カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

内側の種。

ま、単なるお節介なんだけどね、話しかけ……。

今日はそこから始めてみよう。

 

ご自身のことを、

スーパー

自由

優雅

などと、いろいろ言い張っておられるわりには、

お金や閲覧数にめちゃくちゃ執着されておられることが

丸わかりの記事タイトルであるというのは

いったい、どういうことでしょう?

 

ちっとも自由でないし

ちっともスーパーではないよね、

くつろぎ、見えないもの。

 

自慢が「必死っぽさ満載」だし。

めちゃくちゃ内心で、何かに縛られまくりですよね。

 

しかもそれ、自分で選んで縛られておられますよね。

それがいい! とか表面上は言い張りながら、

本当にいいか、ご自身でドギバグされていて、

心のなかでは努力しなけれぱ『ならない』だの

これを乗り越えていかなければ『ならない』だの

ギュウギュウに、ご自分を縛っておられる。

 

執着から「~ねばならない」と感じること。

それは恋愛でも、家族や友達等の身近な人間関係でも、

仕事でも勉強でも、本当に

いろいろな場面で起こりうる事態ではあるけれど。

 

他者を貶めず、自分を貶めすぎず、

素直に『改善』を悩んでおられる方のほうが、

よほど好感が持てるし、そっと応援したくなるものですよ?

 

お金という執着の、その奥にあるのは、

自分が認められたい、の気持ちであって、

認められたい、の気持ちのさらに奥には、

自分が幸せになりたい、がある。

 

なのに、なんでそんなに狭い狭い視点のみで、幸せを探すのだろう?

見渡してみたら、違う幸せ、あるんじゃない?

外側に何かくっつけることばっかり、夢見てるけど、

あなたが『幸せを感じる』とき、

その感覚って、当たり前だけど

あなたの外側の部分でなくて

あなたの内側で起こってくるよね?

 

なのにどうして、外側の夢ばっかりで自分の内側を見捨てて

そんなふうに、ないがしろに扱いまくれるのかしら。

 

と、最近、ミョーなペタや読者登録が増えてきたので

(更新頻度が上がったせいだろうな)、はっきり宣言しておくよ。

 

私を含めて、他者は、あなたの幸せのために利用されるべく、

存在しているわけではないから。

幸せは、本来、分かち合えることでもっとうれしくなる種類のものだから。

 

どんなに「出してる」「提供してる」ふりしていても、最後でいつも

「私にそれ、ちょうだい」しか言わない人が(私にはそう感じられる)、

他者と『一緒に』幸せになれるの、難しいよね?

 

仲間とか言いながら、結局いつか、出し抜くことになったり、出し抜かれたり。

で、利用されたとか、怒ってみる?

もともと自分のほうが、他者を利用しようとしてるのに。

 

そんな視点に縛られて孤独なまま、勘違いしたまま、

たとえばお金を得てみれば、わかると思う。

今度は失う恐怖感にずっと縛られて、ますます孤独になるから。

これ、他の外側のものでも同じだけどさ。

 

ねえ。

外側に何かをくっつけるのでなく、

自分の内側からあふれ出すもの、使えばいいんじゃない?

そっちを求めるほうが、よほど『幸せ』に早く近づいていけると、私には思えるよ。

 

そのために、自分というもの、見直してみる作業、してみてもいいんじゃない?

嫌な部分を否定しまくって、見ないふりばっかり、してないでさ。

 

クレクレな方たちからどうも最近、求められるように思えてきたので

(もしかしたら世の中がいろいろ不安定だから、

よけいにそういう人が増加しているのかもしれないけれど)、

これが、私が書いてみたくなった『私に出せるもの』です。

 

あなたのその内側の痛み自体の「視点の偏り」に、

いつか、気づける日が来ますように。

そんなに「クレクレ」と求めなくても、あなたの中には“すでに”あるよ。

あなたにとっての『幸せの種』が、たくさん、ね。

きっと芽を出したくて、ウズウズしながら、あなたを待ってるよ。

 

どうぞ、どうか、それに気づいて、

どうぞ、いつか、お幸せに……m(_ _)m

 

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Photo by Hans
Pixabay

 

普通に「いい人」

自分がどう思われるかを気にするあまり、

周囲の人(家族も含む)を見張ってコントロールしようとしてみたり

(そこに、家族をも利用して自分を良く見せようとする心理は、働いていない?)、

あるいは自分のことを見張って毎日毎日、採点ばかり、

1日平均10回はやってるんじゃないか、という方へ。

 

格好いい、頭の回転がいい、等々、

『○○がいい』を目指すのは、そりゃまあ、個人の自由だけど。

 

そんな到達目標云々以前に、

自分のこと、もっと普通に『なごませて』あげたらどうかな。

 

自分のことや他者の反応見張ってたら、笑顔なんか出ないよね。

頭の中、いっつも採点で必死だし。

見張ってて、少しピリピリしてる空気感、出してるよね、きっと周囲に。

 

ねえ、その状態で、どうやって他人からバッチリ好意的な評価、もらえるの?

