カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

自分のなかのいろいろな自分

鬱になって動けないときは、いろいろな気持ちが表れてくる。

この状態で、何をどうしていけというのか。

こんな自分のまま過ごして、ときを待つのもイヤだ。

でも実は、どんな変化が来るのかわからなくて怖い。

つらい状況のときには、そういう相反する気持ちが交互に、

または同時に表れてきて、自分で本当に、どうしていいかわからないだろう。

気持ちがグラグラ揺れ動き、定まらないこと自体は、

病の症状として 捉えていい。

そもそも、自分が何か「しまった」と思うようなことをしたら、

普通、一瞬でも動揺する。

その揺れ幅が大きくて長いのだ。

そういうことが、起こっているだけのことだ。

でも、経験したことのない幅と長さだから、つらい。

その深いつらさもまた、初めて体験するものかもしれない。

起こっている出来事、あなたの状況を、

外から見れば、そういう感じなのだ。

たまたま、深い経験をする時期が来た、ということだ。

これまで知らなかったつらさ、知らなかった重さだから、

不安感が起こるのもまた、当たり前なのである。

あなただけがそうなっているわけではない。

その病にかかった人は皆、大きく揺れ動き、自分を責める。

ただ、そういう自分が、いるんだと。

初めての重さに打ちひしがれ、揺れ動く自分がいることを、

まずは素直に認めてほしい。

病の症状を何もかもすべて自分のせいにするのは、

不自然であることはわかるだろう。

自分を責めたところで、症状が軽くなるわけではないのである。

今まで知らなかった自分を知った。

そこからどうはい上がっていくのか、

その過程もまた、未知の新しい経験になるだろう。

すべては、自分の側面の一部分であり、

ダメなあなたが100%、この先延々続くわけではないのだ。

病になるほど自分で自分を追い詰めるチカラが

すでにあなたにはあったのだから、

そこから変わっていくチカラもまた、すでに備わっている。

いろいろな自分をひとつずつ、見つける経験なのだ。

だから自分を責め続ける必要も、本当はないのである。

それでも暗くなるときに

何かがあって、あるいは何もなくても、自分がうまくいってない、ダメだ、と落ち込むことがある。

鬱病じゃない人だって、日常生活の中で凹むことがあるから、それは別に「普通」のことなのだけど、

鬱の病は「切り替えができない、できにくい」脳になっているから、

どんどん、下向きのスパイラルにはまり込んだりもしてしまう。

そうだよね、つらいよね。

うん、つらい。

それはもう、本当に、身にしみて知ってる。つらいよ。

そういう「落ち込む」サイクルに陥ってしまったときに、私がどうしていたか。

半強制的に思考をストップさせるべく、何かをして切り替えたのである。

たとえば、落ち込んでいるそのつらい気持ちを、つたない絵に表してみる。

情景を書いてもいいし、抽象画でも、色だけでも、なんでもいい。

鉛筆や色鉛筆など、芯が柔らかいもののほうが、なぜか私は描きやすかった。

言葉として、紙に書いてみるのもあり。

何かそうやって、自分に淡々と「作業」させてみる。

あるいは音楽が聴ける状態なら、好きな音楽をかけ、耳をすます。

ただ、音の流れを感じてみる。声の美しさを、感じてみる。

身を委ねるように。

あまり食べていない人なら、まずは白米でもパンでも、単品でいいから、とにかく少し食べる。

味も感じにくいだろうから、薄味のままでいい。

ものを食べると単純に、身体が温まる。それは血液の流れを良くするから、脳にも優しいってことだ。

テーブルゲームが好きなら、あえて1人でオセロや将棋を、コンピュータ相手でなく、

本当にテーブルの上で、盤面でやる。自分が相手役をやって、双方を動かすのだ。

理系の人なら、簡単な100マス計算もいいかもしれない。

クロスワードパズルは頭が働きにくいので、あまりお勧めしない。

さらには、単純にシャワーを浴びる。

その際、湯船に栓をして、シャワーのお湯をためながらつかるといい。

ボーッと、首、肩、背中にお湯をかけ続ける。温度を変えたりしながら、遊びのように。

あくまで「凝らない」こと(できないとまた、落ち込む原因になるのでレベルを低くする)、

シンプルであることが大切。集中できないのだから、難しいことはやらない。

そんなことしたって、またどうせ、落ち込みは始まるよ、と思うかもしれない。

でも、落ち込み続ける時間が少しでも短くできるなら、それでいいじゃない。

だから何か「結果」「成果」を求める必要がない作業をするのだ。

絵だって簡単でいいし、100マス計算だって、別に間違えていい。

落ち込み続けてスパイラルに暗くなっていくより、小間切れにしたほうがましじゃない?

