カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

減点方式での自己否定

自分自身に対してダメだ

そう思うことがあった

それは 時間が過ぎれば 過去の話だよね

 

それを延々覚えていて

次のダメが出たときに

ほら また

さらにマイナス10点

と 引き算したことだけ記憶に加えていると

 

記憶には どんどん 引き算の数値だけが残っていく

 

そしてまた そういうやり方をする人は

足し算のほうは なぜか滅多にしないの

 

できても 当たり前だと思っちゃうのか

満足してはいけないとでも言いたいのか わからないけれど

とにかく 足し算は とても不得意

 

そうなれば累計は どんどん減る一方で

どこまでいっても合計がプラスには転じない

 

だからさ 自分で転じさせることができないがゆえに

他人の評価をもらいたくなる

もしかしたら それでなんとか つじつま 合わせたくなっちゃうのかもよ

 

他人から言われて信じられるのなら

自分で感じて 信じてもいいのにね

 

自分の口から出る言葉は

自分のマイナス点ばかりで

それが基本形になっちゃってるから

自己へのプラス評価の仕方 忘れちゃったのかもね

 

でも 生まれたときに自己否定を知っていた人はいないから

明らかに 後天的に学んだわけで

後天的にマイナス点のつけ方 学べるなら

後天的に プラス点のつけ方も

本当は 学べるんだよね

 

ただ あなたがそれを選ばない

なぜか選んではいけないと決め

マイナス評価だけを 累積計算して

どんどん積み上げていく

その方法を選んでいるだけであってさ

 

過去のあなたが 今のあなたと同じだと決めつけるための

イヤな証拠集めをすることだけ

必ず自分に ゆるしているのだ

 

経験を積めば 悪く だけでなく

良く も学べるのに

わざわざ 悪いほうだけ 蓄積させて

だから私はダメ を強化していく

 

確かに親のせいもあると思うよ

でも親のやり方を「今でも」選んでいるのは

間違いなく自分から やってることなの

親のものの見方を

いまだに継承しないといけないと

決めつけているのは 自分自身

 

もしそのやり方で あまりにも今 苦しくなっているのなら

その減点only記憶方式 さすがにいったん やめてみたら?

 

過去のあなたに比べて 今のあなたは 少しは学んでると思えるよ

だからたまには 違ったやり方 試してみてもいいんじゃない?

 

正解は 本当に 一つだけじゃない

本当に正解が一つしかない ってこ
いうものは

すごく少ないと思うの

 

たとえばあなたの都合だけで 他の人の身体・精神・心の自由を奪ったり 

さらには生命を奪ったりすること

それは確かに やってはいけないことで

それ以外の 正解はないけれど

(そう それがたとえ 自分の子どもであったとしてもね やっちゃいけないのだ)

 

その他のことについては 決して 

何か一つだけが正解ってこと ないのかもしれない

 

何か愚痴を言うのも 聞いてもらう相手を選んで 言わせてってお願いして

自分の気持ちの整理をするためなら 全然問題ないしね

 

すべてを他者のせいにすること

すべてを自分のせいにすること

それらを 延々 累積計算することだけが

あなたをまっとうな人間にするための唯一の方法だとは

決して 私は 思えないんだ

そしてそれは 他者に対する評価についても同じで

『いつもダメ』な人は あらゆることでダメとは限らず

あなたに対して他の面を見せていなかっただけだったりするかも

 

また あなたと同じような感覚を持ってる人でも

その相手のことを あなたほどには批判しないかもしれないよ

 

どうしても 憎らしい 自分の自由をすべて取り上げちゃうようなタイプの

そこまで憎らしい人は まあ 仕方ないとして

関係を『あなたが』続けていきたい相手なら

ダメな部分の蓄積 に集中しなくてもよいと思える

 

わかるかな……

最後に 少しはヒントになるかもしれないと 私が感じた記事も

ご紹介しておくね

感覚 としての つかみ方 伝わるといいなと願います

この「つかみ方」を 相手から認められたいがゆえに 相手に使うのでなく

感じたことを なかったことにするのでもなく

とくに自分に対する批判の 蓄積をやめるために

自分も他者も 変化してよいことを ゆるすために

知ってほしいと願います

 

