カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

優しく接する

誰かに対し たとえば座席を譲るなどの小さな親切をしてみたり 優しく接することができると

少しの気恥ずかしさとともに 自分にも 柔らかくてすがすがしい気持が生まれる

それはたとえ 見返りがなかったとしても 自分のなかに 現れるものだ

本当は 自分に対しても それができれば 同じような気持ちを持つことができる

叱咤ではなく 否定でもなく 甘えでもない 優しい気持ちで

がんばっている自分を いたわってあげる時間

お湯につかって脱力したり 脚をマッサージしたりする

女性ならとくにわかるだろうと思うが ボディケアをしたり ネイルを整えたり パックしたり

そういう手入れや 疲れをとるようなもの

あとは 洗濯したての服に着替えたり 気持ちのいい場所で大きく深呼吸したり 

そういう時間を 自分に許すこと

自分の身体や 気持ちを みずから「意識して」いたわることは

同じように 優しい気持ちを 自分にもたらす

卑下することや 叱咤激励することが多い 鬱という病のなかにいる今だからこそ

ときには意識的に 自分を清潔にしてみたり いたわってみたり してみてほしい

あなたは 自分を大切にしてあげて いいのだから

あなたこそが 本当は 自分を一番大切にしてあげて いいのだから

どんな状況であったとしても それは 甘えでも何でもないのだ

何かをしないと変わらない?

