カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

常に今「より平穏」を選ぶ ~その2~

そして怒り。

相手が理不尽なときに湧くことが多いと思うが、

「この怒りは、私だけが得をするとか、ラクになるために、

感じているのでは?」と、一瞬でもまずは自問自答する。

たとえば相手がノロマで「見ていてイライラする」場合

(たとえ自分の子どもが相手でも、ね)

それを「イライラ」の気持ちで見ているのは、自分である。

ノロマで、あとで困るとしたら、それは一番に相手のはずなのだ。

だからその状態を改善したいなら、

ただ怒ってイライラの感情をぶつける、つまり怒鳴るよりは、

「なぜそんなにゆっくりやってるの?」と

相手に尋ねて、遅い理由をきちんと確認するほうが、

繰り返されるよりは結局、効率的である。

もし、用事や仕事などで一緒に行動しなくてはいけない相手でも、

「そのペースでやっていたら間に合わないんだけれど、

あなたはそれについてどう考えているだろうか?」

と、素直に聞いてみればいい。

そのとき、相手が「あなたに迷惑かけるかどうかは関係なく、

自分のペースでやりたい」という類のことを

発言するようであれば、そもそも一緒に動くというやり方自体、

再検討が必要だということだ。

遅いことで、相手だけがあとで困るようであれば、

それ、あとで困ると思うよ、で終わらせて、本来は構わないはず。

実際に困ったときに初めて、相手も「遅いとダメだ」と

自覚できるかもしれないのだ。

あなた自身は、きちんと指摘はしたのだから、そこでいったん、

自分自身のイライラは終わらせてしまえばいいのだ。

だってそうなればもう、それは相手の問題だから。

相手が意識して変わらない限り、改善しないのだから。

これは主義主張が食い違うときにも同じ。

「なぜそう考えるのか」をわかりやすく質問して、

相手の考えを誰にでもわかるような形に

明確化していけばよい。

もし、相手の判断のほうが「明らかにマズい」場合、

相手も、それを自分で説明していくうち自覚できるように。

第三者がいればなおさら、相手が説明するうちに勝手に、

自業自得で反省(意地悪な言い方でごめんなさい)してくれるのだ。

たとえ相手の主張が完全に間違っていたとしても、

怒りを発動させ、厳しい言葉で相手を攻撃し、こちら側の主張を

気分そのままのトゲトゲしい口調で展開して、

周りにまで緊張感と苦しさ(ときに反発)を与えるよりは、

当の相手がきちんと自覚でき、周りもより納得できる方法をとるほうが、

何かとスムーズで、後の進行もラクではないだろうか?

