カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

自分を好きになる という責任

私のことを 好きでいる そういう気持ち

これを 他者にばっかり求めて

自分は自分のこと嫌いだから

好きになるようには まったく努力しないでいる人

けっこう いたりするよね

で その人はいつも 言い訳するの

そんなのできないし 他人にやってもらわなきゃ 自分では無理だし って

これ ある種の責任放棄だよね 自分をつくっていく責任 という部分でさ

自分という人間をわざわざ 自分で低くみて

それで他人から 甘い言葉と 心配りと 愛情を 受け取ろうとする

しかも 人として 生きていくなかで

私が「私自身」に与えていくはずの分を 全部

「あなたが がんばって 私の分まで 私に与えてね」って

甘えてることにもなっちゃう

うん そりゃ 時間かかるだろうねえ

それってさ 何人の人から 何年かければ

欲しいだけの分 全部を 受け取れるのかしら?

あなたは 自分を愛することが できるのに

そんなの「自己満足の一種だからいらないもん!」って

わがまま言ってるんだよね

そもそもさ 自分を好きにならず

そのまま 無視して 放置して

どうやって 他人を愛せるんだろうね?

だってさ 自分を見捨てたままって つまりは

自分が「与えられる愛」の 温かさの度合いも 知らないままだし

どんなものを与えているかも わからないまま ってことでしょ?

それとも愛情って

くれるなら こっちもあげるよ の 交換ごっこをするもの?

いやいや それ 交換でなくて

「戻してもらうの前提」の 取引になってるでしょう

だから 自分が欲しい分だけ 相手からもらおうとしたら

いっつもいっつも あなたが余分に 差し出さねばならないよね?

無理して 無茶して 相手の言うとおりに とか 過剰に とかね

そうじゃないと 思った分量の愛情が 相手から 還ってこないから

もしかしたら めちゃくちゃがんばっても

ほんのちょっぴりしか 還ってこないから

そしてさらにまた 自分を無理させるの

還して欲しいから 自分の愛情 大安売り

それでいつも 不満 あるいはずっと 自分が嫌いなまま

うん ねえ それ いつ気づくのかな?

自分を好きになり 自分をいたわり 優しくなれる

これって自分勝手に「自分のことだけ好き」になるわけじゃないよ?

