カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

鬱の方に『辛抱』してほしい部分

私がダメだから、良くなるまで頑張っていく。

鬱の人はちょっと上がってきたときに

そういう思考に陥ることが多いと思うけれど

(かく言う私もそうでした)、

そのね、「私がダメ」と決めつけること自体を

「やめる」ほうを、続けてみてほしい、

ダメ出ししないように、耐えてほしいのです。

 

気持ちが落ち込んでいるときに自己否定したら

鬱の人は際限なく、落ちていけるのです。

ええ、そりゃ見事なほど、

自分のことをバカにするための思いつきを

大量に発生させる。

 

本当に、発生させる、と言いたくなるくらい自然に、

ポカポカといくらでも自己否定できる点を思い浮かべ、

その結果、もうだめ、こんなの絶対、

私なんて良くなるはずがない、

私にはもう生きている価値などない、

というところへたどり着きます。

 

私もやっていたからこそ言える、

自分で自分を、限りなく蹴り倒し続ける行為。

それを続けていく間は、正直、

良くなるには時間がかかる一方です。

 

せっかく少しゆるんでも、何かのきっかけで

自分からマイナス方向へツッコミ入れまくって

わざわざ元の悪い状態へ引き戻すのだから、

一歩進んで二歩、三歩、下がるみたいなものです。

またゆるめられるまでに時間がかかるだけ。

 

だから、自分の悪口を言うこと自体を、

こらえて、やめていってください。

 

鬱の人(新型ではない鬱のほうね)は、

たぶん、我慢も大得意な方が多いと思う。

我慢、は、それこそやめてよいのです、本当に。

文句が溜まるだけだから。

しかもその文句を、自己否定の材料にも変えるから。

言えなかった自分を、情けないだのバカだの、言い始めることになる。

身に覚えがあるでしょう?

 

我慢しないで辛抱する、というのは、

自分の奥にあるもののほうを、いずれは探していけることを

あきらめないで、という意味です。

その意図があって、昨日、あの2つめの記事のリンクを張りました。

 

もう十分、今までに、自己否定のほうは思う存分、

味わってきただろうから、

自己否定してしまう表面の出来事の、

さらにその奥にあるもののほうを、可能になったときに

探してみる方向へ、行ってみてほしいのです。

 

その「イヤな気持ち」を、別のものへ使ってほしい。

自己否定に戻るのはたやすいことだとわかっているからこそ、

そこに戻らないよう、辛抱してほしいのです。

何度も自己否定に戻ってしまうだろうからね、とくに最初のうちは。

 

自分を責めたほうが、ある意味、楽になれる。

今はそういう脳みその仕組みに「なってしまっている」ことは、

私も知っているけれど、それ、何も解決しないのです。

本当に、消えたくなる、以外の道がなくなるだけ。

そのために繰り返し、自己否定を練習しても、

自分で自分を苦しめるだけ、だよね?

そこの部分は、わかってるよね、自分で。

 

もうね、思い浮かんだら、強制的にでも、やめる。

代わりに、ほんの少しでも心地よくなるものを選ぶ。

ここまで自己否定してしまうってことは、

何か、間違いなく、大きな「ズレた思い込み」をしているに違いないから、

そこを探るために、今はとにかく、やめ続けよう。

探るためには『心の体力』まず先に取り戻す必要があるから、

自己否定してしまう行為自体を、

もうこれからはやらないよう、やめ続けるという辛抱をしよう。

そういうふうに、捉えてもらえたら、と願います。

 

我慢と辛抱の違いは、一つ前にご紹介した記事で、

少しは伝わったと思います。

怒れるけれど、怒らない。自分に対して、ね。

そっちを自発的に、練習してみてほしい。

 

心地よさは、必ず、あなたの『心の体力』を取り戻すための助けになります。

だから辛抱して、心地よさ探しを、続けてください。

 

心から、それを祈っています……m(_ _)m☆

 

2015_10_13

Photo by realworkhard
Pixabay

 

自分を大切にするために、なぜ他人を使うのか、の話

今日は「自分のことを嫌っている人」に向け書いていきます。

ある特定の他人を憎みすぎて苦しい人には、少し、当てはまらないかもしれない。

その点はおゆるしください。

 

自分のことを嫌っている人って、たいてい、

他の誰かからすごく「してもらおう」とする。

認めてもらう

優しい言葉だけでなく態度、扱いをもらおうとする

ほめてもらう……等々。

 

自分が、自分のことを全然認めていないくせに

(はい、あえて強調しますよ)、

他人からもらおうとする。

 

なぜなの?

なぜそれを自分で、自分に対してできないの?

何を「自分に優しくしちゃいけない」

って決めつけてるの?

自分がしちゃいけないことなら、

別に他人も、あなたに対しては、しなくていいよね?

 

そんな、ひどい! と感じる人、多いだろうけれど、

そこは本当に、矛盾しているのですよ。

自分ではやらない、でも他人からは絶対、何が何でも、ほしい。

だからもらえる相手がないと、

とたんに「さみしい」「一人でいるなんてイヤ」と言い出す。

 

他人を、そんなことばっかりに使うから、

相手も疲れるんだっていうことに、気づいてもいいんじゃない?

そういう「他人の使い方」をする人は、

同じく「そういうあなたの使い方」をする人にも出会いやすいから、あなたもまた

「相手側に『認めてもらう』ってところで自分をこき使われたとき」の苦しさを、

今までにいっぱい、味わっているはずだよ。

 

やりたくないときにも、一方的に

「私を認めろ! 大事にしろ! しかも私が言う通りに!」

なんて感じのことをやられて、

その要求に応えきれなくて、苦しんできていたりするよね?

