カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

自分を責めても楽しくない→ならば やめる

何かができるようになったら

何かのきっかけさえあれば

自分を責めるのをやめられるのに

 

えーと

確かに そんな機会に巡りあえたら

ラッキーだよ

ごくたまに そういう方法も

使える場合は あるかもしれない

 

ごく たまに ね

 

たいていの場合 その 

いつ巡りあえるかわからない機会に向かって

延々 努力を続けていくうちに

止まってしまったり するよね

 

だってすでに相当 自分を責めてきて

エネルギーが枯渇気味だから

すぐにエネルギー切れを起こして

ストップしたり 

元の場所に転がっていっちゃったりするんだけど?

(あ つまりね

それが坂道で大石 転がして

頂上へ持っていくような努力だった場合 

休んでるときも石を支える力が必要だから

支え切れなければ

当然 元のところへ転がっていくよ という話)

 

あのさ 

得て 初めて 自己批判をやめられる

そんな まれな巡りあわせの方法以外にね

 

単純に やめる

 

っていう方法もあるんだけれど

なぜそっちは 採用しないのかな

 

そんなに自分を立派にしなきゃ 気がすまない?

それはなぜ? 

なぜ達成や立派さにこだわらなくちゃいけないの?

それは何から来た信念? 

なぜそんなことを当たり前だと思ってるの?

そうじゃなきゃ 何があなたを困らせるの?

 

バカにされるのは 

あなたが立派じゃないからでなくて

他人をバカにするような

『自己の未解決問題』を抱えた相手とばかり付き合って

パワーバランスゲームばかり 争ってきたからじゃないの?

 

あるいはあなたが パワーバランスゲームにばかり

注目してきたからこそ じゃないの?

 

自分を責めたら 楽しくないよね

だったら止めなよ それだけだよ

責め続けなきゃ堕落するとか

マゾヒストかよ?

 

責めるのは やめたくない

ゆるめることはあっても根本的にはやめない

けれど うまくいかせたい?

 

つまりは何か 他人に言い訳できそうな理由を作らなくちゃって?

 

自己を責めるのをやめるために

言い訳できるものを作る努力 するのじゃなく

きっかけに巡りあう機会を 待つのでもなく

 

情けない自分を そのままで

いたわる練習を始めるほうが

よほど効果的なんだけれど?

自分にまで言い訳できなきゃ 

何かいけない理由でもあるわけ?

 

楽しくないことは やめる

自分をバカにする採点 

その練習ばっかり積むことも含めてね

 

やらない という選択するだけだよ

そこに立派な大義名分つけなきゃとか

何か 成功さえすれば とか

もう見栄張るの 本気でやめなよ……苦しいのなら

 

苦しいからこそ 先に 責めること自体を やめる

別にそれでもいいんだよ

こっちを本気で練習したことないのに

それではダメとか 決めつけんなよ 

知ってるやり方しかイヤとか? お子さまなの?

 

傷ついた人に 静かに寄り添えたり 見守れたり

相手の力を信じてあげられる 大人になりなよ

 

そして 見守る 寄り添う その練習のときには 当然 

自分の存在も含めるんだよ 傷ついた自分で練習可能なんだよ

 

それをダメとか決めつけている 原因のほうを 先に知りなよ……

 

2016_04_13_2

Photo by Hans
Pixabay

 

「恨み」の考察、真夜中の追加説明

先に書いた記事の、説明、勝手に追加いたします。

「ラクして他者より優位」、

周囲に「わかりやすく」幸せなところを見せ付けたい、の部分ね。

 

そうやって自分の価値を誇示したいのかな。

そうやって誇示できなきゃ「負けてる」とか?

 

え、ラクしてない、と思ってる?

そりゃ、相手に、どうやって

こちらを幸せに感じさせるような努力を「やらせるか」は

工夫してるかもしれないけれどさ。

「自分を幸せにする」という部分では、何も責任を取ってないよ。

 

たとえば。

自分が幸せを感じられそうなこと、その行動を

相手にやらせるために指示する(懇願という命令的なヤツも使う)。

 

あとは、相手のやったこと、その採点への意識集中だよね。

相手の言動を評価して、気に入らなきゃ文句つけて。

あ、「態度」にも文句つけるかな。

私を幸せな気持ちにする態度、とってないじゃない! とか。

 

それなのに、というかそれに加え、自分のほうのことは

あなたの言う通り、望む通り、やったのに! などとも言う。

 

つまりは相手のやったことも、自分のやったことも、

相手のせい、相手の責任にしてるよね。

どちらの場面でも、その瞬間、その時点ですでに、

自分を幸せにするための手法を自分では考えも実践もせず

相手に丸投げしてる、

で、うまくやってくれない、望み通りの反応をしてくれない場合は批判しまくり。

それが今の段階の感情、つまり「恨み」だよね。

 

ね、恨んでる間って、自分の分の「自己を幸せにする」責任、

相手に丸投げでラクしてるでしょ。

少しは意味、通じたかな?