鬱という病のなかで、まったく動けない状態を徐々に脱してくると、

暗い波が来て自分が落ち込んでいるときになんとかしようと、どうしても物理的に「活動」をしたくなる。

眠気などがある場合は、ぼーっとするのでそのまま寝たほうがもちろんよいのだが

(昼夜逆転なども、この時期はあまり気にせず、眠れるだけ眠ったほうがいいだろう)、

眠気がなくていろいろ考えてしまうときは、とくに何かしたくなってしまうのだ。

しかし、実際には身体がまだ本調子ではなく、疲れも出やすい。

栄養状態もさほどよくないだろうから、よけいにそうなる。

そして気持ちは、うまくいかないことでさらに落ち込むのだ。

……冷静にこう書くと、悪循環を起こしていることがわかると思うが、

自分がそのさなかにいると、このことに気づけない。

自分のなかでは、気分転換の一環だと思ってしまうからだ。

気分転換は、「それをすることで心地よくなること」を指す。

決して「~せねばならない」ようなことではないし、無理にやっても続かない。

何であれ、自分を追い詰めるようなことはしないほうがいいのだ。

うまく気分転換できなければ、そのことでも落ち込むとは思うが、それで自分を責めても意味がない。

あなたは「病」にかかっているのであって、その症状いかんでは、動くことさえ上手にできないことはある。

この病には「心の波」もつきものだし、そういうことも含めて、少しずつ自分を変えていくしかない。

これまでは「何とかしよう」としすぎていたかもしれないのだ。

風を感じる、お日さまの光を目をつぶって浴びる、夜空を見つめる、水の流れる音を聞く。

そうした「自然に届く何かに気持ちを研ぎ澄ます」ことも、心の回復に役立つことがある。

そこには、「~しなくてはいけない」このは、何もない。ただそうしてみたいから、してみる、程度のものだ。

そういう「とくに理由のない」何かに身体や気持ちを預け、ただ感じてみる。

たとえば視覚を使うなら、緑の葉の色の微妙な違い、花の形の違い、向きの違いを見つけてみる。

鳩の群れの一羽一羽の個性、噴水の水がそれぞれウォータークラウンを独自に作り出す様子。

普段なら見つめないそうした差を、ぼーっとみながら、ぼんやり探してみる。

上手に身体が動かない、気持ちが動かない今だからこそ、その美しさを見つけられるかもしれないのだ。

それが何を生み出すか、という「目的」も必要ない。

そこで感じることのできた何かが、「あとから」効いてくることも多いのだ。

目的や結果を求めることなく、何かを味わってみる。

無理がきかないときは、そういうふうに自分をゆるめてみることを、是非一度、試してみてほしい。

少しだけ、自分を好きになってみる

今日の話は、タイトルを見ただけで「無理!」と思う人に、読んでほしい。

どうして「無理」なのかを、少し、考えてほしいから。

暗いことばっかり考えるから ←鬱という病気のせいで脳の回路が、暗いところへたどり着く設定になってるから

失敗ばっかりするから ←病気のせいで身体も思うように動かないし、頭もうまく連動して働かないから

仕事が見つからないから、勉強ができないから ←上に同じ、しかも疲れやすいから

人とうまくいかないから ←病気のせいで、受け止め方、感じ方が悪い方向へ行っちゃうから

身体も壊しちゃったから ←きっかけが鬱という病になる場合は、心と身体が連動しているから

……ほかに、原因、いや、言い訳、あるかな。

それ、ほとんどの場合が「鬱病ゆえ」に起こってる」ことなんだよ。

もちろん、昔から人付き合いが苦手だった、なんてことはあると思う。

でも、そうした「苦手」は誰にでもある話で、対処方法は、それこそいくらでもある。

それが原因で鬱にまで高まってしまった場合はなおさら、自分の受け止め方ややり方を変えていけばいい。

自分のやり方、受け止め方は、本当に、本当に、これだけは絶対本当に、変えていけるのだ。

そこが変われば、もう、鬱になるほどまでに、つらさを高めることもなくなる。

時間がかかる、その間がもう苦しい? それは、あなた次第。

受け止め方を変えること自体は、それこそ明日からでも、今、この瞬間からでも、変えられるのだ。

それが「どうやっていいかわからない」から、苦しいんじゃないか! と怒る人もいるかもしれない。

今、自分の頭の中だけで、自分を変えようとしても、それは無理なのだ。

助けは必ず必要。サポート、というレベルでの助け。

だって、どうしていいか、あなたは気づくことができない。

これまでのパターン、これまでの思考回路、これまでのやり方に「はまってしまって」いて、

なのにあなた自身は、「はまっている」ことに、気づけないでいるから。

これがいいじゃないか、そんなのできない、とか、ずっとこうやってきたと、とか、そこに、しがみついてるから。

自分を卑下する「クセ」も含めて、いろいろ全部、ね。

責めているのではない。それが失敗だったとか、そういう話じゃない。

今、苦しいのは、全部が全部、あなただけのせいじゃない、と言いたいのだ。

たとえば生きていくうえで、親や友達から受ける影響は大きい。

そのなかで自分の役割を見つけていくのだから、途中でゆがみも出る。

親や友達だって、完璧な人じゃないのだから。ゆがみがあることは、「当たり前」なのだ。

ただ、そのゆがみを、あなたは全部、自分でまともに引き受けている。

あるいは変な理由付けをして、相手に「自分が足りない部分」を求めたり、実は相手に責任転嫁している。

そういう「自分のなかでのゆがみ」を、見つけていくのだ。

見つけていく過程で、自分がどんなふうに「耐えてきた」のかを、知ることになる。

どんなふうに「がんばってきた」のかも、気づくことになる。

それが、あなたにとって、苦しい選択の連続だったからこそ、鬱という病にまで、なってしまったのだ。

耐えないでいい「捉え方」や「受け止め方」は、見つけられる。

無理しない、「がんばらないでいいやり方」も、あなたに合ったやり方も、必ず見つけられる。

でも、そのためには、自分一人では、無理。それだけの話なのだ。

人は、本当は、「自分が自分を一番好きでいてあげていい」。

そう言われたら、ちょっと驚くかもしれない。

そんなこと、ありえるか、と、疑問に感じるかもしれない。

でも、そういうふうになれば、いちばんいい形で、人の役に立てることになる。

気持ちよく、人の役に立って、しかも感謝されることは、自分にとって一番のごほうびにもなる。

そういうふうに、人という生きものは、実はできているのだ。

だから、それを、新たに手に入れよう。

これから、手に入れていこう。

あなたが、あなた自身のために、手に入れてあげても、いいからね。

自分を好きになる方法を、探して、受け止めて、変わっていって、いいからね。

どうか、少しでも、新しいやり方を探してみようと思う日が、あなたに来ますように。

そのためのお手伝いは、あなたが必要と思うなら必要な範囲でしたい、と、私も心から思っている。