カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

自分に優しくする努力

自分を痛めつけても その病は治らない

否定し続け 叱咤激励しても 治らない

あなたのその感情は 頭の働きのエラーから起こる 「ミス」でしかない

そのエラーは 今まであなたが 無理をし

なんとか がんばろうとし

なんとか その場をしのごうとして

自分の本当の 気持ちの疲れや 心のSOSに 気づかなかったから 起こったのだ

すでにあなたは 今までじゅうぶん がんばりすぎてしまったのだ

あるいは 他人や社会との関係で傷つき それでもなお 自分の力でなんとかしようとして

他人の感情は 社会の状況は 自分のものではないので どうしようもなくて

結果として 傷ついたから 起こったのだ

すでにあなたは 今までじゅうぶん 努力はしてきたのだ

そうした自分の 気持ちや身体の がんばりを 努力を

これ以上 否定する必要は 本当はないのだ

そのときのあなたは それが一番よい方法だと思い 身体や気持ちがこわれてしまうまで やったのだ

よくやったね がんばりすぎたね しばらくの間休んで 力を取り戻そうね

本当は 自分の心に 身体に そう言ってあげていいのだ

人は いつからでも どんな状態からでも やり直せる

そういう力を 秘め 備えている

でも 身体や気持ちが 疲れてしまったら

身体や心の病に倒れてしまったら その力も なかなか発揮できない

今のあなたに必要なのは これ以上 なんとかしようと 努力することではない

その努力自体を減らし 可能な限り 休むことなのだ

自然を感じたり 好きなものに触れたり 自分にとって 心地よい時間をもっと増やし

食べて 寝て 必要に応じ 病院やカウンセリングなどに通い

自分を 徹底的に 甘やかすことなのだ

新たに がんばっては いけないのだ 自分をまた 追い詰めてしまうから

どうか どうか その病を「癒す」ことだけを 今は 考えてほしい

どうにか変えようと なんとかするのではない

ただ 自分を癒し まずはその病を 治すのだ

鬱という病にかかった 今のあなたに 必要な努力があるとすれば ただひとつ

自分に優しくする 自分を叱らない ゆるやかな 自分であることをゆるす

それを心がける 努力だけである

「見つめる」と「吐く」

鬱になると、どうしても、気持ちが落ち込み、頭の中でいろいろなことを「思考」してしまう。

これまでの経緯とそこに至った理由、今後の自分、生活のこと、お金のこと、仕事のこと……。

心理的にも物理的にも動けなくなったのだから、不安が出るのは当たり前だし、

暗い気持ちしか浮かんでこないなかで、いくらいろいろ先のことを考えても、いい答えは浮かばない。

しまいには、小さかったときのイヤな思い出まで自分のなかでつなげて、

人のせいにしたり自分のせいにしたりする。

そういった「暗い思考」を重ねることで、どんどん気分は落ち込み、つらくなっていくのだ。

このとき、私たちは「理性的に考えたイヤなこと」と、それによって感じる「重い気分」の両方を味わっている。

そうして、言葉で思い浮かべる思考のほうは、どんどん展開させてしまう。

ある意味、キリがなくなってしまうのだ。

でも、それを繰り返したところでよい解決策は見つからない。

そりゃそうである。風邪を引いて熱があるときに、わざわざ、このまま熱が続いたらどうしよう、

すぐに下がらないなんて私はダメだ、と言っているのと、同じだからである。

残念ながら、熱や怪我などのように、ただ寝ていれば治る種類の病ではないので、自分で徐々に

いろいろ変えていかなくてはいけないのだが、どうしたら、そこから抜け出せるか、

特に最初はわからない人が多いだろう。私もそうだった。

自分の考えや受け止め方、などについては、これまでにもいろいろ話しているので、

今日は単純に、とにかくつらい気持ちをやりすごすための切り替え方について、話してみようと思う。

治っていく過程で、どうしても「ぶり返し」のような感情の落ち込みの波が来るので、

その波の、ひとつの乗り切り方についてだ。

先ほど「イヤなこと」という思考と、「重い気分」という2つを味わっている、と書いた。

イヤなことを考えているとき、胸の奥のほうでは本当に「どよ~ん」としたモヤのような、

黒くて重たい塊を「抱えている」ような気がすると思う。

あるいは、胸が「締め付けられたり」、「苦しくなったり」。

これって単なる比喩表現ではなく、本当に「身体感覚」に近い形で、それを感じると思う。

そして、そういう「もの」を胸の辺りに感じるからこそ、それを利用するのである。

まず、その「どよ~んとしたもの」や「苦しさ」「鈍い痛さ」だけに意識を集中してみる。

すると、ますますはっきり、「胸の奥のほうのどこか」に、黒いものがあるように感じられる。

これらは「つらい」「悲しい」「苦しい」という気持ちのサインだ。

それを「感じ」ながら、自分に「つらいものをここに抱えてるね」「私、今、つらいね」「きついなあ」って、

心の中で話しかけるのである。その「黒いもの」を、外側から見つめるような感じ。