まったく その 正反対なんだよ

自分を大切にしていいとわかるから こそ

他人をも 本当にきちんと 尊重できる

そういう いたわりの気持ちに つながるものなの

自分さえよければ って感じで 他者を傷つけまくる人は

実は自分のこと 全然 認めてません はい 本当の話

そのことに気づけず 他人に転嫁してるバージョン なだけでね

愛してよ愛してよ 認めてよ 愛してよ の連呼

自分を愛せてはいません 嫌ってます ぶっちゃけ

「自分のことって 好きでいいんだな うん よかった」

そういう心があれば 「自分からあふれるもの」を

ちゃんと 他者に 渡せるようになるの 自然に ありのままにね

自分に 嘘をつかないで 大切にする そして相手をも 尊重する

それが始まると 相手にも それが伝わっていくの

するとね 相手も 無理しないで済むとわかるから

自分を尊重しつつ こちらへ ちゃんと還してくれるの

自然に 相手からあふれるものを ありのままにね

そうやって 男 女 親 子 そんな立場には関係なく

人間 対 人間 で触れ合えて 真摯に 信頼しあえるの

そこからだよ やっと

お互いを 傷つけないで済む 静かな模索が始まるよ

……たまに なかなか伝わらない相手も いるけれどね……

甘えすぎになりやすい関係……親子とか夫婦とか……

でも まあ 通常 けっこう 届きます

時間がかかったとしても いつか

その関係性 の いちばんの基本は

私は 私を尊重し それと同じくらい あなたも尊重する

あなたは あなたを尊重し それと同じくらい 私を尊重する

そういう お互いの姿勢 だよ

どちらかが 始めることで そういうふうに 変わっていくもの

だから 自分で自分への愛情を 何とかしようとせず

人からばっかり 何とか受け取ろうとし続ける限り

あなたは 他者からの「本当にあふれるもの」を 受け取り損ねる

だって その関係を作る前に 自分を捨てて尽くしまくって

その代わりに「これだけがんばったんだから ちょうだいよ!」と

相手のところへ まず奪いに行こうとするから

関係性としては 先に取引が始まってしまって

お互いに あふれるものを与え合う関係が 成り立たなくなるの

本当に 温かく ときに厳しく でも信頼できる関係を作りたいなら

まず 自分を 自分で愛せるように 努力したほうがいいんじゃない?

そこを何もしないまま 相手からだけ

しかも 人間関係におけるステキな「あふれるもの」を

自分だけ 受け取ろうとするのは

さすがに正直 ずるい とさえ 私には思えるよ

まあ普通は そんな関係 成り立たないけどさ……

あなたが ずるくなる分だけ 必ず相手もずるくなろうとして

たいていは 奪い合いの「認めてよ 還してよ」ごっこに変質していく

厳しくてごめんね でも 本当にそうだから

どんなことがあったとしても 人は まず 自分を 愛していいのだから

過去に何があろうと 今から いつでも

やり直して 練習して いいのだから

それがあって そのうえで 静かな信頼関係を深められるほうが

自分にも 相手にも うれしさが続くことのほうが 多いから さ

それがわかり始めるとね

友情も愛情も すごいよ 本当に

勝手に ありがたいものへと 変質していく……

 

 

 

自分の幸せは他人任せ?

自分が「○○できない」と自己否定し、

他者からの「容認」で自分を認めようとする。

 

外側の価値(立場や地位や、名誉や関係性)を

他人からもらおうとする。

 

それって、自分のことを、自分で放棄してしまうことになる。

 

あなたの幸せは、相手次第。

相手がそう判断してくれたら、やっと私は幸せ。

自分の幸せを、相手に任せてしまっているのだ。

 

でもそれって、逆に言えば、他者に責任を振ってる、って話でもある。

「いつまでたっても私が幸せじゃないのは、

あの人が私を認めてくれないからだ」

あるいは「誰かが認め、与えてくれないからだ」。

 

これ、少しさ……、なんとなく、ずるくない?

そういう部分も、あると思わない?

自分の不幸を、相手のせいに、できるのって。

 

あなたは、ある意味、そうやって他人を「言い訳」にできてるよね。

自分で、自分を認めなくてもいい理由に、使ってる。

そういう努力をしないでいい、言い訳。

ねえ、それって、責任、少し、放棄してない?

 

ダメな部分が自分にあると、自分で「認める」。

でも、そうした部分を持っていることは、

人間として当たり前なんだよね。

「ダメな部分、私にはないの」と言い切れる人のほうが

よっぽど、人間としては恐ろしいと、私には思える。

 

そして、その「ダメな部分」という判断って、

たいてい、過去の出来事、その記憶から、やっちゃってるよね。

次もそうしちゃう、そうなるに決まってる、等、

自分で自分の未来を勝手に限定して、確定。

すでに決めつけてる。

状況や相手が違えば、もちろん未来も、違うのに。

 

またさ、そう「決めつけてる」から、未来が怖いから、

かえってまんまと「その通りの行動」も、しちゃうんだよね。

焦っちゃだめー! って必死になって、

それが逆効果になってさらに焦って、同じように恥かいたり。

 

自分で投げやりになって「ふん! どうせそう思ってるんだろ!

ああ、じゃあ、そうだよ、その通りにしてやるよ!」って

わざと同じことしたり。

 

そうやって「自分で悪い状況をわざわざ作り出して」おきながら

なのに「またやっちゃった」って、あとになって自己否定。

 

……ねえ、それ、何か、ずれてない? 違ってない?

