カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

話をする場所……のこと

これは、私のブログを読んでくださっている皆さまへのお知らせ、というかご相談……になります。

私はこれまで、「人に話を聞いてもらうことで、自分の中の答えに気づくことがある」と何度も書いてきました。

それは、私自身が実際、カウンセリングや傾聴の会などに参加して実感したことでした。

ですから、病院などに所属されているカウンセラーさんや、プロのカウンセラーとして独立されている方、

その他、ご自分でホームページなどをご覧になってピンと来られた方に対し、

その人が逆に、まったくの「他人である」からこそ、話してみてください、とお伝えしてきました。

とはいえ、金銭的、場所的(遠いなど)、時間的などの都合から難しかったり、

あるいは今、まったく外に出られる気分でない方などもいらっしゃると思います。

であれば、「話を『知らない人』に聞いてもらう体験」ができる場所、というのは必要でしょうか?

たとえば私が時間を提供し、インターネット電話(テレビ電話にもできる)のSkypeなど

通信機能を使って、ボランティアとして「ただ聞く」ということに、ご興味を持たれるでしょうか?

私は仕事のうえで、インタビュアーとして、初対面の人の話を聞く練習は多少、積んで参りましたが、

心理学的なことは初歩の初歩しか存じません。

それゆえ、もし、何かを解決するために「相談されたい」のであれば、決して適役ではないでしょう。

ご自分の気持ちを探り、何らかの解決へと導びいていきうるカウンセリングの手法はさまざまにあり、

それこそコーチングから自己啓発、宗教学的な会、心理学的なアプローチまで、

お好みに応じて選べるでしょう。

ですから、そういった「職業的プロの方」のような寄り添い方ではなく、

ただ、あなたの今、抱えていらっしゃるつらい気持ちを「吐き出す」窓口として、

淡々と、側に寄り添うような形になると思います。

とくに突っ込んだ問いかけもしません。批判も非難も主張も、私からは一切、いたしません

(会話としての問いかけをいただいた場合、必要であればほんの少し、感じたことを

お伝えすることもあり得るとは思いますが……本来、それをする場ではないように感じています)。

基本的には傾聴の手法により、私はただ、話を静かにお聞きすることになります。

私でいいのか、また、この形がよいのかどうか、実際、私にもまだ、わかりません。

ただ、このブログを続けてきて、皆さまがそれぞれに痛みを抱えていらっしゃることを知り、

私でも、話をする場所になりうるのだろうか……と、考えるようになった次第です。

もちろん、怪しい壺を売りつけたりもしませんが(笑)、

そういう場所が必要とされているかどうか、私自身には判断ができないため、

このような形で、ご連絡いたします。

具体的には、メッセージなどでやりとりして日時の都合を調整させていただき、

1時間ほどを目安に、話をお聞きする形になるかと思います。

現在は土日か、平日でも夜でしたら、私も時間の都合がつけやすい状況です。

この場で、コメントとして、必要性の有無をお尋ねするつもりはなく、

一応、このような形で、私のようなものでも何かお役に立てるなら、

やってみますので、ご連絡ください……ということで。

ちなみに、Skype(スカイプ)というのは、無料で世界中に電話(テレビ電話)ができる通信ソフトです。

ソフトをダウンロードしていただいて(これも無料です)、Amebaのときのように

利用登録していただきます(ユーザーネームやメールアドレスなど、必要事項はさほど多くありません。

また、お互いの情報が相手に漏れることもありません。電話番号代わりに登録名と

ユーザーネームを知らせ合うだけです。居住地域などもわかりません)。

機器としてマイクと、場合によってはWebカメラの準備が必要です。USBポートなどにつないで

セッティングしていただければ、ソフトのほうがそれを勝手に判断して、使用できるようになるはずです。

パソコン経由で無料電話ができる、と思ってくだされば、イメージしやすいかと思います。

