カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

「だってこうじゃない!」の奥にあるもの

私のやり方のほうが いいでしょう!

と言ってみたり

こんなに私は やっているのに! と

訴えてみたり

 

うん それを ゴメンね

極端な表現で 言い直してみようかな

 

私の言うことが正しい

と 相手に認めさせたい人は

その裏側に『私が法律になりたいの!』

という願いを

そこはかとなく 持っていたりするかもね

 

私は「いい」でしょう?

あがめてよ 尊敬してよ 素晴らしいって言ってよ

もっと惚れてよ スゴイって言って 従ってよ とかさ

相手に必死で PRしているのかもね

 

さらには もしかしたら

自分の『偏った視点』以外のことは

知る気さえ ないのかもね

私は 常に間違っていないから さ

 

つまりは 家族の中で 友達の中で 会社の中で

本当はちょっとした

王さま になりたいって感じとか?

 

で 私は こんなに頑張っているのに

と 言う人

 

あなたはたまたま 

その分野 範囲のことでは

頑張っているかもしれないけれど

 

その相手と24時間365日 一緒にいるわけでもないし

相手とまったく同じ暮らしを しているはずもないから

 

その相手の人が 他のところで

素晴らしく あるいはいい感じで

頑張っているかもしれないことは

ほとんど考慮 していないのかもね

 

あなたとは『優先するもの』の種類や

度合いが違うだけで 

あるいはあなたが そこに気づきたくないだけでさ

相手もまた どこかで

何かを頑張っているかもしれないよね

 

そんなことない! あの人は

24時間365日 あらゆることを手抜きしてる!

と たとえ感じられた場合でも

それって元々 もしかしたら

あなたがいろいろなことを120%の力でやってるだけで

相手はすべてを 80%の力でやっているだけかもよ

 

そうしたら40%の差は大きいから

あなたからは かなり手抜きしてるようにしか

見えないってことかも

 

その証拠に

あらゆることを120%でやると

まあ まず 体調不良になるよね

自分のことさえ 調整しきれなくなる

 

つまり身体全体が

「あなたは 無理しすぎ」

って伝えてくれているのに

あなただけが

「そんなことない! こうでなきゃいけないのよ! こうあらねば間違ってるのよ!」

と アタマでっかちに 毎日いろんなことで

叫んでいるだけなのかもしれないよ

 

でさ 尋ねてみたいのだけれど

それさ 逆の立場を

めちゃくちゃリアルに想像してみたら

実際 どう感じる?

あなたは 相手を あがめ奉りたくなる?

 

周りの人は 押し付けられて

いろいろ窮屈かも……だよね……

 

やってることの方向

やっぱり実は 王さま 女王さまだわって 

自分で感じたりはしない?

 

思い込みの王……

 

まあ こんな書き方するのは

自分が『リキみすぎ』になる傾向を持ってきたから

自戒もこめているわけだけれど

 

ハタから見ていて

痛々しく感じるほどの

他者への 自分への 決めつけ

それは『あなたが選んでそこまでやっている』のだということを

もう少し静かに 見つめ直してみてもいいと思うよ

 

自分で 選べるのだから

自分が 選べるからこそ

その決めつけや思い込みを

外す練習をできるのも 

また あなた自身しかいないのだ……

 

どんなに主張したとしても

誰も あなたの代わりに あなたを

本当の意味では 救ってくれないよ

 

きっかけをもらえることはあるけれど

練習するのは自分なの

だって本当にあなたを救えるのは あなた自身 だからさ

 

あなたが自分で 思い込みを見つめ直して

ひどいところから自分を「外す」練習 していいんだよ

 

まずはさ もうちょっと 力を抜いてみようよ

自分を ゆるめてみようよ

他者からの承認で 救われなくても

あなたは自分を 救えるよ?

 

2015_11_17

Photo by danist soh
Unsplash

 

認めてほしい、とは

日付を超えて 今夜 2本目

しかもこちらは ある意味 反省を含む自己開示だから

言葉が厳しくなるよ ゆるしてね

 

認めてほしい

側にいてほしい

つまりは私が「よい人」であると 

誰かが保証し続けてほしい

 

これを追求し過ぎて

お互いがそう思うようになった形態を

共依存

と呼ぶのだろうな と

今の私は感じている

 

私も「勉強」や「仕事」の面では

他者からの承認や評価を基準にしていた

それをしていたからこそ

言ってしまおう と思うのだが

 

他人から認めてもらわないとおかしくなる

という場合 ごめんなさいね

その人は

 

他人を使って自分を幸せにすることしか

考えていない

 

とも言えてしまうのだろうと

 

自分の幸せの源 その責任を

他人に「作り出せ!」「とれ!」と

命じているに等しいんだよね……それ

 

自分にしてみれば

尽くしている

頑張っている

だけなんだけれど

 

そういう姿を通して 他者に

ほら! ほら! どうよ! これならどう?