 

あなたに「悪い部分」があっても、未来は「決まってない」の。

わざわざ「同じあやまちを繰り返しに行く」必要は、どこにもない。

 

それにさ、前にも話したけれど、

あなたの短所は、必ず裏返せばあなたの「長所」につながるの。

あなたが裏返すのを拒否してるだけ。

 

だってそんな長所、いらないもの!

私の望みの、理想の、長所でないもの! ってね。

すでに持っているものの「良さ」を、自分が認めようとしないだけ。

 

たとえば。

優しくてかわいくて、人の話を聴き、

その痛みを受け止めてあげられる、心のやわらかい人が

「いや、違う!

美人でゴージャスで華々しくて話題の中心に勝手になれて

ちゃんと自己主張できる人でないと、世の中では成功できない、

つまり私はダメな要素しか揃ってない人間なの!

他者の注目を集められない、派手じゃない自分がイヤなの!」って

言ってるのと同じ。

 

マーガレットが「バラじゃないとダメなのに!」って言うように。

鹿が「ライオンじゃないと動物として、よくないのに!」って言うように。

 

それさ、変な「偏見」って、言わないかな?

こういうふうになれないから、私はダメ、って。

それを望んでるのに、憧れているのに、なれない、っていう、

そういう「偏見」の自己否定、含まれていないかな。

 

自分がマーガレットであることを、

鹿の良さを「すでに今」持っていることを、

なぜ、自分で認めちゃ、いけないの?

誰かから言われたからでなく、認めてくれたからでなく、

自分で自分の「良さ」をまず、認めても、いいんじゃない?

 

たとえ弱くたって、

この先の解決策なんて、まったく何も見つからなくたって、

すでにあなたの良さ、素晴らしさは、あなたに備わっているんだよ。

まずはそこから、始めてみない?

 

遅ればせながら『アナと雪の女王』を観て、

「まったく何も問題は解決しなくても、

とにかくまずは、自分を好きになろうと、

自分で決めてみる」こと、

そこからやっと「次の事態、次の変化」が生まれる、

そう、だからやっぱりまずは、自分なんだよ、と

改めて思えた次第。

あれは作り話だけれど、まさに人生の暗喩だよね、と。

 

なので、この歌を最後に贈ります。

『Let It Go』。

Youtube、観られる人はどうぞ。

歌詞付き日本語版、公式映像です。

リンク先URL

http://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw

 

あなたにも「自分を認める勇気」が、いつか生まれますように。

 

うまくいかないことの原因を

何か、自分にとって、よくないことが起こったとする。

で、それはきっと「○○のせいであるに違いない」と、

自分で推測するとする。

この○○、に当てはまるのは

自分の外側の要因、と、内側の要因、

また他者との関係性なら、相手側の要因もあると思う。

で、まず、相手側の要因って、そもそもは相手側の問題。

これまでにも何度か言っているけれど、

それを「あなたがなんとかしてあげる必要があるかどうか」は

けっこう、微妙だったりする。

なので自分が、経験などから予測ができる範囲において、

「それって私だったら、こうなると感じるよ」くらいの

注意喚起、にとどめるよう、私自身は意識しているつもり。

それがたとえ、身内に対してであってもね。

だって私が伝えたタイミングで相手に届くかどうか、

つまり相手が受け取るかどうかは、そのときの相手の判断なのだ。

イヤなら受け取らない。そこは「強要」しても無理だし。

しかも、もっと言えば、

私がその人から感じ、伝えたくなったことって

「それが絶対によいこと」「正しいこと」であるかどうか、

わからない。

そうじゃなくてもいいかもしれない。

私には「合わない感覚」だけど、需要と供給、みたいなもので

他の人だったら「合う」、さらには「ラッキー」みたいに

受け止めるかもしれない。

たとえば、おいおい、サボるの好きすぎでしょ、と私が感じちゃう人(^_^;)

