カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

食べる、ということ(1)

鬱になったときに、私が一番、自分自身でつらく感じたのは、

ご飯を三食、きちんと食べることができなくなった、ということだった。

今となっては「行き過ぎた価値観」であることがわかっているのだが、

実家の母親が「三食きちんと食べるべき」というしつけをしてくれる人だったため、

それができない=よくない、という考えに陥ったのだ。

身体を保つために、朝・昼・夜のご飯もしっかり食べる、というのは、

胃腸の調子が悪い人をのぞけば、決して悪いことではない。

母は、私の健康のためにそのようにしてくれたのだし、

それは普通ならとてもありがたい話なのだ。

過度に捉えて罪悪感を感じたのは私の勝手な都合。鬱ってやはり、ヘンな病気だなと思う。

唯一、「~ねばならない」というくくりから抜け出せたところは、感謝しているけれどね。

また、江戸時代は一日二食だった、とか、食べるサイクルについていろいろな説はあるけれど、

その時代は概して短命だったことを考えれば(もちろん医療技術も関係してはいるが)、

栄養価的な面も含めてバランスよく、ほどよく食べること自体は、健康を保つことになる。

ただ、実際には過食の人を除き、お腹があまり空かないだろう。

思考能力が低下し、身体を動かすのも億劫なので、単純にエネルギーの消費量が減る。

しかも、家族が食事を作ってくれるのであればまだしも、家庭の主婦やひとり暮らしなど、

自分で食事を用意しなくちゃいけないとなると、段取りと手順を考えて料理をするという行為が

たいへんしづらくなるために、さらに食べることが億劫になるのだ。

主婦の方は、だから余計に罪悪感を持たれてしまうだろうと思う。

が、しかし。

人の身体は、食べたものからつくられる。逆の言い方をすれば、食べたものからしか、身体はつくられない。

呼吸は活動のためのエネルギー源として必要だが、それ以外はすべて、

口からものを食べ、新しい細胞とエネルギーと栄養を得ることによって保たれていくのだ。

人の身体のなかで、中枢神経と脳を除いた部分では、細胞の入れ替わりが行われている。

諸説あるが、骨まで含めて7年~10年以内には、細胞はすべて新しくなるそうだ。

再生しないとされる中枢神経と脳神経についても、大脳だけは再生している可能性がある、とか、

細胞の源となる「幹細胞」なら、損傷した場合などにそこから再生できるかもしれない、など、

いろいろな研究が進んでいて、ときどき新聞等で、その実験結果が紹介されている。

今日、食べたものが、明日以降のあなたの身体の一部となり、また、身体を保つエネルギー源として働くのである。

そういう意味で言えば、食べることがいかに「人体」にとって大切か、よくわかると思う。

単純に考えてもたかだか65年前、戦争があった当時は、「飢え」や「餓死」が起こっていた。

昭和の初めごろはまだ、地域によっては「飢饉」に近い事態も起こっていたらしい。

お金を出せば全国、さらには世界中の食材を自由に手に入れられるようになった今の「飽食」は、

本当に最近の話なのだ。ましてや「ダイエット」なんて、飢えの時代には発想すら消えていただろう。

こうしていろいろ考えてみても、身体を保つためには今、とてもよい環境になっている。

だからといって、無理矢理食べろという話ではない(あ、でも、「いただきます」くらいの感謝はしてほしいかな)。

ただ、食べて身体を保つことは結局、「脳」を保つことにつながる、と言いたいのである。

あなたは、今、苦しい。それには、脳の働きも大いに関係している。

もちろん、精神的な問題が、食べることですべて解決するわけではないけれど、

「よい状態」にしていくことは、必ず、あなたの回復には役立つのである。