 

で、自分は自分を認めない、

でも相手からは何をしてでも絶対、もらおうとする、

その部分が矛盾しているからと

「だったら、もう、もらわないもん!」

というふうにすねる(絶望する)のも、まあ、あなたの自由だけれど。

 

別にさ、あなたが、誰よりもいちばん、

自分で自分に、優しくすればいいじゃない。

自分を差別している、その「気持ち」が

どこからやってくるのか、を探して行けば、いいじゃない。

 

自分を差別して見下げてバカにする気持ちって、

赤ちゃんのときには、持ってないよ、間違いなく。

あなたが「後天的に」選んできたこと。

 

もちろん、世の中にはひどい親や身内や 知人っていうものが

存在するから、そういう人から「強制されて」、

その思考方法を学んできたって人も、たくさんいると思う。

実際、自分では自分を認めない代わりに、子どもからもらおうとする人、

そういう大人(親)の例も、たくさん知ってるよ。残念ながらね。

 

だからといってあなたが、そこに「とどまり続けなければいけない」理由など、

まったくない。これっぽっちも、ない。

 

その場合、強制してきた人は、あらゆる圧力をかけて

あなたをそこに止まらせようとすることでしょうよ。

恩知らず! っていう言葉を簡単に吐くとか、ね。

はい、そこで、宝刀抜きましょう、心屋さんの。

知らんがな。

それはその人自身の問題であって、あなたの問題では、ない。

 

自分が、自分に気を配ってあげる。

自分が、自分を、優しく扱う。

自分を嫌って否定してバカにしている人の場合はね、

それが土台になっていってこそ、本当の意味で

「他人からの優しさを『まともに』受け止められる」人になるよ。

今までみたいに「よかった、この人は私を認めてくれた」なんて、

いちいちそこで安心するような事態に、陥らないで済む。

 

自分で、自分を安心させていいのだ。

何の根拠も、理由も、目標達成も、まったくいらない。

赤ちゃんのときすでにそうやって生まれてきたの。

それが「自然な状態」 であって、

今の、他人を使って安心できないと、

自分では、自分を安心させられないことのほうが、

よっぽど「不自然」なのよ?

 

「そのためには○○できるようにならなければいけない」

などといった理屈を、あなたはいつまでこねて、

その不自然な(刷り込まれた)状態を続けていくの?

 

いつまで他人を使って安心し、

本当の意味での感謝とありがたさを、その相手と共有せずに生きていくの?

 

あなたが、自分を不自然なままにしていることのほうを

選択しているんだってこと。

その選択は、根拠、理由、何かの達成といった

屁理屈は一切必要なしで、

変えていいんだってこと。

 

ええ、屁理屈ですよ、それ。

ごめんね、はっきり言うけど。

「まだ○○できていないから」なんていうのは、

自分を認めたくないがゆえにあなたが使ってきた、

ただの「言い訳」です。

 

そのために「自分が抱えているものに気づいていく」ほうへ

意識を向かわせることが、できるようになっていく日が来ることを、

私は心から願いながら、いつでも、遠くから、見守っています。

 

他人を、そんなふうに使わなくても、

あなたは、だいじょうぶなんだよ。

あなたは、いつからだって、

自分に優しくできる人間になっていいんだよ。

他人を扱うように自分を扱う練習、してみてね。

苦しみ、喜び、自分の声を、ちゃんと聞いて、

自分と「一緒になって」、その一つひとつを親身に感じてあげてね。

 

2015_10_04

Photo by sogard
Pixabay

 

そんな 気がする

認めてもらえなかったように、自分が感じた。

お前が欠けているのだよ、と示されたように、

自分が感じた。

 

お前はダメなところがあったんだよ、と言われたように、

自分が受け止めた。

お前では役不足だと言われたように、

自分が受け止めた。

 

うん。

傷ついた、と、受け止められるんだね。

そういうふうに、自分が、感じるんだね。

そんな気がするんだね、今日は。

あるいは、今日も、かな。

 

それは、別の見方をすれば、

自分を理解してくれようとは結局、せず、

我欲と自己都合をたくさん押し付けてきて、

さらにそれを正当化したいという相手の気持ち、

そういう、とても重たいものから、

自分を解放してあげられることができた、

やっとそこから、抜け出すことのできた、

初めての夜、になるかもしれないのだけれど。

 

今は、今夜は、そんなふうには受け止められないよね。

悲しい、が先に、湧き上がってくるよね。

 

うん。

だったら、泣きなよ。

たくさんたくさん、目が溶けちゃうくらい、

わんわん、泣こうよ。それでいいから。

 

あなたのために、

あなたが流せる涙は、

本当はいつだって美しいし、

いつだって、優しいのだ。

 

間違った思い込み?

そういうのって、人の中にある「部分」の話だよ。

部分だってこと、今は気づいていないだろうけど。

それ、みんな持ってるし、

それでも、いいじゃない、っていうか、いいの。

普通で、当たり前のことなの。

 

でもね、少なくとも自分のために泣ける人は、

優しさを上手に発揮できる、

その萌芽を、自分の中に備えているのよ。

 

だから優しさの出し方、

その新しい練習、これから少しずつ、やってみればいいだけだよ。

 

お疲れさま。

たくさん泣いて、泣きながらお湯に浸かって、

身体を温めたら、

ちゃんと、疲れもやってくるから。

 

そうしたら、今日は、

泥のように、眠ろう。

自分のための、新しい夜の、始まりだから。

 

本当に、お疲れさまでした。

しばらくは、責めるほうでなく、受け止められたよいもの、のほうも感じて、

その経験ができた事実を、自分でちゃんと、味わって。

そのうえで、なお、放心するほうを、

泣き疲れるほうを、選んでみてね。

そんな練習も、新しく、始めてみてね。

 

2015_09_19_2

Photo by danigeza
Pixabay