カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

イメージして 変えてみる

自分が 暗く沈んだ気分でいると

街を行く周囲の人たちが

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こんなふうに見えてしまうときって 確かにある

鬱の人なら もしかして そのとき自分に

離人感覚が 湧いていたりもするしね

 

ガラス1枚隔てた 向こう側の世界では

皆がこういうふうになれているのに と思えて

 

そして そう感じた瞬間に またどうしても やってしまう対比

ひるがえって我が身を見ると 自分は

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となっている

 

もしかしたら真ん中のぐるぐるした気持ちさえ

もっとドブ色で 汚くて ぐちゃぐちゃで

冴えなくて 黒くて どうしようもない人間だなと

そんな感覚に陥ってしまうのだ

 

でもね だからといって

『普通の具合』の人はきっと その普通の状態がわりと

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になっているに違いない と 決めつけて想像するのは ただの色眼鏡

 

普段からこんな感じという方は きっと本当に まれな存在だよ

悲しみも苦しみも 喜びもうれしさも

ただ 通り過ぎていくものだと

達観している人でないと たぶん無理

 

普通のときは皆 内側で 別にキラキラまではしていないと思えるし

自分が何色かの感覚さえ 別につかんでいないだろう

 

見ている他者 つまり『外側の人』が 相手にイメージを色づけするんだよね

さらにそこへ 自分に合うか合わないかでいろいろ 『そう見える理由』をくっつける

怒る方面なら たとえば

調子に乗っちゃって

やってないくせに

わかってないくせに

体験してないくせに

この思いを知らないくせに 

気づかないくせにサボってるとか

 

逆に普段から 好印象持ってたら 

自分とは違う意見を言われても 

そう来るか やっぱりあの人 さすがだわ とか 思うかもしれないよ

 

まあ それもよくある話なんだけどね

 

でもサボっているように見えるのは

あなたが逆にやり過ぎてる部分 あるかもしれないし

体験しなければわからないというのも 一種の罠でね

 

前にも話したかな あるお客さんがね ある広告での赤ちゃんの文章描写について

「生まれて2ヵ月経たないうちに こんなに手足を動かすはずないでしょう!」

っておっしゃったのよ

でもそれはたぶん その方の知っている赤ちゃんが たまたま大人しかっただけで

私はその当時 うれしいと積極的に 手足をぱたぱたさせる新生児も

保育器に頭をぶつける未熟児がいることも

たまたま 知ってはいたんだよね……

ま 修正しても問題ない箇所だったから 黙っておいたけどさ

 

ね? 経験していることで 逆に視野が限られてしまう可能性だってある

あなたが知っている世界が 決してすべてではないし

ましてや あなたがやっているから偉いわけでもなく

やれていないから「下」であるとも限らない

 

決めつけていくことで 起こる齟齬 ズレ

自分が自分で見えなくさせてしまうこと

まだ知らない世界があることに 気づけなくなること

それって もったいないと 思わない?

 

知らないことを 即 恥だとか 程度が低いとか 自己卑下しちゃうのも

知る機会そのものを 自分で減らす可能性あるよね

恥をかくのがイヤで 知りにいこうとしなくなるかもしれないから 

それ なんか 食わず嫌いみたいになってしまってないかな?

 

もし外がキラキラに見えて 自分の内側が黒かったら 

キラキラしたそこへ入る『資格』が自分にはないなどと感じるのも

勝手な卑下 に なり得るよ

そんな資格証 誰が持ってるのよ と言われたら 困っちゃうかな

 

当たり前なの

身体が 心が辛ければ

普通よりは暗くなるときもある

悲しくなるときもある

 

だからといって

他の人よりうれしいことが自分には少ない と最初から決めつけてしまうのも

うれしいことを見逃す習慣 身につけていってしまうかもよ?

 

初めて通った道 その道端の花が 可憐に咲いていて それに気づいて

おや めぐり会えてよかった って思えたりもする人のほうが

そりゃ 日々の中でうれしいこと 増えてるよね

 

それが毎日 必ずできるとは限らなくても

できるときに見渡してみること やってみたらいいだけだし

 

そんなくだらないうれしさなんて! ってハスに構えているとしたら

それこそどんどん さらに大きいことも見逃す練習 積んでいるかもよ?