以前に少しだけ「医食同源」について触れたが、食べることは一種の治療行為だ。

だから少量でもいいから、よい形での「食」を保てるよう意識してもらえれば、と思う。

その、つらい場所から抜け出すための一助として、利用してほしいのだ。

食べものと身体、そして気持ちの具体的な関係については、また明日以降に。

自分を、痛めつけるのを、やめる

……正直、難しいテーマなので、一気に語れる話だとは思わないけど、書いてみる。

死にたくなるときって、もうどうしようもなく、自分のことが情けなくて、嫌いだ。

こんな自分を、認めたくなくて、でもどうしていいか、まったくわからなくて。

誰かのせいでそうなったとしても、やっぱり、自分が自分を嫌ってしまうことには、変わりないと思う。

つらい。痛い。苦しい。本当に、どう言っていいかわからないくらい、つらいよね。

何かの本で、「自分をギリギリと痛めつける」という表現があったけど、

まさに「ギリギリ」って、音をたてて締め付けるかのように、自分を絞って、固めていっちゃうような感じで。

そこで泣ければまだ少しましだけど、泣けないことさえある。

泣いたって、ほんの少し、ゆるむだけかもしれない(ゆるむだけ、マシだけど)。

とにかく、もう、イヤなのだ、全部。

すべてがイヤで、納得いかなくて、苦しい。

そんな状態のときに何をしろと言うのだ、と思われるかもしれないけど。

単純に、それを考えるのを、やめてほしいのだ。

他人からの攻撃は、その人の気が済めば、あるいは物理的に部屋を出るとか、距離を置けば、終わる。

でも、自分で自分を攻撃し始めると、それこそ終わりがない。

24時間、いつでも、どこでも、いつまででも、やっちゃう。だって、自分の中で起こすことだから。

でもね、それをしたら、何か、変わるかな。

何か、そんな自分を変える、いい方法が見つかるかな。

見つからないよね。だから、自分を消し去りたくなるんだよね。

消すことしか、解決策は、見つからなくなっちゃう。

でも、本当はイヤでしょう?

そんな究極の解決策、とりたくないよね、本当は。

あのね、とらなくていいんだよ。

「消すこと」しか見つからないんじゃない。

今は、自分で自分を追い詰めてるから、それしか「見えなく」なってるのだ。

そして、それしかない、なんてことは、ありえないから。絶対に、ウソだから、それ。

宗教ではよく、自死したら地獄へ行きますよ、とか、

蓮の花に250年閉じ込められて、反省しなくちゃいけませんよ、とか、

そういう「死んだあとについて」怖い話をするけれど、

死んだあと云々以前に、自分が死んでまで、訴えなくちゃいけないことなんてないのだ。

訴える? そう、たぶんある意味、訴えてるのだ。

最終的な手段で、「わかって!!」って。

なんとかしてほしい、苦しい、助けて、なんとかして、変えて、って。

うん。苦しいよ。確かにつらいよね。

じゃあ、自分で自分を追い詰めるのを、まず、やめようよ。

死んでまで苦しまなくちゃいけないほど、あなたは、ひどいこと、してないからさ。

今、この先のことがまったく思いつかないのは、「今、自分で自分を追い詰めてる」からこそ。

本当に、自分で自分を、どんどん苦しい方向に追いやってるから、この先のことも解決方法も、思いつかない。

もし、どうしていけばいいかを思いついたら、死ななくていいでしょう?

思いついても絶対に、100%、死ななくちゃいけないような罪を、あなたは背負ってる?

何か、究極のいけないことをした?

たぶん、してないと思う。「自分」という人を殺していいほど、いけないことは。

解決策、そこからの脱出方法を思いつかないから、自死するんじゃない。

自死したくなるほど自分を追い詰めてるから、思いつかないんだよ、そこからの脱出方法を。

順番、間違ってる。

じゃあどうすればいいか?

