も転換もやり直しも、

できる能力を、普通に備えてもらっているのだ。

生物学的に、脳みそにそういう仕組みを、持たせてもらえている。

だからこそ、裁判所があり、服役というシステムもあるのだ。

その仕組みを持っていないなら、刑務所なんて、そもそも作られるはずがない。

あなたは真面目で善良で状況を変える力を必ず持っているし、

それが今は見えなくても、あなた自身によって隠されているだけだ。

人間、である以上、必ず思ったこと、気づいたこと、

そういう思考をきっかけにして、何か少しずつでも変えていけるのだ。

そう、あなたが 本当に 変えたいと望むのであれば。

病だって、治ると信じたほうが、治らないと信じるより、治る確率が上がるし、

薬や治療も「効くんだ」と感じられたほうが、

実際の効果が上がりやすい。これは別にごまかしではなく、

新薬の効果を実験で確認していく過程で、

プラセボ薬、という効果のない薬をもらっても、知らされないために

薬だ、と、思って経過が良くなる人がいることが報告されているのだ。

たとえば自己治癒力を少しでも上げたい、とか、

この先、何かしらの部分で楽になっていきたい、

あるいは自己変革していきたいなら、

わざわざ悪く捉え続けるクセをまずやめること。

「でも だって どうせ」からは、よい方向への変化は

この先も一生、まず生まれないだろう、と、私はあえて言い切りたい。

なぜなら、自分にとっての悪い捉え方だけ、練習し続けることになるから。

また悪いことが起こったら、自分で自分の「だって どうせ」を

強化することになる。失敗や不満はこの先もすべて、

そこへつながるだろうから。

そして、どうなっていくか?

悪いことだけは必ず、やっぱり、と注目し、納得し、

新たな「ダメ証拠」として自分の記憶にしっかり刻みつけていく。

よいことは「たまたまそうなったに過ぎない」で終わり、

せっかくの機会もチャンスも見過ごしてしまう人生へと、

ますますなっていく一方なのだ。

さて、あなたはこれから先、自分に対して

何を選んであげますか?

この先も、自分をイジメ倒し否定しまくり、

たまに周囲のせいなどにもする人生を作り上げていきますか?

選ぶのは、常に、あなた自身である。

 

「不安と不満を見つめること」を毎日 あなたが 選んでいる

あのね たとえばさ

大量のお金と

見目麗しく 健康な身体と

優しい奥さんやダンナさんと

かわいい手の掛からない子どもたち

それが揃っていたら

あなたは一生 

末永く幸せに 生きていけるのかな

あるいは

出世さえすれば

あれさえできれば

これさえできれば

ずっと毎日 末永く幸せに過ごせるのかな

失うことも心配せずに いられるかな

ないときは ないものだけを望み

できないことばかりを見つめ

他者と比較し 不安に 不満になり

手に入ったら 今度は

それをどう守り続けていこうか汲々とし

もし失ったらどうしようと思い

将来 悪くなったらどうしようと思い

不安に とらわれ続ける

ねえ じゃあ いつになったら

あなたは 幸せに囲まれるのだろう

わざわざ 身の上の不幸に注目し続け

過去の失敗から 将来の不安を導き出し

延々 不満と不安ばかりを見つめ続ける

そんなやり方を選んで 毎日を過ごし続け

いつになったら 幸せに囲まれるのだろう

ないものをねだり

あるものを 不安に思い

そのやり方を わざわざ毎日

続ける理由は いったい何?

できるかできないか

やったか やらないか

達成したかどうか

成功したかどうか

行動で自分の評価と

自分の幸せの条件をはかり続ける限り

あなたが幸せになるのはいつも一瞬 得たときだけで

あとはずっと 不満か不安

得たものも もう感動が薄れて 当たり前

もっとやらなくちゃ もっと何回も得なくちゃ

幸せは 続かないんだから

って うん そりゃ そうなるよね

行動や達成結果で 自分の評価と 幸せをはかり続ける限り

延々 やり続けなくちゃいけない

苦しいね

今の状態って そんなにも不幸なの?

何もなく 何も楽しくなく 何もまったく ありがたくはないのかな

もしかしたら 身の回りの人やもの 仕事 健康 お金

そうした環境が 全員 全部 自分の目の前から消えてからなら

状況のありがたさも わかるかのな

今の「ありのまま」での恵まれている点

今の自分の 置かれたありがたさ

今日の うれしかったこと

今日の 楽しかったこと

今日の 無事だったこと

そういう 当たり前のようで

当たり前でないことに

今日もよかった と思えたほうが

毎日 少しでもラクに 楽しく うれしく 過ごせるんじゃない?

