カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

追伸とも言える元の方の文章と『自分』と

夜中、日付が変わった頃にアップした、一つ前の記事。

カエル姉さんの鋭い言葉は、

どうやらHappyちゃんのところから

出てきた文章のまとめであったようで。

 

Happyちゃんは、自分の体験として、

あの内容を書いているので、

もう少しわかりやすいかな、と思って

そちらもリンクしてみます。

 

ついでに、私が感じていたことは

自分を知らないまま、他人にばっかり合わせてみたり

自分の望みを表面でだけ捉えていたら、

「それさえできれば」「それさえ実現すれば」

と、自分の感覚を失ったまま、

もしかしたら本当には望んでいないものを

追いかけるハメに陥るのかも、と。

 

自分でもイマイチ、本音の部分ではわかってないことを

きっとこう、みたいな思い込みだけで他人に認めてもらおうとしたって、

その都度、そのときの都合で

自分でも適当な感覚で、説明を間に合わせるしかなくて、

でも、それだとよくわからないまま、不安から動かされ

マイナスにならないように、なんてやっちゃうから

毎回、自分の軸はブレブレになる。

 

そして自分のことが見えていないまま、

他者の深い気持ちについて感じ取ろうとしても、それって

直観力がかなりバシッと働いたときくらいじゃないと難しい。

自分軸がブレているときって、バシッとはなりにくいから、

となると、他人の思惑の深いところもやっぱり、

なかなかつかみづらいかもな……とも感じる。

 

それこそ、誰かに受け入れてほしいなら

自分がまず、自分を全部、受け入れていくしか

ないんだと思う(少しずつでも、そういう意識になっていくってこと)。

 

自分のことでイヤだな、と思う部分も含めて、

なぜイヤだと感じるのか、さらにはそれって、

自分にとって本当にイヤ、という方向しか選べないことなのか、まで、

できれば掘り下げて。

 

そういうことをほぼ無視して手抜きして、

自分とは折り合いをつけないまま、

他者に対してばかり、折り合いつけようとしても、

「私はこういうことを感じるから、

何々を望んでいます」っていう、

自分の本当の気持ちは、ていねいに伝えられない。

 

ものすごく、もったいないよね。

自分の内側のことで、

いちばんの理解者になれる、

わかってあげられるのは、自分なのに。

 

Happyちゃんのこの文章が、

何かしら、気づきとなりますように。

◎Happy さん
「自分の心を生きる第45歩~大好きな帝国の創り方~」
http://amba.to/1SJW5nF

 

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Photo by ivabalk
Pixabay

 

その強い否定も『信じる力』だよ

こんな自分なんて、信じられない! というとき。

その自分の『信じないことを決める感覚』を、

あなたは信じ切れている(しかもその否定的見解には、

自身の妄想的断定もかなり入っているのだけれど、そこは今回、割愛)。

だからこそ、否定する! と決められている。

その感覚が頼りなければ、断言なんてできないからね。

 

そして、あいつがひどい! 悪い! と言うとき。

まったく同じように、

あなたはそう感じる自分の感覚を、信用し切っている。

 

私のほうが『良い、正しい』という感覚が

先に

あるからこそ、相手が間違ってる、と断言できる。

 

その感覚が先に立つからこそ、次に頭の中でも、

私とあなたは違う人間なのだね、ということより

私のこと(意見)を認めなさいよ!

という考えのほうが優先となり、それが「正しい」、

イコールあなたが間違ってる! と叫ぶことができる。

 

どちらの考えがより、心地よい結果を生むか、

あるいは双方が心地よく着地できる地点を

話し合ってみない? という寄り添い、折り合いは、

少なくとも他者を糾弾するその瞬間、

そこには、存在していない。

 

否定すれば、否定が還ってくる確率、

上がるのに、それでも許せないんだよね。

あ、もちろんそういうときがあることもわかるし、

それはそれでいいのだと思う。

『そうじゃないのに!』という気持ちは、

自分に必要なことを学ぶ機会、そのサインとして使えるからね。

 

ただ、もし、自分は否定を投げつけても、

他人は常に、自分へ承認や尊敬を還せっていう感じが多いなら

そりゃ単なるワガママに受け止められることも、覚悟しなきゃね。

でないと、あなたは神様ですか? あなただけが世界のルール? 

ってことになっちゃう。

 

ま、いずれにしても。

あなたはちゃんと、自分の感覚を、大切にできているよ。

大切にして、自分の感覚、それこそどっぷり、信じ切ってるってことだよ。

今はあなたが、常に「否定的見解、否定の感覚」だけのほうを

必ず信じることにしているだけ。

 

否定の感覚って、どうしてもそこに「誤解」や「独りよがり」や

「自分だけが可愛い」を(多少の差はあれ)結構な確率で、含むのだ。

あと、他人へ偽善を示すことで、つまり言い方が悪いけれど

不幸な、と思える他者を利用することで、

自分のことを認めようとする、

あるいは周りから認められようとする感じとかもね。

そういう危ういものも、ときにいろいろ、含んでいたりするのよ。

 

なのに、あなたは、その感覚だけは、信じ切れるんだね?

 

ならば、その『信じ切れる力』を、

「自分にとって温かく感じられるもの」のほうへ、

たとえ他者から同じものが還ってこなかったとしても、

自分自身のために使ってみない?

 

「温かいと感じられること」のほうを、

これで、いいのだ、

と、信じる練習、してみませんか?