相手の意見を聞いてこちらが考え直す時間も生まれるし、

その必要がない場合はある意味、冷静に、

こちらはジワジワと相手の非を責めることにはなるが、

実際、そのほうが効果は高いし、問題も少なくてすむうえ、

確認している間も、自分は怒りに飲み込まれないですむのだ。

何らかの無難で平和な共存、とかいう話ではない。

自分がただ、毎回、平穏なほうを選ぶ、と決めれば、

自分の感情や周囲の状況、他人の思惑に、

ムダに振り回され疲弊しない、ということだ。

そうすれば「今はまだ、待つ」だったり、

今回は行動しない、という選択もまた、可能になる。

ワクワクすることも、楽しいことも、

その瞬間、瞬間である。

そのときが終われば、ワクワクという感情が消える。

結局は「そういう時間を持てること、機会があること」、

その事実自体が、自分を充実させる。

その充実とは「幸せ」であり、そうやって

幸せな時間がある、と自覚できれば、他の時間においても

穏やかで温かい気持ちになれる。

そうした穏やかさにたどり着くために常に必ずワクワクし、何かを楽しみ、

「充実しまくらなくてはいけない」わけではない。

楽しみというのも、ひとつの手段であるだけなのだ。

そういう機会を、時期も見計らいながら探しつつ、

日々の、目の前の出来事一つひとつで、今この瞬間、

毎回、丁寧に「平穏」を選んでいけば、

意外に、自分が温かい気持ちで過ごせることに気づくはず。

やってみないと実感できないのかもしれないが、

自分が今、そう決めることで、先の変化も生まれる。

不安や怒りなどの感情も、実は楽しみと同じように

結構、自分が「程度を選んでいる」ことに気づいていけるのだ。

たとえ泣きたいときでも、きちんと思い切り泣いたほうが、

短い時間で落ち着くことができることはわかるだろう。

それもまた今、意識できる選択、ということである。

感情に飲まれるなら、巻き込まれるのではなく、意識して飲まれる。

ある程度時間が経ったら、このままこうしていても、

何も変わらないな、と思うことにしてみる。

そんなやり方だってあるのだ。

どうかあなたが、過去や未来ばかりでなく、まず先に「今、このとき」を大切にし、

丁寧に自分を感じ、一つひとつの気持ちを選んで積み重ねていく……、

そんなふうにして、より平穏に、

つまり幸せな時間をより長く、過ごせますように。

常に今「より平穏」を選ぶ ~その1~

私たちが日常生活で、なにげによく陥る罠。

過去の失敗を今、現在のものであるかのように

頭の中で再現し、落ち込み、自分を卑下したりする。

楽しければいい、あるいは今さえよければ、と、

あとあと黒い気持ちになってしまうこと、身体に負担がかかって辛いことを

ワザと選び続ける。程度を超えてそんなハメの外し方をし、

あとで自分をイヤな気持ちにさせたり、イヤな関係に陥らせ、破滅させる。

自分の怒りを真っ先に表現し「なぜ相手がそれを選択したか

(相手は選択したから発言する、行動するわけだ)」は最初に考えない。

怒りを発してまず自分を満足させ、しかも厳しい空気になってから、

初めて相手の理由を聞く余裕が生まれ、

ときに勘違いしていたことに気づいたりしたら、

そのときは自分が苦しくなったりする。

すべて、瞬間的、刹那的、そのときの負の感情だけを

優先して、その結果、自分がかえってつらくなるやり方である。

怒りや憎しみや悲しみ、後悔や考えなしの楽しみを

持つことが悪、というわけではない。

人間だから、喜怒哀楽の感情はあって当たり前である。

ただ、それに「とらわれる」、飲み込まれて後先を考えなくなると、

「結果として」自分がつらくなることが多いのである。

だからといって常に冷静沈着でいられるわけでもないだろうが、

日々、なるべく楽しさが持続し、満足し、嬉しさを感じ、

落ち着いた気分で過ごせたほうが、より、充実するだろう。

そのための手段のひとつが

「今からは、自分のために一つひとつ、

より平穏なほうを選ぶ」と心がけることである。

順番に例を挙げていこう。

たとえば、過去の出来事を思い出して落ち込む。

しかしそれはあくまで「過去」の話。今、現在進行形で

それに向かい合っているわけではない、と

自分に本気で、真剣な気持ちで、きちんと自覚させるのだ。

そうすれば「つらい、つらい、どうしようもなくつらい」という

感情の波に巻き込まれないで済む。

つらさは湧くだろう。確かに湧くけれど、それに心が乗っ取られて

感情が丸ごと飲み込まれてしまう事態は、

防げるか、少なくとも時間を短縮できるのだ。

現在進行形のことで、それがまさに今、

自分を痛めつけているなら、そういう事態は現実だけれど、

でも延々、この苦しみを続かせなくちゃいけないわけではないことを自覚する。

たとえば病で今、苦しくても、この先、それと折り合う考え方を

見つけられるかもしれない。

病は、自分を見つめ直すキッカケを与えてくれることは事実で、