答えが出せる脳、じゃないってことでしょ、その状態って。

出てくるのは「ダメだ」以外、ないんだよ? そういう「症状」が強く現れているときに、

あえて何か、素晴らしい変化を自力で起こすのは、至難のワザでしょう?

咳がひどいときに、咳を我慢すると、あるいはずっと咳をし続けたら、何か、いい結果になるかしら。

咳そのものにアプローチするのでなく、ノドの炎症のをゆるめるなど、別の方法をとるよね?

それって「症状」なんだよ。そのことを理解しないと、いつまでたっても自分を責めちゃう。

心の病だからこそ起こる、心に現れる症状。咳や鼻水と、同じ種類のもの。

だから、気分転換するのだ。

咳をし続けると炎症がひどくなることがあるように、

暗い気持ちのスパイラルをどんどん深く掘り下げていけば、

ますますひどくなるときもある(これはもう、私も何度も経験した)。

自分をいじめて楽しくなれるはずないじゃない。自虐が楽しいのなんて、その一瞬だけだよ。

自分に優しくしてあげて、いいからね。

すぐには変われなくても、責めなくていいからね。

ずっと後になって、今のその状態を自分で振り返ったとき、また何か、感じとることができる。

今のその「症状」は、学びとなりうる、ひとつの「経験」だから。

最悪の場合は、寝たっていいよ。投げやりな気分で寝るのって、イヤかもしれないけど、

自分を思考でいじめるよりは、よっぽど心と脳と身体に優しいから。

暗いときは「ああ、今は気持ち、暗いんだな……。やれやれ」って、思っていいからね。

それ以上、自分で自分を追い詰めても、それこそ「意味がない」からね。

ぜひ意識的に、「強制切り替え」していってください。

「考え」の通り道

鬱、という病については、それこそたくさんの専門家の方が本などで解説してくださっている。

だから、私が経験した「感覚」的なことや、本を読んで捉えたことを、今日は少し書いてみたい。

鬱のまっただ中……といっても私の場合は「死ねなくなってから」だけど、

ずっと、自分が谷底にいるような気がしていた。

どこに行けば上がれるのか、まったくわからなくて、ただ毎日、うろうろしているような感じ。

あるいは濁った沼にいる魚。見通しの悪い、黄土色の水の中で、

空気を求めてずっと口をぱくぱくさせてて。

上からは日光が一応、届いてはいるけれど、周囲が見えないがゆえに動けなくて、ジッとしている……。

なんかね、そういう「縛られているわけじゃないけど、

よくわからなくてガツガツ動けない感じ」を持っていた。

そしていろいろな本を読むうちに思ったのだけれど、

どうやら何を考えても、思考が煮詰まっちゃう方向にしかいかない、

暗い方向にしか進まない「脳」になっちゃってるんだな、と。

脳の中には、たくさんの電気信号がやりとりされていて、何か感じたり、考えたりするたびに、

脳のあちこちで電気信号が走っているらしい。

医学的には「シナプス」と呼ばれる、枝分かれした道がたくさんある、と。

つまり、頭の中には縦横無尽に道が通っていて、たまたま隣の通路に、なんらかのきっかけで

ひょいっとつながったりもするそうだ(そしてそれがひらめき、と呼ばれる類のものにもなるらしい)。

で、そうやって考えはいろいろな道を通るのだけれど、どうも今は、

暗い結論が待ち構えているところに「どうしても辿り着いちゃう」らしい。

そしてそれが、「鬱」という病の特長であると、思えたのだ。

自分では、普通に考えている……別にその部分は、さほど変わってないと思えているんだけれど、

脳の道が、いつもと違っちゃっているのだ。

そもそも、鬱じゃないときだって、落ち込んだ気分のときには、いつもより元気がなくなるし、

普段なら「やりたい」と積極的に思えることでも、乗り気じゃなくなったりする。