 

もうね苦しくなったら 心の中で

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こんなの 浴びてみることにしてもいいのよ

お日さまの光って 絶対 誰にでも分けへだてなく 降り注いでくれるでしょう

あれって色分けすれば虹色だから まさにこんなのを 降り注いでくれてる

プリズムの実験 見たことあるよね?

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お日さまの光は 本当は身体のなかにまで降り注いでくれているから

キラキラしたもので自分が満たされるの イメージしても 別に間違いじゃないの

 

そんなことできるか! と思えるなら

もっと具体的に 広い明るい草原でも思い浮かべて

そこにいる自分を イメージするのはどう?

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私たちは映像に慣れているから

こういうビジュアルを使って 考えること自体を やめてみる練習もできるよ

 

もし 誰かの苦しみを感じているなら

その人の苦しみを 自分は背負えないと悲しむのではなく

その人の問題は その人が解決できることをちゃんと信じてあげて

キラキラしたものに その人が満たされているのを 祈ればいいと思えるよ

 

そんなふうに 誰かが祈ってくれたら

あなたもまた うれしいよね?

だから やってみていいのさ 単純に

 

自分の中に存在する 力は

イメージする ということでも 発揮できるの

 

子どもだましみたいでもいいじゃない

それで自分が 少しは気分変えられたり 落ち着けるなら

イメージも使っていいと 私には思えるよ

 

気が向いたときでいいから よかったら

ちょっとずつやって 上手に 使えるようになってみてね

 

Photo by

1,3,4 : Blogging Experiment

2 : Webastuces SARL

5 :  Pixabay

6 : Un ragazzo chiamato Bi
    ID : 201405192000
    GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

都合のよい実現

自分の「望み通り」を叶えたい。

誰だってそういう意識を、部分的にせよ、持っていることだろう。

 

ただ、そこ「だけ」を叶えたいのに、とかいう形にしてしまうと、

いろいろなものが自分の『想像』からは

都合よく、抜けていってしまうことがある。

 

そしてなぜ、こんな余分なことまで起こるの? になったり、

ときにはとても『自分にとってだけ』都合のよい理想形を描いてしまって、

実現すること自体をややこしくしたり、難しくしたりすることになる。

今日はそんな話。

 

たとえば、「認められたい」って気持ちがあるとするよね。

あ、私を例にしてみようかな。私もその気持ち、あるからね(^◇^;)

 

そのときあなたは、誰から認められたいか。

私の場合はまず、会社と友人から、つまり身近な社会から認められたくて、

さらに、そうなりたい理由の『本当のところ』は、

自分の母親にそういう姿、

「社会的になんとなく成功している自分」を見せることで、

勝手に家を出た(といっても就職した勤務先が実家から通えない距離だっただけだが)

と、ある面では非難された自分のことを、認めてもらおうとしていた。

 

ほら、(それなりの範囲で)立派でしょ、

ちゃんとやって幸せになってるでしょ、

単に親不孝したわけじゃなかったでしょ?

と、見せつけたい&見せて安心させる、の両方。

 

まあね、偏っておりましたことよ、ええ、なんともね。

 

で、それを叶えようとやり過ぎて、ボッキリ折れてから、

そんな形で「自分の人生」を、別につくらなくてもいいのだと知り。

 

どうやったらもっと、自分を「自分一人だけ勝手に」ではない形で

楽しませられるのかなー、という試行錯誤を、できるようになった、と。

 

今の母親は、怒っている部分と、心配している部分、の両方を持っていることでしょう。

なので、ありがとう、そのうちの『愛』の気持ちだけ受け取って、

あなたに何かを「示す」ためには生きません、おゆるしを。

結果的にそこにつながれば、なお良しだけれどね、

私自身はもう、それを目標には設定しないのだ。

なぜなら、面倒だから。

 

ああ、何とも端的な表現でごめんなさい。

でも、相手の都合のために、相手『だけ』が心地よさを感じられるように、

それに合わせて自分を変えるの、本当に面倒になった……相手が親だけに、余計に。

 

たとえばね、仕事上での一瞬、あるお客さまの場合には仕方ない、とか

そういう方便のひとつとしてね、キャラクターも変えますよ、

なんていうシチュエーションならば、まだともかく。

 

それこそ生活全般、生き方全般に至るまで、指南(?)された通りを

完璧に実現しようと望んで生きるのは、それ、

私は誰のために何を求めて生きてるんだよ

ってなっていたことに、やっと気づいたわけ。

 