 

今回、毒舌的な書き方をしてみたくなった理由は、

私自身もわからない。

でも、指示して他者にやらせて「その結果を、結局のところ、見て」

あれこれ言う、というシチュエーションって

仕事で言えばクライアントさん側とか、上司の立場だよね。

 

あなたはつまり、お客様で、相手に何かを支払って、という契約をしたいの?

そうじゃなきゃ、相手よりエライ? 

あなたと相手との関係はそんなふうに「上か下」しかないわけ? 

とは、感じていたんだよね。

 

以上、夜中に目が覚めてさらに追加して、ゴメンね。

 

2016_04_12

 

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

「恨み」という感情、今日の私の考察

誰かを延々、恨んでいるとき。

そこで自分が選択していることは

私は「自己の幸せの実現」という責任を、

あなたにまるまる放り投げて

全部「やらせたかった」のに、

なぜあなたは、それをやらなかったのよ!

という、相手への責任追及である。

 

自分を幸せにするという責任を、自分では負わず、

相手に、あなたの勝手で丸投げしておきながら、

「それを受け止めて実行しなかったなんて!!」と言っている状態。

 

え? まだ表現が難しい? じゃあ、これならどうかな。

私は○○において、幸せな気分を感じたい
(○○は仕事でも恋愛でも、何でもいいよ)

→でも、自分で自分を幸せにする、という責務ってたいへんそうに感じるから、
そんな面倒は相手に丸投げして、相手に全部「やらせ」たかった

→相手はそれを引き受けなかった

→なぜ私の分の責任を、あなたは負わなかったのよ!

って、文句を言い続けている状態。

 

つまりは他人任せ、自分の責任を、自分で負いたくないの、今も。

自分の、その「逃げ」の部分を見たくないから、

あいつのせいにしちゃえばいい! って、やっている。

 

親子の間で、家族の間で、彼氏彼女の間で、

上司と部下、先輩と後輩、友達同士……。

そのバリエーションやシチュエーションは、さまざまあるだろうね。

 

そうなのよ。

恨みを続けていられる間は、自分で自分の責任、取らなくていいの。

 

そして一見、似たものに思える『憎しみ』という感情と『恨み』は、

ともに、他者のせい、という共通項はあっても、

その『自分で自分を幸せにする責任』の部分で、

方向性が全然、違うな、と感じる。

 

憎しみは、「壊されたもの」への執着(という表現をあえて使うね、ごめん)と、

「壊した責任を持つ」と感じられる他者への怒りだから。

幸せの自己責任、という部分において、

毛色がはっきり違うように思えるのだ。

 

ま、両方を混ぜている人も、いるだろうけれど。

 

恨みという感情ってね、間違いなく、

あなたが逃げている部分、あるのよ。

これを読んでかなり腹が立つ人もいると思うけれど、

じゃあ、あなたはなぜ自分で自分を幸せにしないの? って尋ねるわ。

 

そこに明確に答えられる人は、どうぞコメントで説明してくださいな。

どんなに相手がひどいか、または自分が恵まれていなくて不幸か、等は

延々と語れるだろうけれど、

なぜ自分で自分のことを幸せにしようとはしないの? 

という質問に、「そうしない理由」をガンガン述べられる人って、

まずそんなにいないと、私は思う。

 

本当に自分の幸せの責任を、自分で負うつもりなら

自分がイヤだと思う対象に対して延々と、

自己のエネルギーと時間を使うことのバカバカしさ

(しかもそのエネルギーも時間も「真っ黒」ゆえ、自分が疲れるしね)に

気づいていくから、やがて「恨む」行為自体を、もう忘れようとするし、

実際、徐々に忘れられる。

 

「そんなことに自分を使うくらいなら、

他のことに意識を向けよう、自分のために」って思えるもの。

 

それができない、というのなら、

そもそもあなたが、その人と関わっているときに

相手の力を「使って」自分を幸せに「させよう」と、

もくろんでいたってことだよ。

 

心理学の専門用語を使うなら、これを依存、とも呼ぶのだろうけれど、

今日の私としては(ごめん、別に意地悪で言ってるわけじゃなくて

はっきり書きたい気分なだけ)、

「ああ、つまりは、自分で自分を幸せにするなんて、

『他人の幸せっぷりに負ける』ようでいやだから、

自分の分の責任は全部、他人に丸投げして、

自分は責任負わずに、ラクして他者より『優位に立ちたい』のよね」

と表現したいわ。

 

ということで、今日の私が言いたいことは、書けたように思う。

あとはあなたの自由なので、あなたにお任せするけれど、

こういうことを、こういう書き方するの、私も初めてなので、

最後に、もう一度、聞いてくね。

 

あなたは、

なぜ自分で、自分のことを幸せにしようとはしないの?

 

その勇気と覚悟は、どんな状況からでも、いつからでも、

出して&持っていい、と私には思えるよ。

 

P.S そろそろ私自身も『幸せになる勇気』を読む時期になったのだろうな、

この文章が自分の内側から出るってことは……、と、ふと思う。

「依存」は幸い、ないけれど、

なにがしかの「逃げ」、いや「避け」は、あったか……? うん、あるな(笑)(^_^;)

 

2016_04_11

Photo by Wil Stewart
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