カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

泣いてみたり、笑ってみたりの練習

鬱のとき、泣けない人がいる。

笑うなんて楽しいこと、私には起こらないわよ、そんな気分じゃないわよって、怒っちゃう人もいる。

でもね、脳は意外に、身体の動作によってダマされやすいから、

口角を上げているだけで、「笑っている」と勘違いするらしい(そういう実験データもあるそうだ)。

鏡を見ながら、無理矢理にでも笑顔を作り続けてみるだけでも、気分が少し明るくなるらしい。

私自身は、口角上げる実験はしてないけれど、鏡に向かって笑っていると、照れくさくなって(笑)

そのうち結局、自分で「なんじゃこれ」的に笑ってしまう。

本当はそういうふうにやるわけじゃないけれどね(^^;) でも、笑えることは確かだ。

あと、泣くのも、溜まっていた「黒いもの・暗いもの」を放出できるのだけど、

これもまた、なかなかうまく泣けなくて、暗い気持ちのままボンヤリしてしまったりする。

そういうときに、悲しい物語や映画を利用して、別の理由でいいから泣いてみるのは効くらしい。

本当は、心に溜まったオリのようなものを流すため、自分のためにきちんと泣けたり、

楽しいと感じて笑えたりできるのが一番いい。

でも、それができないこともあるのだ。病気で暗くなる症状だから。

だから、他のことで「笑う」「泣く」を練習するような感じを、取り戻してほしい。

ちょうど今日、私が読者登録している人が、ジブリの映画を観て号泣してきたそうだ。

そうそう、いいよね、こういときに、そういうふうに泣けるって、と思えた。

お笑い番組でも落語でも、何でも利用して構わない。

ただ、お笑いは逆に怒りを感じちゃったりするし(つまらなすぎて、ね(^^;))、

落語だって、話を「聞こう」と意識しないと、耳に入ってこなかったりする。

あれは一緒に情景を思い浮かべて楽しむ話芸だから、

鬱のときには、そうすることさえ面倒になる場合もあるのだ。

自分のために悲しんで涙を流すことや、自分が楽しいと思えることを存分に味うのは、

本当は、病になっていようがいまいが関係なく、とても大切なことなんだと思う。

毎日を過ごしていく、ということに彩りを与えてくれるような、そういう感じのもの。

でも、とくに鬱という病気になると人付き合いもおっくうになるし、集中力もなくなるし、自分を責めてしまうから

「泣いてる場合じゃない」とか「私には自分のことを悲しむ資格なんてない」という思いが湧く。

笑うこと、泣くことさえおこがましいような、世の中に遠慮しちゃうような、そんな感覚に陥りうるのだ。

たぶん、この病だからこそ、そうした「卑下」の感覚を払拭する必要があって、

楽しんでも、号泣しても、まったく問題ないよ、それが心には効くんだよ、って

あえて自分に言わないといけないような気もする。

やがていつか、あなたがその病から立ち直って、新たな人生を歩み始めるときのためにも、

今は、泣いたり、笑ったりを練習するつもりで、意識的にやってみてほしいと思う。

それはそのまま、あなたにきっと、ステキな治療効果をももたらしてくれるから。

何も理由がなくたって、あるいは自分が情けない、という理由であってさえ、人は、泣いていいんだよ。

心や身体がいうことを聞かない

頭のなかで考えたことに対して、実際の行動が伴わない。

鬱のときには、本当によくあることだ。

それで、イライラして、あとになって落ち込んで。

そういう「動けない」こと、「思い通りにいかないこと」も、病気ゆえの症状で、

風邪を引いて熱があるときと同じようなものなのだけれど、

そこまで身体はつらくないから、自覚できなくて、やっかいなんだよね……。

そもそも私たちは、身体のことを「部品」だと考えるところがあって、

まあ、それは西洋医学の発達によるものなんだけれど、

ふだんは、身体と心の連動なんて、あまり気にしていない。

第一、頭でわざわざ「右手よ、あそこにあるモノを取れ」とか、

「両目よ、部屋の中を見渡せ」などと、言葉で命令しなくても、

勝手に、自然に連動して、思うままに使うことができる。

怪我をしたときに初めて、自由に動かせないことを感じるくらいだ。

が、しかし。

心が痛むと、身体にはしっかりと影響が出る。

やる気が出ない、だるい、疲れる、など。

これも、普通のときにはまあ「当たり前」で、「あ~もう、いいや」なんて思っておしまいなのだが、

その感覚が大きいのが、鬱という病の症状なのだと、私には思えている。

なにかにつけて「おっくう」だと感じると、実際にはっきり、動きも鈍る。

そういう症状なのだと。

でもそんなこと、今まで経験したことがないから、頭脳、思考では違和感を感じる。

も~、ダメじゃないか! とか、自分のことを叱咤激励したくなる。