手順も、必要に応じてお伝えします。

電話ですと料金もかかりますので、基本的にはSkypeで、と考えております。

また、顔を見ないと安心して話せない方もいらっしゃるかとは思いますので、

ご希望があれば、お互いにWebカメラを使用して、画面越しに会って会話するような形を

取らせていただきます。ご連絡をくださる皆さまのことを、私も信用いたします、ということで。

Skype使用という段階ですでに、敷居が高いと感じられる方もいらっしゃるかとは存じますが、

マイクの購入だけであれば少なくとも電話料金よりは安く、

また、一度セッティングしてしまえば、その後、身内やご友人などとの間でもご利用になれます。

個人情報の守秘、という観点からも、ご安心いただけるかと感じた次第です。

もし、これを読んで、私でもお役に立てそうであれば、メッセージにてご連絡ください。

ちなみに本日、土曜の夜は所用のため、時間が取れません。

どんなに早くても5日の日曜、あるいは月曜日の夜以降になるかと思います。

「効果」を期待されると、それこそ期待はずれになるかもしれませんが、

本当にただ、何か「きっかけ」になれば、という思いから、とりあえず、お知らせさせていただきます。

必要な方に、必要な形で、私がお役に立てますようにm(_ _)m

意志の力と成果

鬱のときに、がんばって「鬱という病を治そう」と思うと、かなり大変である。

「自分の責任」だと思って、自分で自分を追い詰め、病にまで進んだのに、

そこからさらに「結果」を求めるべく、自分を奮い立たせなくてはいけない。

たいていの場合は途中で燃料切れになって大きく揺れ戻り、さらに自分を苦しめる結果になるだろう。

だが、「治す!」という戦いのような思いで鬱に臨んだ人で、私は1人だけ、成功例を知っている。

その人の場合、専業主婦で夫婦ともに年金暮らし、子どもは独立済み、という状況であったから、

「社会的責任」は確かに、条件として薄かったとは言える。

でも、すごいと思ったのは、その「頑張り方」だ。

何をどう頑張ったか。徹底して「悩むのをやめた」のである。

つらい気持ちが出てきても「ああ、もう悩んだって仕方ない。ヤメヤメ」と、

その瞬間、考えるのをやめる……ということを、何ヵ月も続けた。

やるべき家事はただ淡々と、「作業」のようにこなし、気持ちが晴れそうな、好きなことをした。

園芸をし、ラジオやCDを聞き、好きなテレビ番組を観て、小旅行もして、

たまに音楽のコンサートに行ったり、気の置けない友人とお茶をしたり。

その女性の悩みは「他人の言動」に由来するものだったから、

私が悩んでも仕方ない、と割り切りやすかったではあろう。

でも、「人生、思い通りにはいかないものだ」という発想、

「こんなときは楽しもう」と思える切り替え方をしていた、という話を聞くと、

ある意味、「そのときの現状を受け容れた」とも思える。 周囲をなんとか変えようとしたのではないのだ。

「問題点と思えることが今はそのままであること」を、ゆるしたのだ、と。

この方は、小さいときに戦後の混乱期を経験している。

当時、父親が亡くなり、母親がどんなに頑張っても食べものが少なく、家族みんながひもじい思いをした。

子どもながらに家計を支えるため、今で言う「アルバイト」をせざるを得なかったらしい。

「なぜ?」などと思ってしまったら、子どもだから、よけいにつらくなっていただろう。

そういった「考えても仕方ない、現状を受けとめ、認めるしかない」状況を、

小学生のときすでに、経験したのだ。

そのとき実際、彼女は、自分が頑張るしかなかった。

将来が、とか、「結果」云々ではない。この先どうなろうとも、

現状でもうとりあえず、そうするしかなかったそうだ。

そういう経験をした人だからこそ、割り切れたのかな、とも感じた。

○○という結果や成果を残すため、将来のため、ではなく、今、目の前のことを、できる範囲でとりあえず。

そうやって生きていくことで「いずれは変化が起こって、いいこともやってくる」と、肌で知っていたのかな、と。

これを知ったのは、私が「死」という枠から逃れた後だった。

だから「悩むのをやめるよう頑張る」ということが、どれほどすごいことであるか、よくわかった。