まずは、休んでください、物理的に。

本当に、単純に、食べて、温かくして寝て、起きて、食べて、寝て。

動物がケガを治すときのように、なんにも考えずに、過ごす。

どうしても働かなくちゃいけない状態で、実際に働いてる人も、できるだけ淡々と。

正直なところ、感覚・感情を動かさないでいいくらいのつもりで働いてほしい。

自分を責めるようなことが思い浮かんだら、別のことを考える。別の動作に、単純に切り替えてみる。

深呼吸して、その「息を吐く、吸う」を、この前に書いた瞑想のようにただ、みつめてみるのでもいいし、

音楽を聞くのでもいいし、マンガを読んだり、洗濯してもいい。お茶を飲む、窓を開けて空気を入れ換える。

どんな方法でもいいから、別のことに没頭する、頭を、そこから無理矢理、引きはがす。

そして「考えないですむ時間」を少しずつ、長くしていこう。

つらい気持ちを、風化させるのだ。

これは、死にたいところから抜け出せた後も、しばらくは同じだと思う。

自己反省はそれこそ、脳の動きが正常になってからしか、できないからさ。

病院で薬剤をもらって服用するのも、人によって効果の出方は違うから、良し悪し、両方の面があると思う。

頼りすぎないほうがいい。補助だと思っておこう(実際に、補助の役目しか果たせない)。

あとは、誰かに話すこと。なるべく正直に話して言葉を受け止めてくれる人を、見つけること。

職業的にはカウンセラーってことになるけど、カウンセリングは相性があるから、

ネットで探してみて、何人かにあたってみるといいと思う。

話すだけで、変わっていく。本当に、変わっていく。

家族や友人に頼らなくても、自力で、そうやって誰かに話すことはできる。

できれば、説教や指導をしない人を選ぼう。あなたの気づきは、あなたのなかから生まれてくる。

ヒントはくれても、自力で気づけるようにサポートしてくれる人を探そう。

変えたいなら、まずはそこから、変えてみようよ。

私は5年かかったけど、そうやって「自分で自分を痛めつける回路」の罠から、抜け出した。

それ以外にも、何か方法がありそうなら、ぜひ、試してみてほしい。

あ、ヘンなドラッグとか、教祖様をあがめたてまつる系の新興宗教など、

自分の外にあるものに「頼りっぱなし」になるのは、のちのち、また自分を痛めつけるよ。

結局、同じ結果になる。少なくともそれに手を出すのは、今じゃない。

死ぬほど苦しい

破壊と再生

気持ちは毎日、揺れ動く。

昨日は少し明るかったのに、今日はもうだめだ。

でも明日には少し、忘れられるかもしれない。

これは、同じところを回っているようでいて、実はそうではない。

ほんの少しずつでも、耐性と変化が、現れている証拠である。

そうでなければ、心は、動くことがないからだ。

できれば、上へ上がっていきたいと、願うだろう。

なのに横にニョロニョロ、回転しながら伸びていくように思えたり、

あるいは下へグルグル、回って落ちていくようにも思えるだろう。

でも、そもそも自然のものは、そういうふうにできている。

水は横にも下にも広がって流れ、ときには勢いよく上にも流れる。

それでも、そのままの姿でとどまることはなく、やがて水蒸気となって空に昇っていく。

昇った水蒸気は、やがて雨となり、また新たな場所へ落下する。

植物は、芽を出した瞬間から、伸びていく。

地上の部分だけではなく、地下の部分でも。

下へ、横へ、上へ、全方向で、広がっていく。

生まれたての野生動物は、最初の生存に必要な日数分だけ、母や父に頼りながら、

やがて、自分だけでエサを探し、その探し方、移動の技術も学んで、独立していく。

行動範囲は、自分の身体が大きくなるに従い、必要な分だけ、広がっていく。

そこには天敵との戦いもあり、自分のパートナーを探す努力も加わっていく。

そして命をまっとうするまで、生きる。

昆虫は、場合によっては変態まで行う。

自分の身体をいったん、繭のなかで溶かし、新たに作り替えていく。

その次の姿は、大きな羽を持っていたり、固い殻を持っていたりする。