認められたいがゆえのプラス点もマイナス点も 

蓄積しないでいい「見方」だって あるということを……

 

◎さとこ さん
過去に置きざりにされた人
http://amba.to/1HYzPBT

 

2015_06_01

Photo by Shirley
Pixabay

 

「得た喜び」の あとの日常

何かを得たあと それを保ちたいなら

保つための工夫は必要で

 

その 工夫 というのは

得ていなかったときには存在していなかったこと

得たあとの 日々の中で 行っていくこと

 

しかも得たものが

人間関係であった場合は

相手との折り合いやすり合わせ もまた

日常

の中に組み込まれてくるわけで

 

得られさえすれば幸せいっぱいになるはずなのに

どうして? という事態とも 向き合わなくちゃいけない

 

そりゃそうです

得る ということも 経過のひとつだから

得たことで変化した部分には

対応しなくちゃいけないのよね

 

それが面倒だから とか 新しい状況において

何かヘマするのが怖いから とかいう理由で

得たものに対して 対応をおざなりにしたり 逆にひたすら見張りまくったり

得たんだから 側にある いる のが

当たり前であるかのように

得たものへの きちんとした丁寧な対応を しなくなれば

得たものは使っているウチに 消えていきます

 

お金が欲しい

うん では 得たあとにどう対応する?

使ったら消える 物質というものを

また再び得ることに奔走する?

 

彼氏が 彼女が 友だちが 人気が 評判が……

はい そのあとに来るのは

お互い より 理解し合おうとするための

創意工夫が必要な 日常 です

 

それを経ながら 続けながら

「情」の部分を育てていく

その勇気と ある種の努力です

 

こうすればこうなるに違いない という仮定は

あくまでも仮定であって

その通りになるとは限らない 当然ね

 

それを一方的に

こうなるものでしょうが! と 押し付けたら 

相手のほうは 自分の感じることを無視され

こちらの感じることだけ大事にして 従え と命令されたように思えて

イヤになるかもしれないよ?

 

思いはからいと 折り合い というものも

日常生活の中に 新しく 発生していくのです

しかもその都度 その都度 毎回ね

 

それを経るからこそ 「情」の部分も育っていき

信頼関係も生まれる

 

ということで この話の内容が

他者や物質との間だけでなく

自分との間でも必要なこと

そろそろ気づいてくださいね

 

癇癪 起こしたり

すぐ失望したり

すぐ罵倒したり

 

そんなことを延々

自分との間でやっていたら

いつまで経っても 自分が嫌いなままですよ

 

折り合いつけて

良いところも見てあげて 探してあげて

思いはからいを 育てていく

 

欲しいのは それじゃないもん! と

一方的に受け身になる『日常』も

こうあるべきなのに! と押し付ける『日常』も

そろそろ やり方 変えていいのかも しれませんよ

 

得たあとに続く 日常でも 大切に扱うからこそ

得たもの(人にせよ物質にせよ)との間で

喜びもまた 繰りかえされていくのです

 

そこを 手抜き しないでね

そこは 勘違い しないでね

そこは どうか 簡単にあきらめないでね

 

結果に対する 良い悪いを批評して 好き嫌いを述べるだけなら

幼い子どもでもできることだから

その先の 日常の中での工夫 

自分の感覚 相手の感覚の 押し付け一方ではない工夫

自分もやるということを あきらめないで くださいね

 

追伸:

当然のことながら

あなたが自分にウソをついたり

耐えてガマンして丸く収めたくて

『勝手に』不安ゆえに奉仕するのは

あるいは相手にも それを強いるのは

うまくいく方法では まったく ないので

それを「日常」には どうかしないでくださいね

 

『奉仕』とは 見返りでなく やれる喜びのために 行うものです

 

2015_05_30

Photo by PublicDomainPictures
Pixabay

 