それが私には「ちょっとなぁ……」と思える範疇であっても、

他の人は、気にならなかったり、

「そうそう、それくらい気楽に」と、同意したりするかもしれない。

どんなに忙しいときでも、そういう感覚って、

人によって違うのですよ、実際……。

なので「どうしてもそれでは困る」(明らかに間に合わないとか)

というときだけ、相手に対して

「私は困っている」旨を、伝えるようにする。

そんな感じ。

あなたが悪い、というような相手への非難、指摘は、

こういう場合はけっこう、避ける。

または、誰かが、ほかの誰かに対して怒っているときなら、

「相手はこう受け取ったんじゃない?」的な感じで、

なおさら距離を置くように心がける。

せいぜい「私はたまたま、あなたの意見に近いけれど」って感じで、

極力、断定することは避けたい。

だって私が直接、関わっているわけではないから

実際、何が「どの程度」、どうなのか、わからないんだもの。

こういうふうにすると、まあ、たまに「ずるい」とか「冷たい」って

感じのことを、言われちゃうこともあるんだけどね……。

でも別に「こと無かれ主義」ってわけではない。

わからないものはわからない、だから、そう答えるだけ。

逆に、ご本人が困っていて「それは……ヤバイ匂いがする」と感じたときは、

「私だったらだけど」と前置きしたうえで、はっきり言うこともある。

要するに、「相手に調子を合わさない」「断定的な非難は避けて、

自分なら、自分の場合は、という意識をできるだけ持つ」って

感じでしょうか。これでずいぶん、いろいろラクになりました。

あ、蛇足で言っておくと「他者の命を奪う行為」についてだけは

いっぱい断定表現するよ。そんな犯罪を気軽に犯した人がいたら

無期限で『独房』へ入れて欲しい。たとえ本気の反省をしても

当分、人と関わるな、亡くなった相手は二度と人と関われないのだから

そのことを自分もしっかり噛みしめろ、と思う(個人同士における

濃い、一方的暴力を受けてきたような関係性のなかで、

いつ殴もってくる相手から、ついに自分が殺されそうになって、

護身としての反撃でたまたま殺してしまった場合を除く)。

あと、ハナから殺し合いを求めてそうした現場に行くのも

意義や手法が理解不能。結局、オマエ何様じゃ、と、どうしても思える。

ましてやそれを外野から「おお、やれ、やれ~!」と無責任にけしかけ

自分は高みの見物を決め込もうとする人は、完全にただの卑怯者だよね。

じゃあオマエがその当事者になってみろ、と思う。

だって基本、「人間同士としてありえない」話だから。

さて、次に「自分のこと」の場合にいきます。

自分に原因がある、と思えたとき……。

たとえば私は「よいほうへ自分を評価してもらうのが大好き」だ。

これがまだ、普通程度ならいいんだけれど、「こだわりすぎ」だった。

で、鬱になるまで本当に気づけなかったのだけれど、

そもそも私、親に認めてもらおうとする部分が強くて、

それは、もっと奥をたどれば「そうでないと自分の存在価値がなくなる」

ってところに、根っこがありました、と。

で、これを心屋仁之助さん流に言うと

「自分自身の大前提が『そもそも自分には価値がない』って思ってた」

ってことで、武田双雲さんふうに言えば

「自分がすでに持ってると気づけばいいだけなのに、ないと思って探してる」

ってことになる。

しかも、ですよ。

「自分が望んだ通りに、親がわかりやすく見せて(返して)