そしてやはり、世界へ飛び出していく。

私たちの身体も、勝手に細胞や腸内細菌が入れ替わり、成長、破壊と再生を続ける。

髪や爪は伸び、皮膚は徐々に表皮に向かって押し出されていく。

排泄する便のうち80%は水分で、残りの20%は、その1/3が食べもののカス、1/3が腸内細菌とその死骸、

最後の1/3が古くなった腸粘膜などの細胞であるという。

(全薬工業HPより  http://www.zenyaku.co.jp/k-1ban/file/cyonai/page02.html

食べたもののカスの量と同じくらい、腸内細菌や細胞は毎回、入れ替わっていくのだ。

変化していくこと、破壊されたあとに再生が起こることは、自然の摂理。

新しい家は、更地をつくり、整備してから建てたほうが、しっかり建つだろう。

思考もまた、グルグルしているようで、変化を続ける。

ただし、悪い将来予想を続けていても、それはたぶんモグラのように、地下を掘り進めるだけである。

よい将来予想でさえも、地下に思いを張りめぐらせ、土台をしっかりさせる必要がある。

穴ぼこだらけのゆるゆるの土地では、しっかりとした土台はできないのだ。

たとえそこに、家ではなく植物を植えて、育てるとしても、途中でモグラの穴をまた開けたら、

植物は倒れてしまうだろう。

すべては変わっていくものであることを、まず理解する。

本当に止まってしまっているときには、思考も停止している。

外界の刺激や変化を自分の心に入れる、つまり「感じる」ことができなくなるからだ。

その経験をされた方も、きっとたくさんいらっしゃるだろうと思う。

私が以前「薄暗いトンネルの、二択の出口」と書いたような、あの、どん詰まりの状態である。

だから思考が動くのであれば、それが上か下であるかは気にしないでいい。

考えていると気分が悪くなることだけ、単純に「やめる」のだ。

脳はまともじゃないし、心は痛んでしまっているから、いっぺんに前向きにはなれないだろう。

今、やりたいこと、今日、やりたいこと。可能であればこれから先の数ヵ月で、やりたいこと。

眠る、ご飯を食べる、本を読む、でもいいし、外出したい、散歩に行きたい、でもいい。

誰も卑下せず、誰も傷つけず、陥れる必要のない「やりたいこと」だけを、探ってみる。

そうしているうちに、ある日突然、自分に薄日が差していたことに、気づくときがくるのだ。

人によっては、一気に「直射日光」かもしれないくらい、フッと気づきが訪れる。

二歩進んで三歩下がる日もあれば、五歩、十歩進める日もあるかもしれない。

何より、暗い方向の思考を意識的に繰り返さないことで、その揺れ幅、振り幅は、

ときが経つにつれ、勝手に、徐々に狭まっていくのだ。

破壊があったら再生していくのが、この「見える世界」の摂理だから。

これは、再休職までした私の実感でもある。

そうなってまた「ふりだし」に戻ったようであっても、実は、違っていたのだ。

と言っても、かなり後になってからしか、そのことに気づけなかったのだけれど。

最初の休職のときはグルングルン、再休職のときにはグルグル。

揺れる輪っかの大きさが、違っていた。

ある日いきなり、思い切り叩き折られて複雑骨折した私でさえも、そう感じられたのだから、

たぶん、ゆっくりと変化の過程をたどってきた方ならもっと、いろいろと違いを感じ取れるはずだと思う。

イヤな気持ちは、何度でもわく。これでもか、というくらいに、暗かったり、重かったりする感情がやってくる。

でも、それを何度でも、丁寧に脇へ置いていこう。単純にストップさせて、違うことを考えよう。

無理矢理「忘れる」のではなく(そんなことは、それこそ無理だ)、

「ん、やめる。大丈夫。今は思いつかないけど」と思って、横へよけてしまうのだ。

そうした練習をしていくことで、心には「耐性」もついていくだろう。

自分の「大丈夫」と思える範囲を、ゆっくり自然に、広げていけるのだ。

それを「する」かどうか。

破壊ののちの、再生と変化を受け容れる、と選択するかどうかだけが、

あなた次第なのだろうと、今の私には思える。