カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

「憎しみ」を手放せないときに

昨日の話は「そんなに簡単にできるものじゃない」ことは、わかっている。

とくに誰かとの関係で、ひどい目に遭わされたた人は、本当に許せないと思うだろう。

私も別に、昔のストーカーくんを「許して」はいないのだ。

ただ、もう、相手が自分に関係なくなった、のである。

これが身内だった場合や、結婚相手のパートナーだった場合は、

その後も、子どものことなどでどうしても「物理的な縁」を切ることができない場合もあるだろう。

それでも、その「憎い」という気持ちの部分は、手放すことができる。

どうしてそんなことをくどくどと、私が述べるかというと、

それを抱えていてつらいのは、「相手ではなくあなた」だから。

あなたが、苦しいからこそ、憎しみを手放してほしいのである。

相手は、正直、誰であろうと関係ない。

そしてもし自分に大きな非があったわけでないのに、一方的にひどい目に遭わされたのであれば。

そもそもそのとき、相手はあなたに、何を求めていただろう。

あるいは何をあなたにやらせ、または、やめさせようとしていただろう。

そこには必ずそうした「相手側の要求」があったはずだと思う。

その表面的な要求の内容はともかくとして、また、相手があなたにとって

親だろうが子どもだろうが、上司だろうが部下だろうが、友達だろうが恋人だろうがパートナーだろうが、

相手の、その心の奥にある「要求」は

私を 僕を わかって

私を 僕を 一番大切にして

私を 僕を あなた自身よりも大事にして

私を 僕を 自分を犠牲にしてでも愛して

多かれ少なかれ、こうしたものであることが多い。

まさにその要求が通らないからこそ、自分を納得いくように満足させてくれないからこそ、

相手はあなたにひどいことをした。その可能性は、高いのである。

「愛」を、「期待」という言葉に置き換えてもいいだろう。

どうしても自分をわかってほしいのに、わかってくれないから、

自分の求めているものを、返してくれないから、

こんなに愛しているのに、相手は自分の「求め、想像している通りの愛」を返してくれないから、

どうしていいかわからず、あなたに対してひどいことを言ったり、したりする。

そう、相手の「こんなに愛している」の、その愛は、

「だから自分を、自分の心地よいように、必ず愛し返してほしい」という条件付き。

思った通りに自分へ返してくれることを前提とした「要求つき」の愛なのである。

そりゃあ、あなたが苦しくなるのも当たり前である。

相手はまず先に、何よりも「自分への見返り」を要求しているのであって、

“そのために”あなたを愛して、あるいは期待しているのだから。

自己中心、どころではない。「自分のことしか考えていない」のだ。

なぜ、相手はそんなことになったか……。

自分のことが、心の奥では、本当はキライだから。

自分で自分を、認められないから、自己満足させることができないから、

相手によって、自分の価値を高めてもらおうとするのだ。

だからまるで試験であるのように、自分を愛しているなら、と、要求してくる。

でも、それで本当に相手自身が満たされることはないから、

相手がそのことに気づくまで、その要求は、永遠、繰り返されるのだ。

……ある意味、かわいそうな、悲しい人だよね。

って、ひと言で片付けちゃ、いけないんだけど。

自分で自分を認めてあげていいんだよ、ってことを、知らないままでいる人。

まだ子どもであればいつか、誰かとの関係によって、その自己への不満を変えていけるかもしれない。

あるいはいつか、自分で自分を認めてあげることも、できるかもしれないけれど。

だからこそ、そんな人のことをずっと「心のなか」で抱えてあげる必要がないことが、

わかっていただけるだろうか。

相手の言動の問題は、まさに相手の心の問題であって、

相手自身が気づくしか、解決の道はない。

ひどいことをされたあなたが、イヤな思い出を抱え続けてあげなくていいし、

あなたが「仕返し」によって、相手に気づかせる必要もないのだ。

少なくとも、そういう関係になった相手に気づかせることは、まず無理だろう。

そんなことをしたら逆に、相手はまた喜んで別の形での「要求」を始めると思う。

ケンカという形か、一方的な非難の言葉、という形などによって。

どうしていいかわからないからこそ、攻撃してくることだろう。

自分の弱さを認められない人は、他人を攻撃する。だって攻撃は最大の防御だから。

弱くたって、いいのにね。

弱いなあ、私、僕、って、微笑みを浮かべて、ヨシヨシ、って、

そのまま自分を、抱きしめてあげて、いいのにね。

弱い自分ごと、好きになってあげて、いいのにね。

たとえそれが、親や兄弟、姉妹であってでさえ、相手が一人の人間である以上、

そういう「弱さゆえの要求」、「弱さゆえの攻撃」をしてくることはあるのだ。

残念なことに……ね。

もし、過去の経験があまりにつらい場合は、相手へのその憎しみを、一気に手放せなくてもいい。

つらさを吐き出す必要がある人は、紙に少しずつ書いたり、人に話したりしていこう。

前にも書いたけれど、相手がどんなにひどい人であったか、に中心を置くのではなく、

あなたがどんなふうに、どれだけつらかったを書くのである。

相手の言動は、そのつらさを説明するための添え物程度。そういう扱いでいい。

大切なのは、そのときのあなた自身の気持ち、あなた自身が何を感じたか、どう思ったかである。

吐き出し始めると、自分の心が単純に、軽くなる。

まずはそれを経験してみてほしい。

吐き出していくうちに「手放す」という感覚もまた、自然にわかってくるから。

あなたもまた、憎しみを抱く自分を、どこかで嫌っている。

だから、あなた自身をもっと好きになるために、

そのためにこそ、憎しみを、少しずつ、手放していこう。

その刷り込みは過去のこと

自分がダメだと思う気持ちがあらわれるとき

あなたは必ず 過去の自分を 記憶の倉庫から登場させている

あのときは あんなふうにダメだった あのときも ここがダメだった

今回も こんなところがダメだった だから毎回 自分はダメだと

私自身 鬱という病にかかって 何度も何度も 自己否定したから

そうなってしまう気持ちは よくわかる

でも それは本当に 絶対的に 100% 未来永劫 あなたが「ダメだ」という証ではない

苦手な部分があり それはまさに 上手に自転車に乗れないときと 同じなのだ

最初に自転車に乗って いきなり一度で身体のバランス感覚を身につける人は まずいないだろう

じゃあ どうしてあなたは 乗れるようになったのだろう?

