カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

しがみつくのをやめていく

あなたの心が今、苦しいのは、「過去と比べた」自分を今、並べて見ているからだ。

よかったことも、悪かったこともあるだろう。

後悔、恨み、痛み、悲しみ、そうした点を思い返しつつ、

その一方で良かった点も、できていたこと、よい状態だったことを懐かしみながら、今と比較している。

良かった点については、そういう気持ちになれたこと、そういう経験ができたことを、喜んでいい。

ただし「今との比較」は意味がない。

過去は、もう戻らないから。

悪かった点については、それこそ、思い出を変えることはできない。

どちらも、視点をそこに固定している限り、あなたはそれに「執着している」ことになる。

イヤだったことを忘れたい、と思うのなら、それこそ、他のことを考えるしかない。

イヤだった、イヤだった、イヤだった、とこれから先も唱え続けて、それでいつか、そこから抜け出せるだろうか?

同様にできていたこと、良かったことも、

あのときはよかった、よかった、よかった、と思い続ければ、また元に戻るだろうか?

いいのだ、もう。いずれにせよ、あなたはそれを経験した。

それを経験したことによって、今がある。

確かにつながってはいるけれど、止まっているわけではない。

変化は起こったし、これからも、変わっていくのだ。

どちらにも「しがみつく」のは、もうやめよう。

良かったことに対しては、その時間、その出来事、その相手に、心から感謝して、

悪かったことにはお詫びの気持ちを真剣に思い浮かべて(相手がいようと、自分自身に対してだろうとね)、

どちらも「手放す」ということを、意識していこう。

あなたのこれからは、「過去」には存在しない。

今、また初めて、明日に向けての変化への一歩を踏み出すこともできる。

苦しい人、あなたが見つめるべきは「今から先」なのだ。

そこから抜け出せるかどうかは、「今から先」のあなたが選べる。

絶対に無理、ということはありえない。

心がどんなに揺れようとも、たとえ振り子のように進んだり戻ったりしようとも、

同じ状態にとどまることはない。

あなたが「変えたい」と思えば、たとえ0.1mmずつでも、変化を起こしながら、進んでいけるのだ。

そんなことが本当に誰でもできるのか? なぜそう言い切れるのか?

