カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

世界のどこかで もし あなたの悪口を言う人がいたとして

世界のどこかで もし あなたの悪口を言う人がいたとして

それにあなたが「気づかなければいけない」理由ってなんだろう?

弁解するため? 噂を打ち消すため? バカにされないため?

 

そりゃまあ 気づいたとしたら 心地よくはないけれどね

本当は 言いたい人には言わせておいてもよい場合 多いのだよ

なぜならそれは ただの「違い」だし 

勝手な相手だったら やがてその人自身が 自滅するだけだから

 

人の悪口や欠点 失敗を 勝手に盛り立ててネタにする人には

必ずブーメランのように 自分にその刃が 返ってくるよ?

あなたは「そこに 関わらなくてよい」だけでは?

 

それを信じて あなたを避ける人がいる?

それを信じて あなたをバカにする人がいる?

面と向かって 罵倒してくる人などまで いたりするって?

 

それって それらの人が

「私は ある一方の立場の人が言うことだけを 鵜呑みにして信じる

全体なんてまともに見ない 面白かったら乗るだけの

視野の狭い 騙されやすい 考えの浅い人間で~す♪」

って宣言しているわけだからさ 

別に「あなたには 関係ない人たち」であって よくない?

そういう種類の人って 関わり持つ必要性 ないんじゃない?

 

なぜ それを 気にして その人たちの言う言葉を

あなたが 信じなくちゃいけないのだろうね

 

もしさ あなたに悪い面があったとしても 

それに対して「なぜこうなったの?」って

まともに質問してくれる(つまりこちらの意図を

ちゃんと知ろうとしてくれる)人だって 本当は周囲にいるのよ

 

すぐに そう尋ねてくれるかどうかはわからないけれど

「くだらない悪口を いろいろ言って笑う人たち」とは

別の見方 捉え方をする人も 必ずそこには存在しているの

 

でもあなたは そういう冷静な人たちの存在は無視して

自分の悪口を言う人にだけ 意識を集中するよね

 

前にもここで紹介した『神様とのおしゃべり』

そこにも書かれているし 他の本にもいろいろな形で書かれているけれど

 

なぜ あなたが

「その種の悪口にそこまで反応して 言われないかどうか 

チェックしようとするのか」

つまりその悪口が 自分に刺さる理由ってね

 

あなたが四六時中 それを自分に向かって言っている からなの

 

私はその「悪口通りの人間」であると 

どこか自分で 先に自分を決めつけて 罵倒しているから

他人から言われたときに そこまで反応するのよ

言われていないか 見張りたくもなるの

 

自分で自分をすでに傷つけているから

その内容を自身が先に信じているから 

もうそれ以上 さらに他人から 言われたくない ってことなの

 

最初の最初は

あなたが 自分を 悪く言っているのよ

 

ねえ だったら

「なぜ私はそんなことをしているのか」

「なぜそんな受け止め方をして 自分をののしって 傷つけているのか」

 

そっちの理由を 探してみたほうが 良くない?

そっちの理由の根っこを ひも解いてみたほうが

よっぽど自分が ラクになれるんじゃない?

 

あなたが そこまであなたを 批判している理由

その「根っこにある不信感」

いつ どんなふうに 生まれたのだろうね

少なくとも赤ちゃんのときに そんな罵倒 しているはずがないから

あなたがどこかでそのやり方を「学んだ」はずだよね

 

いつ どんなふうに その世界観を

あなたは 作り出さなくてはいけなくなったのだろうね……?

 

そこがわかれば 世界のどこか どころか

あなたの隣で あなたの悪口を言う人がいたとしても

「それがまっとうな意見かどうか」を 第三者的にきちんと捉えていけるよ

 

直したほうがよいところは 意識して注意してみればいいし

それこそ相手側の ただの嫉妬から生まれる「違い」の場合などは

気にしなくても(あえて相手にしなくても)よくなったり するよ?