それによって自分も変化する「学び」には、変えていけるのだ。

そしてその際、未来については「起こっていないことの

悪い予想をしたうえでの心配である」ことを、明確に自覚するのだ。

対策は、本当に立てられないのか。

ほんの少しの改善(しばらく時間を置いて

改めて考える、も含む)さえ、不可能なのか、ということだ。

次に、そのときさえよければ、楽しめれば、と思ったときには、

あとで自分が後悔しそうなところまでは選ばない、

あるいは、どうしてもそれを選ぶとしても

「あとでこうなるかもしれないことは、自覚しておくぞ」と意識する。

失うのが怖いがゆえに、疑問や違和感を感じながらも

その場の雰囲気に、相手に、とりあえず合わせてしまうのではなく、

「感じている」ことを今、この瞬間に、明確に自覚しておくのである。

これを繰り返すと、選択肢がだんだん変わってくることが、

少しずつ理解できると思う。自分を客観視できるからだ。

~つづく~

憎しみや裏切り、恨みの気持ち

憎む、とか、裏切られた、とか、

そういう類の感情は、自分を疲れさせる。

物理的にも、体調が悪くなったりする。

なんて自分勝手な考えを、という怒りは、

相手側の気持ち、本心、を確認することで

そういうふうに捉える人なのね、という失望感に変えると

ガッカリ、はするけれど、憎々しさが募る、続くことを防げるように思う。

なぜ、こちらの気持ちをわかってくれないのよ! と思っても、

それは相手が、あなたとは別の人間だからである。

別の人間であり、別の環境で、別の価値観をもって育ってきたから、

同じ考えに、同じ気持ちにならないことがある。

シンプルに考えれば、それが「わかってもらえない」理由なのだ。

であれば、こちらは、わかってもらう必要がどのくらいあるかに応じて、

すり合わせ、するしかない。

あるいは、わかってもらえないのだ、と、その点についてはあきらめるか。

相手の考え方にも一理あるのか、それを受け止めるか否か。

相手を一方的に攻撃するだけでなく、自分の価値観も、

自分で問いかけてみてもいいのかもしれない。

正解は、ひとつだけではないこともあるのだ。

そして、もし。

コイツにはこちらの気持ちは届かない、という結論に至ったとき、

先ほどの失望感は、確定的になる。

それはとても残念だし、その時点では悔しいことかもしれない。

でも、こちらの感情、考えに、一点の曇りもなければ。

自分の感情が、自己中心的ではなく、

あきらかに、コミュニケーション手段として、相手の出方のほうが

おかしい、と、思えるのであれば、

割り切れたりもするのだ、結構、あっさりと。

なぜなら私は、その相手とは別の人間だから。

相手がそう考えるのは、相手側の問題であり、

きっとこの先もこの人、困るだろうな、と感じたとしても、

それは私の問題ではないのだ。

ただ、どうしても、側で長く付き合っていかなくてはいけない相手なら、

そして、多少でもわかってもらう必要があるのなら。

こちらの考えを、感情的に、ではなく、冷静に、

「交渉」していくのが、よいように思う。

少なくとも、こういう方向にしてもらえないだろうか、とか、

この点は、こう考えてもらえないだろうか、とか。

とくに、相手の考え方も100%間違いとは言い切れないのであれば、

お互い、どこまで歩み寄れるかの接点を探していく。

譲歩と折り合い、である。

その最中、また感情的な議論になりかかったら、

自分から、交渉をいったん中断してもよいと思う。

誰かを憎み、非難するというとき。

それは、自分が正しいと感じ、

しかもそれを相手にはっきりわからせたい、

ある意味、相手を懲らしめ、仕返ししたいという思いを、含んでいるように思う。

その仕返し、のようなものを、果たしてあなたがしなければいけないのだろうか?

私は、とくに鬱になって以降、そこまで100%、自分が正しいとは、

思えなくなった、かもしれない。

だからこのように考えるのかもしれないが、

少なくとも、憎むことで自分がその黒い感情に苦しむよりは、

割り切ったり、どう接点を持つのか、という方法を探るほうに

注力するほうがマシだ、と考えるようになった。

実際、それをやってみたら、相手に腹が立つ、許せない、

そういう怒り的な感情も以前よりは短くなり、

その分、平和に、平穏に過ごせるようになれたと感じている。

憎しみや怒りや恨み、という気持ちは、

誰よりも、何よりも自分自身を、蝕むような気もするのだ。

だから、それを手放すこと、相手には相手の都合や考え方があり、

必ずしも自分と一致するとは限らないのだ、ということを、

割り切るように思うことで、自分を少しでも早く楽にしてもらえたら、と思う。

それは決して、間違いでもないし、やられ損、でもないのだと。

損得、という判断基準でものごとを考えるのをやめる、

そんなキッカケにさえ、出来うる話なのでは、とも、私には思えている。

損得ですべてを判断するのもまた、とても苦しい人生だと思えるのだ。