そう思っていないときにも「はい そうです」と答えていたら

自分が納得していないときにも

相手からの愛情ほしさに

相手から見捨てられるのが怖くて

相手のことをわかってあげられるのは私だけだから

 

はい そうです それが正しいです

そうだね

 

って「同意」を示していたら

 

今度は逆に

相手の愛情の度合いを測るためにも

同意してくれるかどうか 試したくなるよ

 

自分がそうやって 愛情を 仲間意識を

示してきたから

他者もまた

そうやってくれるのが 愛情のはずだと

思うようになるよ

 

共感 と 同意 は別もの

あなたはそう感じていて つらいのね

というのは

ええ そうですね とは 違うよ

 

なぜ自分が 同意のほうを ある種の

愛情のバロメーターにしてきたかというと

ゴメンね まず最初にあなたにそのやり方を

強いてきたのって

親である場合 多いみたいなんだ

 

せっかく 間違いではないことを 子どもに伝えているのに

そのとき一緒に たとえば罰も与えるの

ご飯食べさせないだの 叩くだの 

家から追い出すだの ウチの子じゃないだの 

言うこと聞かないと そうするよって

問題解決のために 他の圧力も使うの

 

子どもは 怖いから言うことを聞く

親が言った内容でなく 親の取った行動で やめるだけ

納得してなくても 嫌われるのが怖いから

痛いのが苦しいから 同意した振りをする

 

子どもは そうした圧力 罰の同意も また

愛情の示し方の『一種』なんだと 子ども心に 把握するそうだ

 

だから親から 立場的な圧力で 押さえつけられた子どもが

他人にまた 意見を押しつけるようになったり

とくに暴力を振るわれた子どもは顕著に

大人になって 同意欲しさに 家族には立場的な力 使っていいのだと

自分が愛情を持った大切な人に 同意してもらうには 

暴力もまた使っていいのだと 認識するのもそのためで

子どものときのDV被害者が

大人になってDV加害者になるのは

もちろん全員ではないけれど 残念ながら ある種の事実らしい……

 

そんなやり方ばかり しなくてもいいのにね

共感 から すり合わせ でも いいのにね

 

近い存在の他者が苦しいときに 先にいったん 共感を示せること

そうか あなたは そう感じていて辛いのね と伝えること

これはたいていの場合 相手を苦しませず

とてもステキな感じで 届くと思うのだけれど

 

この言葉を発するためには

その相手がたとえ 自分の身内だろうと 愛する人であろうと

あなたと私は 別の人間である ことを

最初から認識している必要があって

それゆえに あなたと私の感じることは 違う場合があって

それでもいいのだ ということを 踏まえている必要があると思う

 

つまり自分は 大切な他者と違う感性や感覚を持っていてもよくて

それは『普通』で『自然』なことであり

私は 私の感じることを 大切にしていいと

「わかっている」ことが 重要なのだ

 

それがあって初めて 共感を示せるのだと

もちろんね しつけの範囲では 共感のあとに

そのやり方だと こんな問題が起こって あなたはこんなふうに困ることになるけど

それでいいのかな と伝える必要があるのだと思う

 

でも しつけをする際にも 共感を示すことは大切 と あらゆる人が言っているのは

確かにそうだな と思えるの

そうされた子どもは 自然と他者にも それが できるようになるだろうなと

 

理解していなければ ときには失敗もして 痛い思いもしてしまうだろうけれど

それによって 確かに そうだったと知ることができれば 痛さは学びに変わる

暴力に限らないけれど なぜわからないの わかってくれないのよ と

圧力による同意を使うのでなく 共感を使うやり方は

子どものときから練習していければ

とてもステキな感性のひとつになるように思えるのだ

 

と 子どものしつけのことまで 例にしてみたのは

この例なら 伝わるかな と思ったの

自分がそうやれば 相手にもそういうやり方 伝わるようになっていく

それが自分にとって大切な人であるほど 伝わりやすいように思えるのだ

 

だからね そのためには

「私」が 何を感じる人間であるかを

否定せずに 知っていくことが とてもとても大切だと 私は思っている

私の感じることは いつも間違いだの

相手とは違うだの

そんなふうにすぐ採点すること自体 本当は変な話

あなたと私は 違う人間なのだから

感じることに 違いがあって当然で

どちらも『間違いではない』場合も たくさんあるのだ

 

私が いいと思うこと

相手が いいと思うこと

ときにはその感性が違う 

これが当たり前の前提で

 

自分の感性を 論破で あるいは圧力で 押しつけるのでなく

逆に同意を 押しつけられるのでもなく

どっちのほうが お互いにとって よりいいだろうね? と

すり合わせしていけばいいことなのだと

 

どうしてもそれは心地悪いから これについては私のほうに合わせてくれない?