鬱になるほど悩んでいるのに、そこから脱したい、という気持ちだけで、そんな決意ができるなんて。

それを意識的に実行するには、まず、現状をそのまま受け容れるしかない。

現状の自分を、周囲を「もう仕方ない」と割り切り、「気にしない」「悪く考えない」ようにするしかないのだ。

そういう意志の力の使い方もあるんだ、と思った。

「鬱から脱する」という成果を彼女は求め、そのために「現状をあるがまま」にしたのだ。

そこから改めて出発することを、選んだのだ。

私が知っている、唯一の「頑張って鬱から脱した人」は、そういう発想ができる人、である。

何か、参考になれば幸いだ。

ごめんなさい、と思うなら

鬱になると、とにかく自分の責任だと思える「悲しいこと」がたくさん増える。

現実の生活でちゃんと動けなかったり、ケアレスミスをしたり、うっかり忘れたりするし、

過去の思い出に至ってはそれこそいっぱい、「自分がダメだったときのこと」を思い出し、

本当は自分のせいではなかったことまで自分が悪かったように思えて、

心の中でたくさんの「ごめんなさい」を繰り返すことになる。

そう、本当に「ごめんなさい」を延々、連発し続ける日々になるのだ。

これはもう病の症状だから、ある意味、仕方ないことではある。

風邪のときに咳や鼻水が止まらないのと同じことだけれど、

実際、そのとき気持ちは本当につらくなるよね……。

なのでこのようなサイクルに陥ったら、ちょっとだけ試してほしいことがある。

傷つけた相手にせよ、自分が反省すべき失敗にせよ、起こった出来事にせよ、

それらすべてに“一応”でいいから、感謝の気持ちをくっつけてみてほしいのだ。

やり方としては「ありがとう」を、「ごめんなさい」のあとに続けるだけでいい。

そもそも、そこであなたが体験したこと、あなたが感じたことは、

すべて何か「理由があって」「相手があって」行ったことの結果だ。

その、人や出来事、仕事などは、あなたが望んで、あるいは流れのなかで

たまたま巡り合った、ご縁のあるものである。

そのなかで、あなたは、確かに「いやな思い」「悲しい思い」をしたのだが、

それって実は「うまくいかないやり方」「うまくいかない感じ方・考え方」をひとつ、発見したということ。

あなたにとって喜ばしい方向ではなかったが、「これは良くないな」という学びをひとつ、得たということである。

であれば、そういう機会を得たことには、ちょっと、感謝できるのである。

だって次はそうならないよう気をつけられるし、

もし同じように失敗したとしても、あ、あのときと同じだ……というように感じ取ることはできて、

だんだん「あなたにとってミスだと思えること」は減らしていけるのだ(わざわざカギカッコつきでこう書くのは、

それが本当にあなたのミスかどうか、わからないからだ。逆に、他人に気を遣いすぎている、とか、

仕事を一生懸命やりすぎている、などという別の部分の間違いには、

もしかしてまだ、気づいていないかもしれない。でも今は、そんなことまで気にしなくていい)。

なので、その人自身が憎いかどうかとか、出来事そのもののつらさとは別に、

学びを得たことに対し、ちょっとだけでもいいから感謝して「ありがとう」をくっつけるのだ。

「○○さん、あのときのことはごめんなさい。ありがとう」

「△△だったこと、ごめんなさい。ありがとう」

そうやって「ごめんなさい」が思い浮かぶごとに、「ありがとう」をくっつけてみてほしい。

自分がいかに多くの人と関わり、多くの出来事を通じて、いろいろなことを学んできたのか。

痛い経験ではあったけど、そういうご縁が自分にあったんだな、ということだけは、

つらいながらも実感できると思う。

多かれ少なかれ、人は何かを経験し、感じ、学びながら生きている。

その数、その経験の重さ、その大切さ(そう思えることに関しては、ね)を、

「ありがとう」をくっつけることで、感じてみてほしい。

そうやって自分自身が、日々、いろいろなご縁で生きているのだ、ということを

この機会にぜひ、知ってみてほしいと思う。

仏教とかそういう教え的な話ではなく、本当に、ただ、目の前の現実のこととして、ね。