私のこと 認めるでしょう?

あるいは 愛するでしょう?

 

って 押し付けてる面が 必ずあるの……

 

いや本当 ゴメンね こんな書き方で

過去への反省の気持ちを

自分でこめている部分もあるからさ

 

何様? って気がしない? こんなふうに表現したら

私の過去の職場にいた 周りの人は 

私が自分の疲れも省みず

むちゃくちゃなペースで仕事した挙げ句の成果を

見せられる……つまり

ほめ言葉を ある意味 私から強要されて

迷惑だったろうなあ……って 今ならわかるのだ

 

はい 痛い人でした 私もまた

 

自分を幸せにすることは

まず 自分でやってよくて

それができるようになったら

周囲との関係も変わっていくよ

 

認めてもらうかどうかより

私がやってみたいから

やらせてもらってよいかな? に変わり

するとそこに 感謝も自動発生するから

ああ 恵まれてるや……ってことにも 気づきやすくなっていったの

 

そして そんなふうに動けるように 再び なったこと

あるいはまた再び 音楽や絵画や その他いろいろを

楽しい ステキ 面白い って 思えるようになったことや

自然の中に 自分の足で立てること

そういう諸々も ありがたく感じられるのは

自分なりに どん底 見たからだなあ って……

 

過去にも知っていたはずのことを

改めて 新鮮に味わえることに

『お得感』さえ感じられて

そのとき あきらめずに生きてみて よかった って

ちゃんと 本気で 思えたの

 

こうなるともう 鬱になったのが悪かった とも言い切れないんだよね

悪いことがあった 起こった

それは事実だけれど

その結果 再び または新たに 感じられることがあるのなら

その悪いこととはつまり

当時の私にとってマイナスの形をした「きっかけ」でもあったのだと……

 

命が消えた人に 二度と会えないのは もう どうしようもないことで

これだけは 一生 プラスには変えられないけれど

それでも なお 

私はあそこで命を消さなくてよかったな と思えたときには 泣けた

 

ちょいと話がずれたので戻すと そしてね

自分の幸せのために他者を使おうとする人は たいていの場合

幼少の頃に身近な人から

同じやり方を 教わっていて

というか 相手からそれを やられていてさ

 

たとえば私なら 

言うことをきかないと認めてあげないわよ! 

(つまり親の意見が何よりも正しいと思い

それを信じて行動すれば 私のことを「よい」と認めてもらえる)

というふうに

親から言われていると 信じていた

 

実際 親がどの程度 それをやっていたかは

当時 子どもだったから わからないんだよね

 

ただ 少なくとも 

私が 親からそう言われているに違いないと

『自分で信じ込んでいた』ことは事実

私が親の言葉を そう受け止めていたのだ

 

そして 人たるもの とくに私にいたっては

他人から認めてもらってこそ 価値があると

100%信じることにしたのだ 私がね

 

そうやって『親を中心とした他者に 認めてもらえなきゃ私はダメ人間』

という気持ちを 私は自分の基礎に据えた

 

そりゃもうさ

他人は 私の望むようには 私のこと認めてくれないから

(そうプログラムされたロボットでない限り 私の気の済むように

認めてもらうのって無理なんだよね 当たり前の話

その人だって 一人の独立した人間なのだから)

必死に頑張っていくしかなくなるわけで……

 

まあ 勝ち気方面のオッサン脳が幸いして

私は恋愛方面で依存を出さずに済んだが

(男と女じゃないでしょ それ以前に 人間対人間でしょう? なんて思ってた)

 

でもこれさ

「私のことを認めなさい!」を 異性の親から もし やられていたら

その親の身代わりとして 恋人から 完璧に認めてもらおうとすることも

当然 ありうるだろうなあ ということはわかる

 

いずれにしても 幸せを得るのに

他人を使っていく必要ないからね 本当に

自分がまず 自分を幸せにできるからね

そのための とらえ方 先に練習してね

 

実はそれができるようになると

他人との関係も すごく楽で よくなるから

 

自分を幸せにできるようになることが

つまりは自立 なんだな と

私は 40を過ぎてから やっと気づき始めて

(しかもはっきりわかったのは半ば過ぎてから……

時間 かかったなあ……(^0^;))

おかげで今は 心の基本形が

かなり穏やか

 

もし本当に 他者とのよい関係を築きたいなら

自分をまず徹底的に 自分で 幸せにしてあげてください

それは絶対と言って良いほど 

「孤独」とは別種類のものだからさ

 

今の私は 周囲に 温かい愛のある関係性を

性別も年齢も環境も関係なく つなげられるようになってきていて

それはね 本当に 鬱を経験したからあとだからこそ

できるようになった……自分のことを幸せにする許可 自分にはっきり出せた

 

内心ビクビクしてるのに他人にクレクレって「押し付け」してたからさ

そんなヘンな具合に 

他人を自分のために使わなくても済むようになれたこと

心から 感謝している

 