そして胸の奥に「そういう何かがある」ということを、わざわざ言葉にして、認識するような感じだ。

この黒くて重いものを感じるがゆえに、私はつらいと自分でわかるんだよな、と。

じっくり、その重たさ、暗さ、どよ~んとした感覚を味わう。

このとき、すでに泣ける人もいるだろう。

そうしてしばらくたったら、今度はそれを、吐き出してみるのだ。

これは本当に、文字通り行為として「吐き出す」。息で、言葉で、歌声で。

頭の中で、次のようなものを映像としてイメージしよう。

息を吸うとき、そのどよ~んとした黒いもの、雲か液体か、そういった類のものを、

一緒に一部、肺の中へ吸い上げる。

で、肺いっぱいまで吸い込んだら、その黒いものが混ざった息を、ゆっくり、丁寧にふ~っと吐くのだ。

少しずつしか吐き出せないので、吸ってはゆっくり吐く、吸ってはゆっくり吐く、を繰り返す。

イメージを思い浮かべ続け、徐々に、奥のほうの黒いもやもやが減っていくことを確認する。

そういうイメージを浮かべていれば、勝手に、黒いものが減っていくのも感じられるはず。

呼吸のリズムと映像イメージだけに集中して、これを何度も、繰り返そう。

あるいは、言葉にする。黒いものを、息のときと同じように肺、さらに口の中へ移動させて、

「今、私はつらさを吐く」と言う。言うときには声に、黒いものを混ぜて吐く。

言葉で「吐き出す」(と声に出して言い、また黒いもの一緒に息を吸う)

→「吐き出す」(息を吸う)→「吐き出す」(息を吸う)というふうに、

動詞だけを繰り返してもいい。

単純すぎて飽きてきたら、今度は、歌に乗せて、空へ返してしまおう。

上へ昇らせてしまうイメージを思い浮かべるのだ。

なるべく高めの声で歌える、音階の美しい歌を選ぶ。

余計な記憶を思い出さないように、因縁の曲ではなく、昔から好きな、キレイな歌がいい。

CDがあれば一緒にかけて、曲に合わせて歌う。

美しいメロディーと歌詞で、吐く息を歌声に変え、同じく黒い気持ちを乗せるのだ。

これも、声に混ざって「黒さ」が出ていく映像イメージを思い浮かべながらやるといい。

寝ている状態であってもなるべく姿勢をよくして、腹に力が入るようにし、

鼻と頭蓋骨の中を声が通って、上方向へ響かせるような。

それが頭のてっぺんから出ていく感じだ。

慣れてくると徐々に、胸の黒いものがダイレクトに、

声とともに「頭の中を昇って」上へ抜けていく感じを、

イメージで思い浮かべることができると思う。

恥ずかしいなら小さめの声でいいけれど、きちんと歌ってほしい。

上に昇らせるのだから、高い声で歌う曲のほうが、向いているのだ。

こうやって、動作として吐き出すと、どうなるか。

本当に、気持ちが少し、落ち着いて和らぐのである。少し気分が変わり、スッキリする。

グルグルしていた思考も、息や声、イメージなどに意識を集中させることで、止めることができる。

そのためにも、「胸の中にある」ことをしっかり感じ、味わって確認してから、吐き出してみてほしい。

実際にやってみると、意外に「気持ちよく」なれることが、わかってもらえると思う。

息や声には、実は、あなどれない力があるのだ。

海に波があるように 人生にも波があり 感情にも波がある

波のない平坦な人生は 平穏かもしれないけれど 

なんの変化ももたらさず 何の進歩も起こらない

毎日が100% ほぼ完全に繰り返しで 

季節もきっちり毎年同じで 暑さも寒さも毎年 はかったように同じなら

蝉が鳴き始める日も あの花が咲く日も 咲く場所も 毎年いつも同じなら

心は動かず 意外なところに意外な花を見つける楽しみも なくなるだろう

毎年 違う 毎日 違う 毎時間 違う

そういう変化があるから ときに驚き ときに喜ぶことができる

であれば 悲しさも 苦しさも また 同じなのだ

海で起こる波が そのひとつ前の波とまったく同じようには現れず 一期一会なのと同様に

自分の人生の波も 感情の波も 本当は そのとき その年齢 その瞬間という 一期一会

でも私たちはどうしても 関連づけるのだ 「ああ 前にもあったな これ」と

関連づけるからこそ 発見があり 進歩も起こるが

関連づけるからこそ 「繰り返し」だと決め 自分の卑下にも また つなげていくのだ

一期一会の 出来事や感情は それが終われば 過ぎ去っていく

本当は 過ぎ去っていく

それを心のなかでとどめ つなげ

「連続」と認識することによって 何かを 勝手に想像し始めるのは 私たちなのだ

つらいときは つらいだろう

悲しいときは 悲しいだろう

鬱になれば そういう苦しさは 何度も やってくるだろう

だってそういう症状が出る 病なのだから

でも その波は 波であるからこそ やがて引いていく

本当は 時間が経てば 引いていく

それをとどめ 解釈し 苦しさを長引かせるのは あくまで自分の「頭の中」であることを

どうか 知ってほしいと思う

今は 苦しい自分がいるなあ 悲しい自分がいるなあ つらい自分がいるなあ

そうやって つなげもせず 理由付けもせず ただ 眺めることで

その波は また自然にひいていくものであることを

わかってもらえたら 私は うれしい

すべては自然の 摂理のひとつ なのだ

だから どうか あるがままに