行動や評価ばかりを見つめるのではなく

しかも悪い点ばかりを 見つめるのではなく

今ある状況の ありがたさを 見つめられたほうが

よほど長く 幸せに 過ごせるんじゃないかな?

得たいものは あくまでも 楽しくチャレンジするための 目標であって

それが手に入らなければ 失格だなんて思えるようなら

今ある状況の ありがたささえ たぶんね

この先 失っていってしまうのかもと そんなふうにも感じられる……

もしそんな状況になるまで 気づけないならさ 

さすがにそれは やっぱり 違うんじゃないかなと

私には思えるんだ

心に銀河

たとえば 私は このブログを

恩返しとして 書いている

私が自己最大にまで 初めて落ち込んでしまって

暗くて まったく光を放てなくて

それどころか 

誰も近寄ってこないで

私のスペースに 入ってこないで

こんな私のところに

と 閉じてしまっていたとき

私は 友の死 という強力な出来事で

その暗い箱から 強制的に一度 追い出されたのだ

今になって思えば

そんな辛い気持ちになる 悲しい出来事さえ

私には 外へ出て 周りをみるキッカケになっていった

そして死というものが

生きているものに残す

言葉にできない 淋しさを

味わわせてもらったのかもしれない

それがあまりにも直接的に 私には響いて

他の大事な人のこと を考える時間にも変わり

私は死を選べなくなった代わりに

どうやったら暗い箱からもっと出られるかを

探してみようとした

そうして少しずつ 自分から 探してみたら

あらゆるところに 私へと響いてくる言葉を

紡いでくれる人たちがいた

ネットの向こうに 本の中に テレビの画面の向こう側に

それらは私にとって 光に思えた

一つひとつは 小さな光でも

それを重ねて受け取るうち ときに涙が出たり

ときに腑に落ちて そうか と思えたりして

私の中に光の粒が溜まっていき

やがてそれらは 私を 

生きていてもいいのかも

という 気持ちへと つなげてくれたのだ

光の粒たちが 心のなかで 

ゆっくり ゆっくり 回り出し

私のための 小さな 温かさ という銀河を

つくり始めてくれたのだ たぶん

そうしてやがて 私は

もう少し自分から

光を探そうと思えた

いろんな宗教の説話や 本や

生物や心の知識

宇宙のこと 生命のこと

自分という存在が 生まれ出ることができたのも

細胞レベルの神秘的な奇跡だと知ったりした

人と会って話をしてみると 悩んだり 苦しんだり みんなそれぞれ

心のなかに課題はもっていて

それをどうしていくのか 模索していて

テーマや環境は全然違っていても

自分を どうしたいのかの模索は 共通するところもたくさんあって

ああ 今までこんなふうに

他者を感じたことがないな と気づいた

これまでは もっと社会的な 表面的な立場や環境で 人を見て

わかってるとか わかってないとか

感じて 言ってきたように思えた

さまざまな人の 温かい気持ちは 一つひとつ 光になり

ホタルのような光が集まって ときには強くなったり

あるいはホタルのまま ふんわりと そばにいてくれるようになり

だから私はさらに 生きていっても いいんだな に

変わっていけたのだと思う

見知らぬ 誰かに 出会った 誰かに

遠くから あるいは直接的に光をもらえ

銀河を もたせてもらえ

今 私は ここにいる

そして恩返しに始めた このブログや見春屋で

誰かが 自分の光になったよと 伝えてくれるから

そんなふうに捉え 扱ってくれた あなた自身の力に対し

私もまた感謝して 光をひとつ いただけているのだ

今 ここで出会い すれ違い または 言葉を交わしあうことは

何かあなたにも 意味があるのだと思える

あなたの中に 小さくても 光が灯ればいいなと思える

その形は 怒りだったり 不満だったりしてもいいのだ

暗い箱の中にジッとしているよりは きっと何かを 変えるから

どんなに弱くても どんなに小さくても

人は 自分で 自分に合う光を集めることが 必ずできて

それを自分が選んで集めることで 心の中に銀河が回り出し

今まで知らなかった自分へと 導いてくれると思えるよ

その光を 選ぶという行為は あなた自身の中にすでにあった

あなたのために使える 力なのだ

そして集めていけば 必ずそれはいつか 回り出すのだ

それにたとえ今は 暗い箱の中に いるかもしれないあなたも 

どこかで誰かの光に なりうるし

実はもう 光を 放っているのかもしれない

苦しい気持ちを 感じている それを共有し合うだけでも

何かが 変わり始めるのだから

そうやって 人は寄り添い集まって

一人ひとりが 輝きを放っている

その心の光を もし遠くから見られるのなら 

たくさんの小さな銀河からの光が きっと

大きな銀河のように集まって 地球の上を 漂い

巡っているのだろうと 私には 思える