暗い思いがすぐ、心の中によみがえったりね。

そういうとき今までなら、ある程度その状態を味わった段階で「もう考えるの、ヤメだ、ヤメ!」って

自分を鼓舞したり、たまたま聞いた音楽にふと癒されたりして、気持ちが切り替わる。

が、鬱のときには、その「切り替え」が起こらないのだ。

自分で鼓舞することも、当然できないし、ね。

その点がもう「脳のせいで」違っちゃっていることを、自分では気づけない。

そりゃそうだ、自分の中の「思い」はずっとつながって続いているし、

脳が勝手に「暗い方向」へ考えを導いているなんて、自分には見えないし、感じられないのだから。

でも、それが「鬱」という病なんだと。

自分で自分の体調の悪さや怪我の状態を感じられない(確認できない)だけに、やっかいなんだと。

あくまでそれは「病気」であって、あなたが「そういうふうになってしまった」わけではない。

脳の中の“喜びを感じる”らしい物質、ドーパミンだって、分泌量が減っている。

私は通院中、主にこの「ドーパミンなどを増やす」らしい薬を飲んでいた。

前にも書いたけど、人の身体は「その仕組み」(の、しかも一部)しかわかっていないから、

ドーパミンが減ったのはなぜか、という部分は、科学的に解明できてない。

単純に、鬱になるとドーパミンが減る、なら、そのドーパミンを増やせばいいのではいいのではないか、

というようなところから、薬が生まれていくのだ。

今は、なんらかの原因により、気持ちを前向きにすることができにくい脳みそになっている。

そして考えが、勝手にそういう「暗い道」を通る状態になっている。

たとえばドーパミンは、これまたイメージなんだけど、言ってしまえば「気持ちや考えの、道端の応援団」なのだ。

あなたの気持ちや考えが、脳の道を走っていく。

その道端には通常、あなたのよく知っている、親しい友人の応援団グループがいくつもいて、

走っていくあなたの気持ちや考えを「がんばれ~!」と、応援してくれる。

応援してもらったら、うれしいよね。ちょっと「がんばるか」って思えて、パワーを注入してもらえるよね。

で、いつもならたくさん点在してくれている、その応援団が、「病気」のせいでずっと減っているのだ。

そりゃあ、いつもよりつらくなっちゃうよ。

残念ながら鬱は、「ちょっと気持ちが良好になってきたな」とか、「上向きになってこれたかな」くらいの

感覚的な部分でしか、自分の病の状態を把握することはできない。

それがやっかいであることも、私自身、わかってはいる。

でも、応援団が減ってしまう病気であることを「自覚」しないと、自分で自分を責め続けるだけである。

気分の上がり下がりによって、またすぐに、ぶれてしまう。

風邪を引いたことをどんなに後悔したって、風邪が治るわけではない。

「どうして風邪引いたんだ!」って責めたって、治るわけがない。

だって、病、なんだもの。

確かに鬱は、外から入ってきた病原菌が原因ではない。

あるいははっきりと「骨が折れました」とわかるような怪我でもない。

でも、それでも「病気」なのだ。それ以外の何ものでもない。

その病の治療方法は、専門家の方に尋ねたほうがいいだろう。自分に合う方法も、きっと見つけられるはずだ。

でも、風邪のウイルスを直接攻撃する薬がないように(風邪の治療薬はすべて、症状を楽にしたり

他の菌に感染しないようにすることで、さらなる体調の悪化を防ぎ、身体が菌と戦って勝ってくれるまで

体力を持続するためのものでしかない)、あなたの気持ち、考え方の通り道を、

明るい方向へ直接、導くように治していける薬もない。

せいぜい一時的に、応援団を増やしてくれたりするだけだ。

だから、あまりいろいろ考えるのは、今のあなたには本当に向いていない。

そのことをまずしっかり、自覚してもらえたら、と思う。