いつもピリピリしてる方向の空気感の人、あなたは好き?

 

それにさ、そうやって見張るってことは

つまり同時に『自分がどう思われるか』を見つめまくる、

いつもその答えを、視線や思考をめぐらせて求めてるんだよね。

ってことはさ、それ。

結果的に、自分のことしか頭にない状態……ってことにもなるよね。

 

周囲を気にするあまり、

『結果的に』自分のことしか捉えない。

 

普通さ、自分のことしか考えない人のこと、

あなたは「自分勝手」と表現しないかな?

 

とくに何か主張するわけではなくても、内心、すごくビクビクしてても、

やってることは『結果的に、自分勝手』方面。

そりゃ人間関係も、よけいに、いろいろ難しくなりそうだよね……。

 

そんなことより、

今日は日差しが心地いいなー、とか、

花が咲いた-、とか、

このご飯、ツヤツヤでおいしい! とか、

あ、あの、猫、カワイイ! とか。

 

小っちゃい小っちゃい、うれしいこと、

いっぱい探して、自分が受け取りなよ。

そっちのほうにもっと、アンテナ張りなよ。

 

そうしたら、自分が単純に、楽しくなっていけるから。

 

まさか「自分がうれしくなんて、なってはいけない!」っていう縛りを、

自分につけていないよね? 

苦しいからこそ、ときに自分を罰したくもなるのに、

最初からそんな制限つけてたら、

苦しいまま、罰して、よけい苦しくして、さらに罰したくなって。

それ、何も変わらないよね。というか、悪化させてるよね、状況。

 

小さいことでうれしくなれたら、肩の力、ふっと抜けたりしない?

肩にバリバリ力を入れまくったまま、

小さなうれしいことを味わっている人、

少なくとも私は、見たことないよ。

 

肩の力を抜いて、そのときは、

「見張るもの」あれこれも、その時間も少なくして、

うれしかったなー、なんてふうに、自分の中で反芻でもしててごらんよ。

ほんわかした笑顔気味の人に、だんだんなっていくし、

周囲にもそう見えてくるから。

 

そんなふうになっていて、

いつも笑顔気味の人がさ、たとえば、ぼそっとしたひとり言で

「このジュース、おいしい……」ってつぶやいたら?

なんか、それだけで場の空気感、なごむ感じがしない?

それを「聞いた人」が、なんとなく微笑ましく感じるんじゃない?

 

そうやって結果的に、あなたは『なんとなく、いい感じの人』になっていく。

周囲が、あなたの柔らかさを、意図しなくても、自然に受け容れていく。

結果的に、そうなる。

やっていった『あと』で、そういう雰囲気が生まれるのよ。

 

格好いい人、みたいに『○○がいい人』に憧れまくって、

今のように、ただ苦しいままでいるより、

まず『普通にいい人』に、なってみればいいじゃない。

自分がちょっとずつ、いつもうれしくて、周囲も勝手になごめる人。

ピリピリした空気感、とくに発しない人。

 

そんな人には何が何でもなりたくない! とか格好つけて、肩肘張って、

自分と周囲を見張るあまりに、心の中ですぐ文句言ってみたり、

恐ろしくて他人に背を向けたり、オドオドしているよりは、

普通にいい人、のほうが、

自分がよほど、苦しまずにいられると思えるけどな……。

 

それがわかっていてもまだ、あなたは『平凡、平均なんて嫌だ!』と望み、

達成できない自分と、認めてくれない他者をいつも、心のなかでにらみつけながら、

延々、ピリピリし続けるほうを選んでいくのかしら。

 

普通にいい人、1ヵ月くらいやってみなよ、

たぶんそれ以前のあなたのイメージなんて、他者は忘れていくよ。

そして「普通にいい人」が、あなたに対する、普段の印象になる……。

 

『○○がいい』という夢を叶えるの、そのあとでも良くない?