まあ、ちょっと話はズレたけど(笑)、

今はそこをちょっとずつ、クリアにしていけて、

割り切りする部分もできたよ、と。

 

それと同時にね。

ただなんとかそこそこ、立派になろうという部分だけでなく、

私の場合なら、どうしてもこの仕事をやりたいから、と、

道なき道を自分で探って作って、切り拓いていった部分、あったのさ。

特に社会人、初期の頃ね。

 

それはまあ、単純に、自分のためにやっていたこと。

どうしても望んだ部署に入りたくて、思いつく限りの働きかけはやっていた。

 

そもそも、その部署を目指して入社して、

部署のあるエリアで働きたい、という希望を出して、

泣く母親を振り切って家を出た、という意識も、自分の中にあった。

だからこそ余計に、その希望を実現させたかったのだろうと、今なら思える。

青くて、肩肘張っていた時期。

 

ま、そうやってバリバリに一直線で目指せば、

それなりに徐々にアイデアも思いつき、道なき道でも歩んでいけた。

たとえればそれは、熊笹が生えまくりの山中で山頂目指して歩いて、

鎌でいちいち笹を刈りとって道を作りながら、

おお、この木の周辺なら、熊笹もなぜか少ないのね、とかいう見分け方も、

だんだん知っていく感じ。

そういうのを、やっていくうちにわかっていったのだ。

 

でもさ、そんな『道なき道』をたどるとね、その後で、

その部署へ異動したいがために、こっそりアタック(働きかけ)した人たちに

妙に気に入られたりして、やがては、はい? と思えるような、

話の広まり方もするわけ。

 

上の人達が「コイツ、根性あるよ」と

堂々とほめてくれるのはうれしかったけれど、

当然、それが気に入らない先輩方も登場するわけさ……。

 

そんな形での目立ち方とか評価とかまでは、私、望んでなかった、もちろん。

その部署の、あるチームへ行けさえすればよかったのだもの。

 

でもさ、今から考えれば、そんな道なき道をたどれば、

それを知った人からは、そう言われる可能性、当然、生まれるよね。

私が目指すモノだけ見つめすぎてて、そこまでは想像できてなかっただけで。

 

ハッキリと認められたい(=異動したい)けれど、

嫉妬はされたくない、というのは、私だけの都合。

「ポッと出」の新人がいきなり異動できて、そこの役員にほめられたら、

そりゃ調子のってる! と捉える人もいるわいな。

 

ま、幸い、それらの先輩方は、私がスルーできる関係だったからよかったものの、

直属の上司だったら……たいへんだったと思う、さすがに。

 

あのときの、自分のバイタリティーそのものは、今でも否定していない。

でもそんなふうに集中して、叶えようとだけしすぎて、

私も周りが見えなくなっていただろうなあ、とは思う。

 

また、周りも周りで、私も認められたいのに、とか、面白くない、とか、

その人の都合や問題、かぶせてくるのよ。

 

だからそのときは

それ、私の問題じゃないし

ということを、ハッキリと意識したほうが、

よほど早く、楽になれると思う。

 

いちいち反応してつられてしまうと、自分も苦しいし、

場合によっては相手にも

「私のために変わってくれるんじゃないか」

というヘンな期待を抱かせて、余計にあとからややこしいことになる。

 

そう、私の、超・頭の良い元同僚が、東大の学生だった時代に

同級生にストーカーレベルでつきまとわれて、しかもそのとき相手から

「そんなふうにひどく怒るというのは、僕のことをそれこそ気にしてる証拠だよ。

だからちゃんと付き合おうよ、そうしたら君も僕のことわかるよ」

と、延々、主張されたらしいのよね……。

私も似たようなことをストーカーから、怒ったときに言われたから、

2人で「相手に反応、返したから、そうなったんだよなあ」と、

当時、しみじみしていたのであった。

 

ま、単純な例ではあったけれど、

何だか余計なものを呼び寄せてるな、と気づいたときは、

自分もまた、見えてないのかもしれないから、

ちょっと落ち着いて、周囲を見渡してみても、いいと思えるよ。

サクッとできるようになるわけではないことだけれど、

自分なりに練習は、できると思えるから。

 

少なくとも、欲しいものだけに集中しすぎてしまうと、

自分で自分の視野を限ってしまうことがあることは、

知っていてもいいと思える次第です。

 

2015_04_24

Photo by KatrinKerou
Pixabay

 

「こんなはず」とは どんな「はず」?