くれてなかった」からと言って、

親にはそういうもの(感覚……、愛情とかね)が「ないのだ」とも限らない。

そういう例も、いろいろな学びのなかでたくさん知った。

うちの親だって、自分の親(つまり私の祖父母)から伝えられた

ある一定基準の価値観を持っており、

そのなかで「自分が苦しかったこと」は、

私に対して押し付けるのをやめよう、と思ってくれたり、

「そうだ、当たり前だ」と思ったことは、私にも伝えようとしてくれたり。

で、それをまた、たまたま、私が受け取るときに

「苦しく」感じたり「おびえたり」もしたわけです。

もちろん親も人間だから、

そういうことの伝え方(つまりしつけ)として、

自分の気分次第でときに「強く押し付ける、あるいは脅す、

否定するようなやり方」も使っていたときはあったのだろうし。

いつもいつも、いい感じではなかったのだろう。

それで、私にとっては

「こうならないと、こうなってしまう」的なおびえとともに、

脅しの部分が、しっかり根付いてしまいましたわ、って話なんだと。

とくに最近、歳をとってきた母親の「ある種の子ども還り」的な

ものの言いっぷりを見ていると(怒ってるときとかね)、

ああ、こういうふうに脅されてたんだな(笑)、と感じたりもする。

親だって完全無欠じゃない。親は支配者でもない。

なのに、私が勝手に、絶対的にそうだと思い込んでた。

そして逆に私も、親に対して完全無欠さ、を願ってきたのかも。

私もまた「親という立場の人に対し、期待をかけ過ぎてた、

つまり、親なんだからこうでしょう、という希望を、

ある一部分で求めすぎてたわ」って。

そう感じ始めてから、自分で思い込んできた「自分の欠点」を、

少し遠くから眺められるようになって。

そうしたら「これは私の過激な思い込みだった!」とか

感じられる部分もいっぱい、見つかって。

なんとなく「○○は○○であらねばならない」

「○○しないように気をつけないと」

などと思ってきた部分で、その考えの根っこを見つけてみたら

実は「そうしないと自分はダメである」または「嫌われる」と思い込み、

自分を『もともと、それができない人』と

思いっきり否定して決め付けてた……なんてことに、

たくさん、思い当たったのだ。

「気をつける」ことと「自分を否定する」ことは、

まったく、意味が違う。

そりゃあ、鬱になるほど「評価ほしくてやり込み」しまくるわ、私。

だってそうでないと「怖かった」んだもの、と。

これが腑に落ちたことで、自分の「深いところ」に安心感が来た。

「今後はもう、同じパターンでは鬱にならないで済むな」という

自信もできた。

別に、そういうふうに「掘り下げて気づく」ことだけが

自分をラクにしたわけではないのだろうけれど、

この深い気づきは、「しっかりした安堵感」につながったことは確か。

そして実際、どんどん、ラクになっている。

「それがすべて、それだけが正しい」じゃないんだ、と気づけたから

「じゃあ、ほかの人はどうやってるんだろう」とか

「ほかにはどんな価値観があるんだろう」って

探せるようになったし、別の価値観を持つ他者を「よく見て」

新たにいろいろ、気づけるようにもなってきたと思う。

で、さらに、私自身は、それを受け容れるかどうか、

受け容れるなら「どの程度までヨシとするか」を、

自分で決めていいのだ、と思えている。

ね、ちょっと、ラクそうに感じるでしょう、これ。

だからね。

何か、あるいは誰かとうまくいかない原因を

「表面的」な部分に探し求めて(最初はまず、そうするよね)、

そこだけを解決してみようとして、

なんだかなかなか、うまくいかない……なら。

勇気を出して、少しずつでいいから、

自分が怖がってきたものの「根っこ」を、

冷静に、客観的に、掘り下げて見つめるやり方もあるんだよ。

その気づきは、自分自身で「肩の力を抜く」ことにつながり、

自分の生き方をラクにしてくれる。

私はまさに身をもってこれを実感できたので、あらためてお伝えします。

あ、もちろん、それがすべてではなく、ひとつの方法、ってことです。

そして「肩の力抜き」については、

私はまだこれからも、練習を重ねていくことでしょう。

でも本当に、私はもう

「自己否定で自分から死なないで済む」

人になりました。

なぜならほかの問題でも、こうした気づき方なら、応用できるから。

最後にはっきりしたオチでしたね、すみません(;^_^A

でも私は、本気でそう思えています。