「やるべきこと」の受け止め方

悪いときには悪いことが起こる、とよく言われる。

その一方で、禍福はあざなえる縄のごとし、とも言う。

長い時間が経ってみれば、それを経験した意味、それによって学んだことなども

振り返って見つめ直すことができるが、渦中にあるときは、

ある意味、それどころではない。

そして、心が痛んでいるときは、自分のことも周囲のことも、

なかなか楽観視することはできない。

以前なら「だいじょうぶ」と思えたことが、今は「ダメかもしれない」になったりするのだ。

さて。そうした状態もまた、鬱という病の症状のひとつではあるが、

実際になんとかしなくちゃいけない場合は、するしかない。

どんな気持ちであっても、やらなくてはいけない、という事実は変わらないときがあるのだ。

であれば、こう考えてみるのはどうだろうか。

私は今日、今、これをどこまでできるのかな。どんなふうにできるかな。

義務ではなく、そういうひとつの「自分を知る機会」として捉えるのだ。

心が痛んだ状態でそれをイヤイヤやったら、達成感も湧かないし、疲れるだけだ。

しかも症状として暗い気分になりやすいうえに、作業効率も落ちるだろう。

であれば、自分を少し遠くからみて、

「今日の私は、これをどのように、どこまでできるだろう」と観察するほうが、マシなのである。

自分を無理矢理だまして、あるいは奮い立たせて、ウキウキワクワクさせろ、とまで言っているのでもない。

そんなのは無理だ。もしかして中には、それが可能だという希有な人がいるかもしれないけれど(^^;)、

普通はまず、途中で「バカらしい」と思って冷めてしまうだろう。

なので、「こういう機会ができた。自分を観察してみよう」でいい。

それは実際、あなたの状態を知るチャンスではあるのだしね。

効率が悪いことも、途中で疲れてしまうことも、すべて、「観察」対象だ。

ああ、私は今、こういう状態になるんだな、とわかれば、

もしかして次は、他のやり方をやってみようと思えるかもしれない。

失敗も、ある程度は感情的になりすぎず、分析できるかもしれないのだ。

ものごとを、明るく捉えるも暗く捉えるもあなた次第。

そう言われて「わかってるよ! そんなこと」と反発したくなることを知っているからこそ、

よくも悪くも捉えない、ただの「観察」をしてみてほしい、と思える。

もしその作業を達成できなければ、今日、どこかに閉じ込められて、

ご飯を食べさせてもらえず、眠ることさえ許されない……という人は、まず、いないと思う

(万が一、そんな状態になっているなら、本気で助けを求めよう。

それはあなたをいじめているのだ、明らかに)。

わざわざ善悪の判断をつける必要のない、そうした見方、受け止め方を、

機会があったときに、少しだけでも試してもらえたらと思う。

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