と尋ねることと

こっちがいいに決まってるでしょう! と 叩きつけるのとでは

同じこと伝えているのに 相手の受け止め方 全然違うよね

 

逆のこと されても

うん あなたはそれがいいと感じるんだね

では私は こう感じているけれど

あなたがどうしても嫌なら あなたのほうの意見でやってみよう って

言えるんだよ

 

だからね おびえている人に 伝えたいの

相手と自分との感性や気持ち 感覚が違うことは

自分の視野を広げるきっかけに使えることであって

愛情を失うだの 嫌われてしまうだの

そういう苦しさに使うものではない

 

本当はそう思ってないことを 失うこと怖さに

そう思っています と ウソをつくことのほうが

自分にとって苦しいし

相手にも誤解され 実は相手にも 失礼になるよ

 

私の言うこと 間違いではないでしょう?

うん その通り『間違い』ではない

ただ単に 他にも『間違い』ではないことはあり

それぞれが別の『間違い』ではないことをよいと思っているだけ

それを すり合わせてみればよいのであって

非難することでも されることでもないし

より正しいかどうかを証明する必要がないことも多い(自分の良さ 素晴らしさを

他者から承認してほしい人は これをやりがちで 私も気をつけていることである)

 

そのために 共感 も使おうよ

従うのでなく 従わせるのでもなく

 

先日ね まずいったん 批判せずに『自分嫌い』の感情を

地面に穴を掘って 埋めてしまって

平らにならしちゃえ って

私が言ったのは このためでもあってね

 

自分がどう感じる人間であるかを「改めて」知るためには

いいだの悪いだの 正しいだの間違いだの

そういうジャッジ 一切しないで見る必要があるからさ

 

あなたのbe(感じること 状態 あり方)を

あなた自身がまず知ること

そしてそれは 批判や褒賞の対象にするものではなく

ただ そうなんだ と知ることが

そういう私なのねと 受け止めて腑に落とすことが

相手に共感を示すための 土台になるの

 

心屋さんや武田双雲さんが言ってるのは

あなたのやり方(do)ではなくて

あなたのあり方(be)のヒントで

あなたはあなたで 素晴らしい かけがえのない存在だっていうのは

紛れもない事実 なのだと 私も思う

 

あなたが 他の人とは違っているから

他者は(もちろん私も含め) 新しい捉え方 考え方 を知ることができる

私はあなたのおかげで

自分が何をいいと思う人間であるか 知るきっかけにできるの

すべての人に 違いがあるのは 本当は とてもステキなことなんだよ

そういうふうに受け止めて 自分が使っていければね

だからさ あなたの感性や感覚を否定する必要はないし

ましてやあなたの『存在』(be)を否定する必要なんて 

本当は まったく ないのだよ……

 

2015_05_24_1

Photo by GLady
Pixabay

 

追伸:

子どもに対して 本当にやってはいけないことを伝えるために

たとえば自分や他人をひどく粗末に扱ったりするときには

それが絶対にダメだと知らせるために 頬を叩く場合もあること

それを私は あり得ると思っている人間です

そういう「目覚め」が必要なときには です

 

人が他者に対して どれほど人という存在が大切であるか 

本気で知らせるために たとえば泣きながら 相手を叩くことがあるのは

自分の言うことを聞かせるために相手を叩くのとは

まったく意味が違うと 捉えています

 

なので すべての暴力反対 の方には

その点で 私は別の感性を持っていると

捉えていただければ幸いです