 

他人と自分、他人と自分、自分自分自分、採点、自分、他人、自分

とかいう視点じゃなくて、

人間以外の他のものも見渡して、そっちのほうで、

先に自分をラクに呼吸させてあげたらどうかな?

小さなうれしいことを、出会えてありがたく思って反芻するだけでも、

今よりは少なくとも、あなた、変わるんじゃない?

 

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Photo by a-mblomma
Pixabay

 

私は「自分自身から」どう思われたいか

ふと思い立って、タイトルのことについて、

自分の思いや考えを、感じてみた。

 

まず今、私は私に「どう思われているのか」。

私にはまだいくつも、自分を批判している部分があって、

その「批判している私」は、

では、どうすればいいか、

という部分は何も語らず、ひたすら私を責めてくるように感じた。

 

何かを「した」という、その選択理由については一切触れず、

結果を採点するだけの人間。

 

あ、した、というのは「実際に動くこと」だけを指すわけではない。

そこに「何もしないでジッとしていた」ことも、含めたいのだよね。

なぜならそれもまた、

ジッとする

という身体や気持ち、のほうを

選択した、と言えるから。

つまり私にとっては、行動、行為の、選択枝の一つだと思える。

 

で、ならば私は自分自身から、

いったいどう思われたいのだろう、と、

それをつらつら、書き始めてみた。

 

そうしたら、最初に出てきたのは、

見栄を張りたい、にもつながりそうな、

そういう方向の言葉だったよ。

 

それでちょっと驚いて、ん? 私は、

自分自身から

表面的にいい奴(できる奴)と

思われたいのか!?

という疑問に辿りつき。

 

それはなんだか、ちょっとズレてるし、

上っ面な『自分がこうなりたい』は、やっぱり、

くだらないことにもつながりやすいように思えてきて、

うん、なんか違うよなー、と。

そんな「自分がかぶりたい仮面」みたいなことじゃないな、と感じた。

 

そこから、じゃあもっと根本的な部分で、

自分自身から、どう思われたい?

って尋ねて、書き出していったら。

 

最初に出てきたのが

「後ろめたさのないようにしたい」で。

 

ああ、どこかで、

卑怯

と自分のこと、捉えてるのかな。

 

そして、なら、自分に対して後ろめたくない私、

って、なんだろうと思えて……。

 

はい、今は、そこでいったん、

ペンを置いて、この記事を書いています。

 

こうした掘り出し、なんだか、とても大切なことに思えたのです。

 

究極的……いちばん根本の部分で、

「私はこれを選ぼう、

これを自分のいちばん最初の方針にしよう」

という視点のところにまで、今後、

いつかは、たどり着けそうな気がします。

 

誰かに対する「どう思われるか」でなく、

自分に対しての自分、

という捉え方をしてみるとき。

 

「見栄」にもつながる言葉を書き並べた、

そんな自分をクスッと笑えたりしているから、

これを掘り起こしていけば、そのうち、

私にとっての「いちばん大事」は何なのか、

探れることができそうに思えるのです。

 

で、そうやって根本部分にまで落とし込んだら、

それを大前提の基本方針として、

今度は逆に、

「私はこういうとき、何を選択すればいいかな、

大前提はこれだよ、忘れないで、私」

というふうに、具体的に使う練習に、移れるかも、と。

 

たぶん、予想だけれど、

『愛』や『ゆるやかさ』『温かさ』『穏やかさ』

何かしら、そういう方面のことが前提となり、

そこから、それを基本に、日々、どう選択していくか、につながるのだろう、と、

自分で予想している次第。

正義 は、怒りや憎しみにもつながりやすく、主張ばかりで疲れそうだしね……。

 

『自分に対する理念』

『自分についての、生き方の方針』

『自分という人間の行動方針』

を見つけてみることは、

自分という人間の「目を気にする」ことにもなるのでしょう。

 

そしてきっと、そのために、

ときには逃げる、とか、ジッとやり過ごす、

という、一見、良くはなさそうな選択枝も『アリ』になるでしょう。

そんな予感。

 

自分を、より、大切なものと感じたい。

その視点から、それらを選ぶこともありえると。

 

ということでもう少し、時間をかけて丁寧に、

自分にこうした質問を投げかけ、嘘をつくことなく深めて(卑怯、ヤダからね)、

自分のことを別の角度から見直してみたいと思えます。

 

2015_03_13

Photo by geralt
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