自分がどう思われるかを気にするあまり、
周囲の人(家族も含む)を見張ってコントロールしようとしてみたり
(そこに、家族をも利用して自分を良く見せようとする心理は、働いていない?)、
あるいは自分のことを見張って毎日毎日、採点ばかり、
1日平均10回はやってるんじゃないか、という方へ。
格好いい、頭の回転がいい、等々、
『○○がいい』を目指すのは、そりゃまあ、個人の自由だけど。
そんな到達目標云々以前に、
自分のこと、もっと普通に『なごませて』あげたらどうかな。
自分のことや他者の反応見張ってたら、笑顔なんか出ないよね。
頭の中、いっつも採点で必死だし。
見張ってて、少しピリピリしてる空気感、出してるよね、きっと周囲に。
ねえ、その状態で、どうやって他人からバッチリ好意的な評価、もらえるの?
いつもピリピリしてる方向の空気感の人、あなたは好き?
それにさ、そうやって見張るってことは
つまり同時に『自分がどう思われるか』を見つめまくる、
いつもその答えを、視線や思考をめぐらせて求めてるんだよね。
ってことはさ、それ。
結果的に、自分のことしか頭にない状態……ってことにもなるよね。
周囲を気にするあまり、
『結果的に』自分のことしか捉えない。
普通さ、自分のことしか考えない人のこと、
あなたは「自分勝手」と表現しないかな?
とくに何か主張するわけではなくても、内心、すごくビクビクしてても、
やってることは『結果的に、自分勝手』方面。
そりゃ人間関係も、よけいに、いろいろ難しくなりそうだよね……。
そんなことより、
今日は日差しが心地いいなー、とか、
花が咲いた-、とか、
このご飯、ツヤツヤでおいしい! とか、
あ、あの、猫、カワイイ! とか。
小っちゃい小っちゃい、うれしいこと、
いっぱい探して、自分が受け取りなよ。
そっちのほうにもっと、アンテナ張りなよ。
そうしたら、自分が単純に、楽しくなっていけるから。
まさか「自分がうれしくなんて、なってはいけない!」っていう縛りを、
自分につけていないよね?
苦しいからこそ、ときに自分を罰したくもなるのに、
最初からそんな制限つけてたら、
苦しいまま、罰して、よけい苦しくして、さらに罰したくなって。
それ、何も変わらないよね。というか、悪化させてるよね、状況。
小さいことでうれしくなれたら、肩の力、ふっと抜けたりしない?
肩にバリバリ力を入れまくったまま、
小さなうれしいことを味わっている人、
少なくとも私は、見たことないよ。
肩の力を抜いて、そのときは、
「見張るもの」あれこれも、その時間も少なくして、
うれしかったなー、なんてふうに、自分の中で反芻でもしててごらんよ。
ほんわかした笑顔気味の人に、だんだんなっていくし、
周囲にもそう見えてくるから。
そんなふうになっていて、
いつも笑顔気味の人がさ、たとえば、ぼそっとしたひとり言で
「このジュース、おいしい……」ってつぶやいたら?
なんか、それだけで場の空気感、なごむ感じがしない?
それを「聞いた人」が、なんとなく微笑ましく感じるんじゃない?
そうやって結果的に、あなたは『なんとなく、いい感じの人』になっていく。
周囲が、あなたの柔らかさを、意図しなくても、自然に受け容れていく。
結果的に、そうなる。
やっていった『あと』で、そういう雰囲気が生まれるのよ。
格好いい人、みたいに『○○がいい人』に憧れまくって、
今のように、ただ苦しいままでいるより、
まず『普通にいい人』に、なってみればいいじゃない。
自分がちょっとずつ、いつもうれしくて、周囲も勝手になごめる人。
ピリピリした空気感、とくに発しない人。
そんな人には何が何でもなりたくない! とか格好つけて、肩肘張って、
自分と周囲を見張るあまりに、心の中ですぐ文句言ってみたり、
恐ろしくて他人に背を向けたり、オドオドしているよりは、
普通にいい人、のほうが、
自分がよほど、苦しまずにいられると思えるけどな……。
それがわかっていてもまだ、あなたは『平凡、平均なんて嫌だ!』と望み、
達成できない自分と、認めてくれない他者をいつも、心のなかでにらみつけながら、
延々、ピリピリし続けるほうを選んでいくのかしら。
普通にいい人、1ヵ月くらいやってみなよ、
たぶんそれ以前のあなたのイメージなんて、他者は忘れていくよ。
そして「普通にいい人」が、あなたに対する、普段の印象になる……。
『○○がいい』という夢を叶えるの、そのあとでも良くない?
他人と自分、他人と自分、自分自分自分、採点、自分、他人、自分
とかいう視点じゃなくて、
人間以外の他のものも見渡して、そっちのほうで、
先に自分をラクに呼吸させてあげたらどうかな?
小さなうれしいことを、出会えてありがたく思って反芻するだけでも、
今よりは少なくとも、あなた、変わるんじゃない?
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