何かをしないと変わらない?

鬱という病のなかで、まったく動けない状態を徐々に脱してくると、

暗い波が来て自分が落ち込んでいるときになんとかしようと、どうしても物理的に「活動」をしたくなる。

眠気などがある場合は、ぼーっとするのでそのまま寝たほうがもちろんよいのだが

(昼夜逆転なども、この時期はあまり気にせず、眠れるだけ眠ったほうがいいだろう)、

眠気がなくていろいろ考えてしまうときは、とくに何かしたくなってしまうのだ。

しかし、実際には身体がまだ本調子ではなく、疲れも出やすい。

栄養状態もさほどよくないだろうから、よけいにそうなる。

そして気持ちは、うまくいかないことでさらに落ち込むのだ。

……冷静にこう書くと、悪循環を起こしていることがわかると思うが、

自分がそのさなかにいると、このことに気づけない。

自分のなかでは、気分転換の一環だと思ってしまうからだ。

気分転換は、「それをすることで心地よくなること」を指す。

決して「~せねばならない」ようなことではないし、無理にやっても続かない。

何であれ、自分を追い詰めるようなことはしないほうがいいのだ。

うまく気分転換できなければ、そのことでも落ち込むとは思うが、それで自分を責めても意味がない。

あなたは「病」にかかっているのであって、その症状いかんでは、動くことさえ上手にできないことはある。

この病には「心の波」もつきものだし、そういうことも含めて、少しずつ自分を変えていくしかない。

これまでは「何とかしよう」としすぎていたかもしれないのだ。

風を感じる、お日さまの光を目をつぶって浴びる、夜空を見つめる、水の流れる音を聞く。

そうした「自然に届く何かに気持ちを研ぎ澄ます」ことも、心の回復に役立つことがある。

そこには、「~しなくてはいけない」このは、何もない。ただそうしてみたいから、してみる、程度のものだ。

そういう「とくに理由のない」何かに身体や気持ちを預け、ただ感じてみる。

たとえば視覚を使うなら、緑の葉の色の微妙な違い、花の形の違い、向きの違いを見つけてみる。

鳩の群れの一羽一羽の個性、噴水の水がそれぞれウォータークラウンを独自に作り出す様子。

普段なら見つめないそうした差を、ぼーっとみながら、ぼんやり探してみる。

上手に身体が動かない、気持ちが動かない今だからこそ、その美しさを見つけられるかもしれないのだ。

それが何を生み出すか、という「目的」も必要ない。

そこで感じることのできた何かが、「あとから」効いてくることも多いのだ。

目的や結果を求めることなく、何かを味わってみる。

無理がきかないときは、そういうふうに自分をゆるめてみることを、是非一度、試してみてほしい。

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