あきらめずに 練習したからだ

どうすれば上手く乗れるか 教えてくれる人の アドバイスに従ったり

自分で こうなんじゃないかと思って試したり

そうやって徐々に 二輪で走るときのバランスの取り方を 覚えていった

あなたにとって 苦手なものは その練習が足りていないだけなのだ

どうして練習が足りなかったかというと そのときの「ダメ」で やめてしまったから

そのあとは 同じようになったときに 昔の記憶を 何度も何度も引っ張り出しながら

「ダメ」だったことだけを しっかり心に刻み込んで 重ねていったから

自転車で 転んだ 痛かった 転んだ 痛かった また転びそうになった

進めない だからもう 私は乗れない 決定 未来永劫乗れない

それと同じことをしているのだ

昔の自分と 今の自分は違う

昔の状況と 今の状況は違う

昔 周囲にいた人と 今 周囲にいる人は違う

なのにあなたは あなただけが 「同じ」と見なしてしまうのだ

こわいから つらいから 苦しかったから 悲しかったから イヤだったから

過去の倉庫から 記憶を寄せ集めては 自分を何度も 否定するのだ

でもね 本当は だいじょうぶ なの

あなたはもう 子どもではないから 小さいことなら できているの

あるいはその状況は 昔と今では 違うの

それにさ 別に今から練習しても いいんだよ

ちょっとずつでいいから 工夫してみて いいんだよ

すごく小さいことから 始めてみて いいんだよ

たぶん本当は 少しくらいは できてるんだよ

あなたのなかには それがイヤだったからこそ必ず 変えていくための「種」が潜んでいる

あとは あなた自身がその種を ちょっと発芽させてみようと 思ってみるだけの話なのだ 本当はね

ねえ じゃあ 練習しようよ できることから ちょっとだけ やってみようよ

いきなり長く続けられなくてもいいよ 一瞬でいい

練習なんだから すぐに 上手くいかなくてもいい

きっと あるところではできている そこでまず 「場合によってはできる」自分を 自覚してみようよ

どんなときでも どんな場合でも どんなことも

あなたには できる というときがある できる可能性がある

それを 「自分が自分に」認めてあげる 練習をしようよ

褒めることは 人を育てること

そうやって芽が出せれば それを育てていくやり方もまた徐々に 自分で見つけられるのだ

だって イヤだという気持ちは そうやって使えば

とてもステキな原動力に なるのだから

そこまでイヤだと思えている時点で あなたは 実は 変われるのだ

これは本当に 本当のこと イヤだからこそ ダメだと気づいているからこそ できること

だから本当に あなたは だいじょうぶ だからね

信じる力

今日の話は、具体性がないかもしれないがお許しを。

信じる、ということの効力について、私が感じていることだ。

さまざまな本を読みあさっていたとき、私は『思考は現実化する』という本を読んだ。

これは別に「気の持ちよう」というだけではなく、

すべては「思考から始まる」ことを説明した本だ。

当たり前と言えば当たり前だが、私たちはまず、何かをするときに、

それを「しよう」と思う意志を持つ。

わかりやすい例として、発明家の話をしよう。

発明家は「あったらいいな」というものを形にする。

すでにあるものへアイデアを加えて改良するだけではなく、

なんとかして、今までにないものを、作り出そうとする人もいる。

発明家のくくりに入れたら怒られるかもしれないが、ベルが電話を作り、