それは、昨日が、今日と同じではないから。明日が、今日とは同じではないからだ。

あなたは決して、その苦しみに「閉じ込められている」わけではない。

あなたが「見ないようにしている」だけ、あなたが自分でわざわざ足元の一点だけを見つめ、

そこにとどまることを、選択しているのだ。疲れているから。

だから、何度でも言う。

疲れていることを自覚しているのだから、今は休もう。

脳が作動ミスを起こし、死か生か、その一点しか見つめられない状態へ、あなたを追い込んでいる。

少しでも、別のところを見つめられるようになるまで、「休み」を取ろう。

休みを十分とって、頭が少し、別のことを考えられるようになってから。

「変化」を少しずつ、認めていこう。

自分で反省したい点は、反省すればいい。

でも、「取り戻せないもの」を悔やみ続けるのは、もうやめよう。

結果がそうなるとは知らずにやってしまったことも多いだろう。

であれば、知らなかった自分を責めても、ある意味、仕方ないのだ。

今からなら、自分をまた、変えていける。

まったく同じ道には戻れないかもしれない。

けれど、逆に言えば、戻らなくてもいい。それはもう、過去に経験したのだから。

新しいことを、新しい生き方を、新しい視点を、「これから」また、知っていっていいのだ。

それはきっと、あなたの人生をより深め、彩りも豊かにしてくれるはずだから。

よいことも、悪いことも、両方、しがみつかなくていい。

怖がらなくてもいい。わざわざ苦しみ続けた挙げ句に「死」を選ぶ必要もない。

ただ素直に感謝して、十分に悲しみを味わったことを感じたら、徐々に手放していこう。

少なくとも今は、そうできることを知っているだけでもいいのだ。

話すことによる視点変換

昨日、友達といろいろ話したことで改めて実感したのが、自分の気持ちを正直に話すことの「効果」だった。

そこでいきなり、解決策が見つかるとは限らない。「こんなことで苦労している」とか

「自分でいまだに納得できない」といったような、単なる経過報告であっても、

自分自身で恥じている点、困っている点、納得できないで自問自答している点などを

正直に話してみると、それだけで「毒」が少し抜けたようになる。気持ちも身体も軽くなるのだ、単純に。

ただしこのとき、ひとつのポイントがあるように感じる。

それは、話すことによって何かメリットを得ようとしないことだ。

心理学の本にあったのだが、自分のことを知ってもらうことで「場の中心になりたい」「同情をひきたい」

という気持ちが隠れていると、「悲劇の主人公」を自分で楽しんでいる、ということになる。

そうなると、その問題を根本解決することは難しくなるし、

同情をひくことによって目立ちたい」という意識がひどくなると、

自作自演で事件を引き起こしてしまうことにもつながるそうだ。

子どもが事故に遭った母親、実は虐待……などという痛ましい出来事がそれである。

そうではなく、自分で「情けない」と思うこと、こんなことを話してはあきれられてしまうんじゃないかと

不安に感じること、そういった「恥」の部分を、思い切って話すのだ。勇気はすごく必要だけれどね。

話してみると、途中で「どうして私はこだわってるんだろう」という新たな疑問が出てきたり、

「なんだ、結局はこういうことかも」といった、別の視点がみつかる。

ときには「結構、たいしたことのない問題なのかも」と、思えたりもする。

たぶん説明するために、自動的にちょっと離れた目で、その問題をみつめられるのだと思う。

勝手に「少し客観視」できるのだ。

もちろん、それを聞いて「ダメじゃない!」と説教をするような人は、話相手に選ばないでほしい。

「人生、自分ではどうしようもないことってあるよね」と、その内容がどんなものであれ、

淡々と受けとめてくれる人。そういう相手を選んでほしい。

私自身、今でも日々、いろいろなことが起こり、そのたびに考えたり、喜んだり落ち込んだりする。

そうした出来事のなかで、自分自身「引っかかってしまう」ことが出てきたときに、

気の置けない友人に話を聞いてもらっている。

同様に、信頼できるカウンセラーさんにも、自分の気持ちが「暴露」できて、ホッとしたことがある。

そうやって少しずつでも、心の「オリ」を取り除いたり、視点を変えていけることによって、

やがて「転換点」も現れてくるのだろうと、私には感じられる。

これだけは何度も実感してきたので確信を持って言えるが、

どうしたらいいのか、その新たな道は、本当にちゃんと「自分の中に準備」されている。

ただ、今は埋もれていて見つけられないだけなのだ。

人に思い切って話すという行為は、それを「納得できる形」で登場させるための、

一種の整理、掘り出し、道筋つけなんだろう。

相手に聞いてもらえるのであれば、ときに同じ内容を繰り返したって構わない。

前とは違う視点が見つかるかもしれない。

ぜひ、上手に活用していってほしいと思う。

謙遜のし過ぎは、ときに卑下となる

自分のことを謙遜しやすい人は、基本的に「受け取りベタ」であるように思う。

自分に対するほめ言葉や評価を、上手に受け取れていない部分があるのではないだろうか。

「このレベルならできて当たり前」だとか、「たいしたことはない」とか。

受け取りベタな人はまた、自分の越えるべきハードルを高くしていくのが好きなことも多いのではないかと思う。

例えば80点を取っても、それは「普通」であり、なぜ100点にできなかったかを考えてしまう。

自分で自分を高めようとするあまり、責めるのである。

自分に厳しい、という気持ちは大切だが、それゆえに「できなくなった」ときの落ち込みは相当なものになる。

どんどん、自分に「ハイレベル」を刷り込んでいってしまった後だから。

逆に、もともと自分に自信がない人の場合は、自分ではなくて周囲の人が「できて当たり前」を

望んでいたことも多いのではないだろうか、と思う。

たとえば「なぜ後の20点を間違えたの! ダメじゃない!」と、否定されてしまうとか、ね。

そう、親から、先輩から、先生から、上司から。

そうやって、できない自分をまた同様に「刷り込んで」いってしまう結果、

受け取り下手になるのだろう。

何をほめられても「たまたま」であり、「どうせ私なんて」が根底にあり続けるように感じる。

謙遜、は確かに日本では美徳だし、「俺が俺が」の人よりは、人間関係も円滑にいきやすいと思う。

誰か、学者さんが言っていたのだが、海外に留学した日本人の研究生は場になじむのがうまく、

空気を和らげるキャラになるのだという。自己主張が強い欧米や中国の留学生に比べると、

「いつもニコニコとそこにたたずんでくれている」ような状態になっているのだと。

そうした点から考えると、謙遜にはよい面も多いのだろうと思う。

しかし度を過ぎると、自分にとっては結局、マイナスの面も増えてくる。

だから今、できない自分を責めて、「ダメだダメだ」と思い続けるより、

ちょっとでも「できる」ことを自分に「認めてあげる」ほうが、

少なくとも鬱という状態のときには、効き目があると思う。

私は、たぶん、そういう練習もしてきたように感じる。

今まで、自分の評価を自分で低くし過ぎてはいなかったか。

このことに少しでも思い当たる人は、自分が何を目標としてきたか、どんな自分じゃないと「ダメ」だと

思ってきたかを、もう一度考えてみてもいいのではないだろうか。

そして、周囲の人から言われた「ほめ言葉」の意味を、もう一度、考え直してみてもいいと思う。

「天狗」な気持ちも、確かに後々、つらいことが起こりやすいだろうけれど、

ひどい「卑下」もあきらかに、自分を「痛めつける」要素にはなりうるのだ。

これからはぜひ、だんだんと「受け取り上手」になっていってほしいと思う。