こんなはずじゃなかった?

そうなんだ

じゃあさ それ どんな『はず』だったかな

 

相手もひとりの『人間』だということ 無視してた?

自分もひとりの『人間』だということ 無視してた?

 

あなたは 相手に 自分に

どんな想像を 理想形を 求めていたのだろうね

もしかしたら ゴメン キツイ言い方だけど

何の理想形を 押し付けようとしてたのだろう?

 

あなたの頭の中にある

その『こんなはず』という夢

もしあなたが 誰かから同じように

「あなたは こういう人だよね こうなるよね」と 一方的に押し付けられたら

それ 苦しく感じないかな

つらくならないかな

何を勝手に とか 表面だけ 一部分だけ見て とか

腹立たしさも ときには感じたりしないかな

 

こういうの 他人にされたら わかるんだよね

頭の中の 想像だけで 違うのにと判断されたら

自分はとても 居心地 悪いってこと

 

なのにあなたは 実は他人へ

本当はこうあるべきなのに! こうなってほしいのに!

を こっそり押し付ける

 

さらには 自分に対してになると

途端に盲目的な 上から目線

 

本来なら こうなるべきはずで

これができるべきはずで

こうならなくては いけなくて

 

うん まあ ね

おとぎ話の中でなら

王子様なら こうあるはずなのに

お姫様なら こうふるまうのが当たり前なのに

これが できなくちゃいけないのに

そんな雛形のイメージだって あるかもしれないけれど

 

上司なら 親なら パートナーなら 子どもなら 友達なら 後輩 先輩なら

そして自分なら

 

はいはい 頭の中に浮かべていた想像をぐいぐい押し付け 

相手の実際の反応と 並べて比較して

自分を または相手を 常に採点して

批評 評価 反対 妬み さらには反省 落ち込み 罵倒?

さて お次は何しよう だね

 

疲れるだろうね それ

相手にも 自分にも 想像上の夢を 常に当てはめ 押しつけてみて

 

それでもなお 私は世の中の役に 誰かの役に立ちたいとか?

でもそのやり方 何をどうしたところで

『自分は』疲れるよね 必ず

なぜなら相手は必ずしも 想像通り動かないから

 

100人いたら 100通りの性格があるから

そりゃあ 全部を予想するなんて無理だし

相手がどうなるか どう感じるか どう受け止めるかばかり 想像していたら

いろいろなズレが起こって 苦しくもなるよね

 

あのさ あなたと相手は違う人だから

あなたの予想って 外れるのが普通かも しれないくらいだし

望んでるもの 必ず返してもらおうと尽くすのも いい加減 無理あるよね

それ 取引してるだけだもの 自分に好みのモノを 相手から返してもらうために 

自分と相手の違いを 埋めようとする作業ばかりになる

 

違い あっていいんだよ

自分との違いを 自覚するために 使って

自分が何を大切にしているかを

自覚するための材料に すればいい

相手の問題なら 放っておいても いい

 

自分を 疲弊させてまで 

自分の理想形を押し付ける必要 あるのかな?

相手の理想形 叶える必要 本当にあるのかな?

 

もっと自分がワクワクできるよう

自分自身を そのために動かす練習のほうに

集中してみるのは どうしてそんなに

いけないのだろうね

 

誰かと一緒に なんとかして うまく過ごせなければ

人間失格なのかな?

自分を見失ってでも 相手との取引ばかりに夢中になれないと

果たして 人間失格 なのかな?

 

そこが違うと 私には 思えるよ

そこがズレてるから 他人のことしか気にできなくて

いちばん大切にしなければいけない

いちばんに肝心な自分を

雑に扱うしかなくなるのだと

私には 思えるよ

 

他者との 完璧なよい関係

そんな夢の世界に振り回されること自体を

そろそろ やめて

自分との関係 作り直してみない?

他者との 素晴らしい関係の前に

自分との よい関係 作り直してみない?

 

自分を 大切にするということが 何なのか

本当に そろそろ……知ってみない?

 

それともまだそんなもの 知る資格なんてないと思い込む世界で 

『自分嫌いの今』を 続けていきたいかな?

 

2015_04_21

StephaniePetra
ID:201402181300
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