 

たとえば卑近な例だけれどさ

かのお姉さんは 私が他の男性社員と楽しく話して笑い合うだけで

私のこと「調子に乗っている」と受け止めるのだそうで(某所から

なぜかしら届けられてしまった 残念な情報……っていうか笑えるけど)

 

おお そりゃもう 彼女の人生 たいへんだろうねえ と 私は思う

20歳以上も年上の女に 何を挑もうとしているのか?(笑)

年を取っているだけでなく そもそも「女性性」の部分がもうすでに

私は あなたより めっちゃくちゃ 低いっすよ?(爆)

イライラしなくていいのにねえ……オッサン脳 対 兄ちゃんの会話に

 

そういうことなのですよ 受け止め方の違いって

それなのにわざわざ 訂正「しなくてはいけない」 その欲望って

疲れるだけじゃないかな……?

 

その「こうありたい感」さ

あなたが 自分の罵倒をやめるところから

変えていけるんじゃないかな……? 

 

ねえ なぜ そっちは そうなった原因を 探らないのだろう?

なぜ 自己罵倒に対しては 放置なのだろう?

自分批判してしまう自分に対する

気づきのための見張りを立てたり

自己罵倒について敏感になるためのアンテナを 

あなたはそれこそなぜ 張らないのだろうね?

 

2015_09_02

Photo by MemoryCatcher
Pixabay

 

向きは逆方向だけれども……

他者に認めてもらいたい人も、

他者にひどいこと、しまくる人も

『表面的にやってること』は逆の方向なんだけれど

結局、自分をそうやって痛めつけておくほうが

安心できるのだと、信じられているから

その方法でやってるんだよね……。

 
と、またもや、

うおぉ、これはキツイこと選んでるね、

という記事を見つけたので掲載してみる。

前のものと並べてみようかな、そうすると、よくわかるかも。

 
まず、今日見つけた記事。

◎心屋仁之助さん
■信じれません。そしてムカつきますます。
http://amba.to/1IgAHPX

 
で、前にも紹介した、これね。

◎「14歳でAV女優を志した」さんまもハマったAV女優・紗倉まなが抱える闇
http://ow.ly/QsKjY
(URLを短縮しています)

 
どちらも、自分のことなんて実は、視野に入れてない。

他者が自分をどう思うか、だけしか見ない。

その視野を自分がわざわざ選んでるのだってことにも「気づきたくない」感じが、

伝わるかな?

 
自分が自分のことをどう思うか

その視点のはるか『前側』、他者の態度だけを見つめて、

自分がやったことに対する他者の反応、その後の自分の対応しか見ない。

そこだけを見て、感じて、考えて、必死になって、あれこれやってるの。

 
わざわざ『前側』と書いたのは、

確かに人は、その部分だけで「対応していく」こともできるから。

そこだけ見ていても、十分、自分のやることを決められて、

右往左往できるのよ、生きていく上ではね。

で、絶対と言えるほど、見ないようにしてるの。

なぜ自分は、それを選ぶのか

という部分をね。そこには、触れようともしない。

 
だから『自分を大切にする』ということも、

もう感覚的に「意味不明でわからないこと」になってしまっているのかな、と、

この記事の方々に対して、私はそう思えるの。

 
伝わるかな。

どちらも『私を見て! 注目して』のPRなんだよ、これ。

なぜそうするかというと、苦しいからなのに、

それすら気づきたくない、怖くて。

 
なぜ自分をわざわざひどい方向へ酷使して、

ひどい状況を自分からあえて作り出すのか。

自分が苦しくなることばかり、自分からやりたくなるのか。

 
これ、オーバードーズやリスカにもつながる視点だけれど、

そういうこっそり一人でやることも含めて、

『これをやる私って、なぜそうしようと感じるのだろう』

ってところを、怖くて見つめられないのだろうと思う。

 あのね、その怖さ自体が「思い込み」なのよ。

絶対に見たらダメ、みたいな、幽霊や妖怪、お化けのような圧迫感、

表現できない恐怖を感じているだろうけれど、

本当にそれ、お日さまの光に照らしてみたら、

ただの枯草の塊みたいなものなの。

『過去の記憶から選んで積み重ねてきた、お化けのように思えてきた』、

でも実は『枯草の塊』の決めつけ。

 
だから、勇気を出して他者にばっかり働きかけるのではなく、

そっちの方向ではなく、

勇気を出して、ひもといてほしいのは

自分に対する気持ち、その部分。

今の状態や、他者に対する状況を何とかしていくことじゃないよ。

 
それ、すごく『前側』で起こっている感情であり、

反応であり、対応、対策なの。

そういう枝葉末節、葉っぱしか見ないのでなくて、

幹の内側や、できれば土の中の自分の根っこを見てみたら、

それこそ、今まで全然知らなかった世界が始まるよ?