それもまた、今度は「焦り」という別の感情を産んでしまい、嫌気がさす。

そう、感情……心と身体はかなり連動していて、「頭で考えたこと」とは違う仕組みで動いているのだ。

ビックリして心臓がどきどきするのも、自分が考えて命令したことではないように。

ふだんは頭、思考が優勢だから、気づかないだけのことだ。

そういう自分の「仕組み」を、もっと知ってあげてもいいんじゃないかと思う。

いつもいつも「思考」を優先していると、

きちんと立派につとめを果たさなきゃ、と無理したりとか、

ダメな自分を卑下してしまうとか、

そんなことを延々、繰り返してしまう。

そういうことばかり、毎日、ことあるごとに繰り返して考えると、気持ちは、萎えるよね。

つまり感情には、いい影響を与えない。心が、思うようには動かせない。

となると、結局、身体も言うことを聞かなくなっていくのだ。

難しいこと、言ってるかな?

自分を責め続ける人は、自分を「思考」で制御しようとしている。

でも、思考と感情が別ものであり、感情と身体が大きく連動しているなら、

思考でいくら自分をコントロールしようと思ったって、無理があるのだ。

「あ~、イヤだ」と思ったら、その感情は即、身体に影響するってこと。

不眠傾向になるのも、どこか、一部にはそういう影響があるんじゃないかと思う。

不安が「危機的な感じ」と身体に判断されるがために、眠りが浅くなるとか、ね。

……だからさ。いいことないでしょ、頭で自分を無理させて、何とかしようとしてみても。

鬱という病は自分を責めるという症状があるのだから、

そうした頭からの「命令」を少しでも休めていかない限り、

結局いつまでたっても、心は、明るくならないんだよ。

これって思い切り、自分の実感からの話なんだけど、そう思えるのだ。

だから、心地いいことをして、罪悪感を感じたら「だって病気だし」と割り切って

考えないようにしてほしい、と思えるのだ。

確かに、難しいけれど。難しくても、その病、治したいんだったら……さ。

「やるべきこと」の受け止め方

悪いときには悪いことが起こる、とよく言われる。

その一方で、禍福はあざなえる縄のごとし、とも言う。

長い時間が経ってみれば、それを経験した意味、それによって学んだことなども

振り返って見つめ直すことができるが、渦中にあるときは、

ある意味、それどころではない。

そして、心が痛んでいるときは、自分のことも周囲のことも、

なかなか楽観視することはできない。

以前なら「だいじょうぶ」と思えたことが、今は「ダメかもしれない」になったりするのだ。

さて。そうした状態もまた、鬱という病の症状のひとつではあるが、

実際になんとかしなくちゃいけない場合は、するしかない。

どんな気持ちであっても、やらなくてはいけない、という事実は変わらないときがあるのだ。

であれば、こう考えてみるのはどうだろうか。

私は今日、今、これをどこまでできるのかな。どんなふうにできるかな。

義務ではなく、そういうひとつの「自分を知る機会」として捉えるのだ。

心が痛んだ状態でそれをイヤイヤやったら、達成感も湧かないし、疲れるだけだ。

しかも症状として暗い気分になりやすいうえに、作業効率も落ちるだろう。

であれば、自分を少し遠くからみて、

「今日の私は、これをどのように、どこまでできるだろう」と観察するほうが、マシなのである。

自分を無理矢理だまして、あるいは奮い立たせて、ウキウキワクワクさせろ、とまで言っているのでもない。

そんなのは無理だ。もしかして中には、それが可能だという希有な人がいるかもしれないけれど(^^;)、

普通はまず、途中で「バカらしい」と思って冷めてしまうだろう。

なので、「こういう機会ができた。自分を観察してみよう」でいい。

それは実際、あなたの状態を知るチャンスではあるのだしね。

効率が悪いことも、途中で疲れてしまうことも、すべて、「観察」対象だ。

ああ、私は今、こういう状態になるんだな、とわかれば、

もしかして次は、他のやり方をやってみようと思えるかもしれない。

失敗も、ある程度は感情的になりすぎず、分析できるかもしれないのだ。

ものごとを、明るく捉えるも暗く捉えるもあなた次第。

そう言われて「わかってるよ! そんなこと」と反発したくなることを知っているからこそ、

よくも悪くも捉えない、ただの「観察」をしてみてほしい、と思える。

もしその作業を達成できなければ、今日、どこかに閉じ込められて、

ご飯を食べさせてもらえず、眠ることさえ許されない……という人は、まず、いないと思う

(万が一、そんな状態になっているなら、本気で助けを求めよう。

それはあなたをいじめているのだ、明らかに)。

わざわざ善悪の判断をつける必要のない、そうした見方、受け止め方を、

機会があったときに、少しだけでも試してもらえたらと思う。