ちなみに 親に対しては

私が勝手にそう受け止めてしまうから

どうしてもそう受け止めるから 

そばでは暮らせない 

って伝えたのさ 今年の1月

親(まあ 母なんだけれどね)は激怒して

いまだに口を聞いてくれません(^0^;)

 

それでもね 一人の人間として 母のこと

私は好きだよ ってことは 今度伝えようと思う

 

そばにいるのは苦しいけれど

この距離から 私も あなたを好きなんだよ ってね

 

伝わるかどうか というか 

その言葉をどう受け止めるかは 母の自由なので

私もまた 自由にそれを言ってみるだけなのだ

そのほうが 私が スッキリしそうだから

その 母を好きだという私の気持ちに 嘘はなくて 

ただ 私にとっては苦手な一面があると

私が感じるから

やっぱりそう受け止めてゴメンね でも愛してるよ間違いなく

と 言えるだろうと 思えている今日この頃なのである

 

こういう経験をした私の結論

他者に求めすぎず つまり他者と比較方面で戦わず

自分をゆるして 認めてあげて 

基本ゆったり ときに楽しませてあげられると 

本当 楽にいられるよ

自分と争うこと やめていいよ 本気でさ

 

2015_10_27

Photo by apefrance
Pixabay

 

柔らかく 温かく 透き通ったもの

青森で『森のイスキア』を営んでおられる

佐藤初女さんの著書を読んだ

 

透明になるということについての語りの部分

その動じなさ 穏やかさ

物事を受け入れる「覚悟」が

とても静かで 凛としておられて

ステキだな と感じた

 

透明になるためには

素の自分 を知り

それもまた 非難しないことまで

自分が意識していないと無理だと思える

 

他者の言葉に『動揺するかどうか』も

自分が決めている部分 あるんだよね

だって「そういう意味で そういうふうに」

受け止めることにしたのは自分だから

 

他者が 自分への非難を 

鏡のようにあなたに映し出し

その苛立ちゆえに あなたを罵倒していたり

冷たくあしらったりすることもある

自分にできないからこそ 相手に 

八つ当たりしてくることもあるのよ

 

それを そのまま 自分のダメさにつなげてしまうときって

あなたもまた ふだんから 自分のこと

罵倒しているからだと思う

 

他者の八つ当たりの非難も

そのまま 言葉通りに受け止め

なぜだろう ってなったり

何なのよ! って自己弁護したくなったり

(自分責めしている人は そういう自己弁護にさえ

一抹の後ろめたさを感じながら話すよね

それが 自分をふだんから責めてる証拠なんだよ

はい 私も感じながらやってましたさ……)

そんなふうに 振り回されることを

選択しているのかもしれないよ

 

面倒くさいことへ

自分から 自分を巻き込む

それを続けていく間は 透明になれるはずもなく

状況に踊らされて 自分を濁らせまくりに

することを選ぶってことだ

 

そうなるとまたあとから

自分を非難したくなったり

相手に非を押し付けたくなったり……

 

相手からの 度を過ぎた働きかけは

それこそ相手の問題なのだから

(例え 親や家族であっても)ホントは 抱えこまなくてもよくて

抱えたいと感じるなら それは 自分が選んでいるってことなのだ

 

だからさ 透明になる覚悟って 本当にたいへんで

自分が自分に踊らされない と決心して

それを練習して 自分なりのコツをつかんでいかないと無理で

 

齢90歳を超え 身体のあちこちにも支障が出ている初女さんが

それをあえて「著述」されることのすごさに

うーん と うなってしまったよ

 

しかも 受け容れることの覚悟を決めると

その人はまわりから とても深くて静かで

柔らかく温かく 感じられるのだと

初女さんの著書を読んで気づいた

 

彼女の印象が まさにそうだったのは

透明になる覚悟を

真剣に決めておられたから……

 

そこまでの達観

そこまでの覚悟

まだまだ 私には到達できないエリアだけれど

これは本当に 練習してみたいと思えた

 

凛とした強さ しかも温かく柔らかく 透明な強さ

静かで 穏やかな 動じなさ

 

これを 憧れだけに終わらせず

ほんの少しでも身につけられるよう

練習したい

 

自分を どうしたいかは

自分で 選べる

自分が 自分の「在り方」を

選んでよいのだから

 

それは どんな人にもゆるされている

『自分というものについての選択』

(「他者を操る権利」など 最初から

持ち合わせてはいないからね 人間は

自分の受け止め方や

気持ちの持ちようで変えていっていいのは 

相手ではなく自分のほうなんだよね)

 

恥ずかしがらず 最初からあきらめたりせず

練習 していこうと思う

 

2015_10_24

限りなく透明に凜として生きる――「日本のマザー・テレサ」が明かす幸せの光
佐藤初女 著  ダイヤモンド社刊  ¥1,296
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