エジソンが電球を生み出し、ライト兄弟が飛行機を作ったのは、すべてそういう経緯だ。

このとき、最初に頭のなかにあるのは「できるかもしれない」という気持ち。

「なんとかして、やってみよう」という意志である。

これなしで、何かを変えたり、生み出したりすることは不可能なのだ。

じゃあ、その気持ちや意志に実体があるのか、というと、そうではない。

単なる「思い」、心の中のことだ。

でも、最初に思いが、意志があって、そこから「アイデア」や「考え」「思考」が生まれ、

それを「作業」という具体的な行動に移すことで、何かが生まれ、変わるのだ。

そのルールというか流れについては、なんら異存はないかと思う。

では。

私たちの思いや意志には、そういう「行動に至り、何かを変える力」がある。

同じ話をこういうふうに表現し直したら、あなたはどう思うだろうか。

とたんに「意志を持続できる強さが必要だ」とか、「忍耐力がいる」とか、

なんらかの「条件づけ」が始まるかもしれない。

場合によっては「運も必要」なんていう意見も、出るかもしれない。

意志にそういう力がある、その事実は理解しながら、いざ、実行するとなると、

尻込みするのである。

なぜかというと、たとえば「失敗」したくないから。他にも恥ずかしい思いをしたくない、

大変そうなことはやりたくない、あるいは「自分にそんな力はない」とか?

そういう声が、聞こえてくるような気がする。

が、しかし。

まさに、意志に力があるのであれば、「私にはできない」と思うこともまた、力を持つ。

そう、実際に、できなくなるのだ。

すでに、あなたは「自分の気持ちの力」により、自分を「鬱」へと追い込んだ。

それもまた、マイナス方向ではあるけれど、あなたを変える「力」だったのだ。

では、その事実を身にしみて感じていながら、なぜ、そのままでいるのだろう?

怖いから? また繰り返したくないから? これ以上、恥をさらすのがイヤだから?

少なくとも、あなたの頭の中にあるのは「過去に起こった出来事」である。

その出来事が「未来永劫、繰り返される」なんて決定は、本当はどこにも存在しない。

たとえ「似たような状況」に再び出会ったとしても、それは「同じ」ではないのだ。

唯一、あなたが「同じ」だと結論づけること、そう決めつけることをのぞけば。

状況は、まったく同じではない。あのときのあの瞬間は、もう二度と実際には訪れないのだから。

そして何より、あなた自身がすでに「違う」人である。

あなたの思うところの「失敗」は、1回目ではなく、2回目である。

そこには「前と同じ」(本当は似ているだけ)と「類推する」能力が、すでに新たに加わっているのだ。

言いたいことが、わかるだろうか。

失敗は成功の元、という言葉があるが、失敗が「新たな能力を得る学び」だということは、

つまり失敗は失敗ではなく、単なる体験的知識の増加、学び、に変えられるのだ。

そのための唯一の条件は「あなたがそう捉えるならば」ということだけ。

そして人生はすべてが学びであり、そこには「失敗」なんて存在しなくなる。

すべてが一回で全部うまくいく人なんてあり得ないから、

あなたが「なりたいあなた」に近づくためには「練習」が必要なのであり、

今はたまたま、「マイナスに感じられるやり方で、学んでいるのだ。

信じること、がどんな力であるかを、

こういう見方からも、知ってもらえれば、と願う。

すべては、あなたの気持ち次第。

ならば上手に使える練習を、してみてほしい。

そのためのサポートは、あなたが求めれば、得られるのだから。