 
今日のあの記事、あの投稿を、わざわざ取り上げて、

相手に伝えようとしてくださっている心屋さんの気持ちに触発されて、

その温かさに感謝したくなって、私も勝手に、話しかけます。

 
今、苦しいあなたが見つめているそれ、

『すごく前側』の部分だけになってるよ。

向いている方向、

見ている視野、

それ自体が、前側のみになっているの。

 
そればっかり選ばなくても、

本当に本当に、本当にあなたは、だいじょうぶだからね。

 
どうかいつか、今とは違う勇気を、出してみてね。

 

2015_08_04_2

Photo by RickToxik
Pixabay

 

思考の中身

自分の思考が『物事を自分にとって悪く捉える』になっている場合、

いいか悪いか、どっちとも受け取れるような状況(一瞬、自分が

どう解釈していいかわからないときとかね)

においては、毎回、ほぼ、相手に悪意がある、と取る。

 
そのうち、その相手が楽しく笑っている場面でさえ、

まるで当てつけるかのように笑っていやがる、いい子ぶって、

などどいう、とんでもない方向へ自分の思いが進むのだ。

相手が、ただ、笑っているだけなのに、

あなたが勝手に、そう解釈する。

 
そしてそれこそ、相手に当てつけるかのように

ツンツンした態度を取るようになる。

 
ねえ。

物事を、そんなふうに解釈しているのは、他ならぬあなただよ。

相手が悪いのでない、相手は単に笑っているのだ。

 
逆のことやられたら、すぐ気づくでしょう?

そして『なんてさみしい、あるいはさもしいこと考えてるのだろう』って、

思えるでしょう?

 
ならば、あなたが、同じ土俵に立つのをやめなよ。

たとえ相手がそれをやってきたとしても、

あなたが相手と同じ穴のムジナになる必要、どこにもないよね?

 
物事を、悪いほうに受け止める練習ばかりしていると、

こういうことがたくさん起こるようになって、

ますます自分が苦しくなるんだよ?

相手がどうこう、だけじゃないよ。

あなたもまた、どんどん、周囲の状況を悪く解釈して、

そんなことしたら、解釈されるほうも当然、不愉快になるから、

それこそ本当に、状況自体も悪化するんだよ?

 
自分が自分を嫌っていると、

世界があなたを嫌っているかのように見えてきて、

その証拠もどんどん集まるように感じられるのは、

結構、こういうからくりなのだと、私には思える。

 
だから、何度でも言う。

何かを何とかしてどうこうすることで、

問題を解決しようとするよりもっと前に、

 
あなたが自分を嫌っていること

 
それに対する解釈を変える練習することのほうが、

絶対に先なんだよ。

 
自分を好きになり始めたら、気づくよ。

世界は、あなたに実は、結構というよりかなり、

優しくしてくれてたんだってこと。

 
あなたが自分の状況を変えたいなら、

あなたが自分を嫌うのを、

あるいは嫌っている部分があるのを変えることから、始めるしかない。

 
立派になれとか、達観しろとかいう話でもないよ。

ただ、自分が楽になれるのであれば、

それはそれでうれしくて、つまりは幸せな話じゃない?

なら、そういう物事の見方、捉え方を

練習してみていいんじゃない?

そのためのきっかけに必ずなる、と言えるくらいな気づきが、

自分が嫌っている自分、

あるいは自分の内側の『気に入らない部分』に

潜んでもいるんだよ。

 
結局のところ、問題って、そこのところをわりと必ず、

通過するものなんだな、と、最近の私には思えるのです。

なぜやったらダメなんだろうね、そういう方向の、気づきの練習。

あなたを怯えさせているものの正体、つかんでみたら?

 
それもまた、ただのきっかけ、なのだから、使ってもいいんじゃない?

 

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Photo by ゆんフリー写真素材集