 

実際、私もやっている真っ最中だけど、たとえば、

他人の悪意を、自分の内側にわざわざ取り込まなくても済むように

なりつつあります。

悪意を放ちたい自由、は無理して止めないけれど、

それを自分は受け止めないという自由も、まったく同様に尊重する、

そんな練習にまで、つながったりする。

 

へえ、あなたはそう感じるのですね。

たまたまなんですが、私はそれ、温かく感じられないので、

従い(付き合い)ません。

 

以上。

 

反発したいという感覚は、上記のような自分勝手さや自己の妄想も含み得るし、

しかもそれをすると自分が後々、引きずって面倒くさいから、

受け入れない、受け取らない、のほうを選択する。

 

ある意味、無視するわけだから、冷たい(笑)

要らないものは要らない。

その感覚を、自分が、大切にする。

 

認めてよ! のアピールも、必要でない。

なぜなら、温かいものを出すとき、

届く人には勝手に届くから(そしてお互いの自由を尊重しているからこそ、

そう受け止めてくれたという事実が、宝石のようにキラキラと

こちらへ『勝手に』届けられることになる。有り難い……)

 

私が心地よく感じたくて、私が勝手に出すのだから、

それを受け取るかどうかもまた、相手の勝手、相手の自由なの。

受け取りなさいよ! なんてやったら、それこそ偽善だわ。

 

ねえ。

すでにあなたも、自分自身の感覚、信じられているのだから、

違う方向、温かい方向へも、

その感覚を使ってみる勇気、よかったら、出してみない? あなたのために。

 

心が温かくなる、が、感覚としてイマイチわからなければ、

うれしくなる、光る、明るくなる、ホッとする、心地よさを感じる、

表現は何でも、つかみやすいものでいいよ。

自分が、そう感じるために(相手にそう思ってもらうためにでなく、

一人のときも、あるいは自分に対しても)出していって、

自身でたくさん、味わってみない?

 

今、生きているということは、すなわち、

あなたがそれを選んでみてもいいことを、ゆるされているってことだから

(だからこの世に誕生したんだよ、それを味わっていいから)、

他者からもらおうとするだけでなく、

自分から、自分のために、発してみない?

否定ばっかり、見つめるのでなくて、さ。

 

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Photo by PetraBlahoutova
Pixabay

 

「何も持っていない自分」が持っているもの

心屋さん絡みで、ステキな話がいくつか、私のなかでつながったので、

今日はそれをシェアしていきます。

 

まず、自分にとって無駄な方向に無理をしても、虚勢を張っても、

結局それは『無駄』にしかならんのだよ、という、諭し(さとし)の言葉。

 

◎心屋仁之助さん Facebook記事。

 

で、これを読んだあと、

たまたま、心屋さんの仲良しさんの、過去のFacebook記事に出会いまして。

上記のように言える心屋さんが、できていった原点。

自分のいちばんダメな部分を、大切にしてあげる、

それが「あることを認めてゆるしてあげる」、

『自分の欠点の見つめ方』そのものを、ひっくり返すという勇気。

 

◎本田晃一さんFacebook記事

 

そして。

だからってそんなの、具体的にどうすればいいのよ!

という人に向けて、実践された方の例を。

 

この方の場合はたまたま、旦那さんがきっかけで、

自分を見つめ直すことが始まっていきました。

 

ちなみに、この3人めの方の記事は、

「この人は私と違って結婚できているから」

とか

「この旦那さんは、たまたま、いい奥さんに恵まれたから」

とか、

そういう『無いものねだり』だけの視点で読んだら、

まったく別の姿になってしまう。

 

この人たちのように、

夫がいない代わりに、

優しい妻がいない代わりに、

あなたが得ている、すでに持っているものがあるからこそ、

今、あなたはそのように「生きていられている」。

それはどんなに、今の自分を卑下してみても、

間違いなく、そうなのです。

 

たまたま、というレベルで言えば、

たまたま、この女性は「自分の旦那さんが鬱になって、

この先どうなるかもわからなくて、

不安のど真ん中に、家族の『せい』で放り込まれた人

(しかもそれは、血のつながっていない夫)」なわけです。

そんな苦しい条件が、この方の前に突然、出揃った。

 

私がわざわざ、ここで例に出すのは、

もしあなたが、この人の立場だったら、

『不安の中にいる、その今の自分』が、

今の状況をどう捉え、どう対処しますか?

と問いかけたいから。

 

そして自分を見捨てないこと、他者との関わりも、

否定だけで終わらせないことを選んだ結果、

こういうことも『起こりうる』と伝えたいのです。

 

結局は、自分から、なのよ。

底辺であろうとも、自分の持っているものを、

できる形で味わい尽くす覚悟を『決めていい』。

他者を責め、不安だけを見つめていく代わりに、

自分が自分を大切にするために、見つめる方向を変える。

 

苦しい「現実の中」ででも、

苦しい「現実の中」だからこそ、

できることがある、という一例だと思えます。

 

だからこそ、『捉え方を変える練習』が大切なんだな、と思える次第。

その部分に注目して、読んでみてください。

素晴らしい練習、されておられるから。

 

もう一度言いますが、

この期間、この彼女の内心に、不安は

めちゃくちゃしっかりあった……んですよ。

この記事をあとから読み直されると、今でも、

あの不安のなかでよく……、と、ご自分でも思えて、泣けるそうです。

そう、今すぐでなく、あとから、思えるのです。

 

ならばあなたも、不安だけを見ない、

自分に「あるもの」を見つめる練習を、

『今は』やってみる価値、あるんじゃない?

 

◎snooさん
「♥ しあわせはピンチの顔をしてやってくる ①」
http://amba.to/1LTholb

 

「♥ しあわせはピンチの顔をしてやってくる ②」
http://amba.to/1YAU3q9

 

今日の記事も、必要な方に、必要な部分が、届きますように。

 

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Photo by condesign
Pixabay