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貧しい勝者

先日、サブブログでご紹介した「時代物の昼ドラ」小説、

高田郁(たかだ・いく)さんの「みをつくし料理帖」シリーズ。

そのなかの言葉をお伝えしながら、

勝者と敗者、の話をしてみたいと思う。

主人公、澪(みお)は、料理に身を尽くす人である。

江戸の庶民の定食屋たる「つる家」で、腕を磨き続けるうちに、

澪は、とある高級料亭と「料理番付」表でどちらが上位になるか、

料理の競い合いをすることになる。

人への思いやりをもとにした、いくつかの理由から、

澪はその勝負に勝ちたいと思うようになり、

そのための料理の創作で苦しんでいたとき、

お店を手伝っているお婆さんから、こんな言葉をもらう。

 競い合いなんですから、勝ちたいに決まってますよねぇ。

 勝負事ってのは厄介でねぇ、

 どれほど努力したとか精進したとか言っても負ければそれまで。

 勝負に出る以上は勝たなきゃいけない。

 そう思うのが当たり前ですよ。

 でも。

 勝ちたい一心で精進を重ねるのと、

 無心に精進を重ねた結果、勝ちを手に入れるのとでは、

 『精進』の意味が大分と違うように思いますねぇ。

 勝ちたいというのは、すなわち欲ですよ。

 欲を持つのは決して悪いことではないけれど、

 ひとを追い詰めて駄目にもします。

 勝ち負けは時の運。その運を決めるのは、たぶん、

 ひとではなく、神仏でしょう。

 神さま仏さまはよく見ておいでですよ。

 見返りを求めず、弛まず(たゆまず)、

 一心に精進を重ねることです。

  (「みをつくし料理帖 今朝の春」 p240~241)

そして澪は、一心に精進を重ねるなかで、やがて気づいていく。

とある人との会話。

 番付の優劣よりも、私には、この店に通い、

 美味しく料理を召し上がってくださるお客さんの方が大事です。

 その方がずっと大事なのです。

それを聞いた、とある人の返事。

 そうか。

 勝つことのみに拘って(こだわって)いた者が敗れたなら、

 それまでの精進は当人にとっての無駄。

 ただ無心に精進を重ねて敗れたならば、

 その精進は己の糧(おのれのかて)となる。

 本来、精進はひとの糧となるものだが、

 欲がその本質を狂わせてしまうのだろう。

  (同巻 p281-282)

 

人生、勝ち組、負け組、などと言われているのは、
 
まさにこのことだな、と思える。
 
「人より有利に」と思い始めると、せっかくの精進も、

うまくいかなかったときに

「あんなにやったのに がんばったのに

あんなの 無駄だった 馬鹿みたい」

と、ただの後悔にしかならない。

そして精進した時間を呪い、できない自分を責めるか、

他人をうらやむしかなくなる。

結果がまだ出ていなくても、途中で嫌気がさしたときには

同じことを思い、精進をやめてしまうだろう。

いずれにせよそのあとは、後悔し、あきらめ、

自分を責め、卑下するか、他人に怒る、または妬む、恨む。

あるいは社会の仕組みを呪うか、親を責めるか。

そのように何らかの形になって、止まってしまうだろう。

それを繰り返せば、やがては、努力や精進なんて、

しても「無駄」で「意味がなく」て

「後悔する」だけ、と受け止めるだろう。

そして動けず、苦しくなるだろう。

それは「勝負」にこだわるから。

勝ち負けにしてしまうから。

自分自身を「勝負事にして使ってしまう」から、そうなる。

人より優れていなければ。優秀でなければ。

勝たなければ。立派にならなければ。

うん。それでもし、そのときは勝っても、

次にまた勝たないと、と、怖くて仕方なくなるよね。

心は常に負けを恐れ、おびえ続ける。

そして他人の気持ちについては

「自分が相手から 社会から どう思われるか」

だけ。

自分については

「自分をどう『採点・評価』するか」

だけになる。

きっと、相手の思いや感情は「勝負」に関わる部分以外、

だんだん読み取れなくなり、関係も薄くなっていくだろう。

こうして「心の貧者」が生まれる。

勝とうが負けようが、自分とも、人とも、

うまくつながりきれない。

なのに自分のおそれから、

いつも自分のことが不安で心配、

何かあるたびそれでいっぱいいっぱいの、

おびえた貧者になる。

たとえどんなに成功してお金持ちになっても、

その人の「幸せを感じる豊かさ」は

物欲、金で買える部分以外、満たされないだろう。

貧者である勝者、「貧しい勝者」の誕生である。

そして負ければもちろん、「貧しい敗者」。

自分で自分を「最悪」扱いするハメになるだろう。

精進するのは、勝つために、じゃない。

自分を「よい方向へ進ませる」ため、

より心を豊かにするために行うもの。

そこに勝ち負けはないし、ある意味、精進に終わりはない。

仕事に、勉強に、あらゆる他者との関係に。

何かと結果や見返りを欲しがるのではなく、

そんなものは「後から還ってくるかも、たぶん」と、

ただ、今の自分の、その思いを大切にして、丁寧に接する。

しかもそれは、あくまで「自分をより心地よくするために」ね。

後ろめたいこと、卑怯なこと、ずるいことをせず、

状況を真摯に見つめ、ただ、

自分が心地よくなれる、そういられるように。

勉強や仕事や人に、

自分が心地よくなれるよう接してあげればいい。

勝ち負けを目標にして計算するから、ずるがしこくなる。

すぐ得したくなる。自分だけ、にもなりうる。

たぶんきっと、精進それ自体が「目標」であってもいいくらい。

そしてそれが「手段」でもある、という「状態」。

そうなれば何があっても、丁寧さ、真摯な向かい方、

それを基本にできる。

そういう練習を積んでいくことで、自分にとって

爽やかな、かつ、しっかり安定した軸を生むことにつながる。

つまり何をしようと、そこを心がければ、

たとえば他者との関係でも

「なるほど、あなたはそう受け止めるのね」という形で

相手の気持ちも読み取れ、よい距離も置けるようになってく。

そうすることで、相手の問題も、すべて自分のせいだとか、

変な形で引っかぶらないで済むのだ。

自分がしたい行動は何なのか、見つめられる。

そのうえで、相手の気持ちも、はかれる。

「真摯に向き合い、精進する」

ことから生まれるのは、勝者でも敗者でもないよ。

静かで、穏やかで、自分が心地いい「状態」だよ。

そしてそういう人って、結局、他人から見て「豊かな人」に見える。

「結果的に」そういう人だと思われ、

そういう人、として、周囲からも接してもらえるようになる。

すると心も通じ合いやすくなるし、

協力も得られやすくなり、実際に成功もしやすくなる。

そう、あくまで、そうした「状況」は、

あとから還ってくるものなのだ。

やってみて初めて、あとから、評価もついてくる。

あなたが「自分の心地よい状態」を整え続ける、

それを精進するだけで、やがてそうなっていく。

よりよい「あり方」。

自分に対しても、やることに対しても、

他者に対しても。

まったく「同等」に、心地よくなるため、

後ろめたくない形で、落ちついて向かい合うこと。

しかも、他者や自分を変なふうに傷つけないで済む、そんな「あり方」。

それをつくるうえでの大切なキーワードが

「丁寧で真摯な向き合い、そして無心の精進」

なのだろうな、と、私には思える。

最後にもうひとつ、この小説からの言葉を贈ります。

 自らを守るために苦しみから逃げることは間違いではない。

 だが、逃げて苦しみが深まったのならば、決して逃げるべきではない。

  (「みをつくし料理帖 美雪晴れ」 p228)

本当に、より苦しいからこそ、

あきらめないで、逃げないで、

「あり方」を変えてみる練習をしてほしいと願う。

認める怖さ

自分のこと 自分がゆるしちゃうのは

ただの甘えとか 感じているかもしれないけれど

ううん それ 逆にね

自分の行動に 良い意味で

責任とることになるのよ

毎日 毎時間 今 この瞬間を

「どういう気持ちで過ごすか」を

自分で選べるようになるからね

それは 自分に対して責任を持つことにも つながる

他者に 何かされても 振り回されないことを選ぶ とかさ

そう たとえば 他者から働きかけが 自分に なされた

それを「どう受け止めるか」

あなたはこれまでもすでに 毎回選んでる

怒り続ける

泣き続ける

批判されたと決める

慰められたと感じる

叱咤のようでいて 実は激励だと感じる

かわいそうな人だな と相手を捉える

こちらの思いは届かなくて残念だな と捉える

相手の問題だから 放っておこうと割り切る

何かされた と 捉えるか

この人は こういう行動するのね と捉えるか

それだけでも 受け止め方は ずいぶん違ってくる

わざわざ つらい記憶とリンクさせるかどうかも

意識的に 遮断する練習は可能なのだ

過去は「今この瞬間」では もはやないのだから

あなたが つなげることを自分にゆるし 自分で選んでいる ともいえる

厳しくてごめんなさい でも そのことに気づかず

された された と受動的な方面だけで ものごとを捉え続ければ

そりゃ何かあるたびに あなたは被害者で 過去の悪い記憶を引きずり

周囲はヒドイ人ばかりになってしまったりもして

苦しくなる場面は 増えていくよね

だからさ 受け止め方 捉え方自体を

自分のために 自分で変えたほうが

ときにはよっぽど ラクになれるんじゃないかと思うよ

恨んでいくよりは そんな被害者になっているよりは ね

自分のために これはこうしていい

こう考えていい

こう捉えていい と 変化させることは

決して 甘えや悪いことではなく

自分の選択を 優先する練習にもなると思える

それはやがて 自分の自信にもなるし

自分のことを 信頼できることにもつながるよ

だからさ

他者から何かされた

の部分で立ち止まり続けるのはやめて

それを自分は どう捉えるのか

どうやって 自分のために 良いものへ変えていけるか

どうすれば 自分に優しくて 良いものにできるか のほうへ

注力していったほうが

「じゃあ次にどうするか」にも

つなげやすくなるし

実際に 動き出しやすくなるよ

それにさ その練習って休むときもあっていいわけだから

いろいろな意味で気持ちは ラクになれると思うよ

とても抽象的な言い方に思えるだろうけれど

何をどう捉え 位置づけ こうだと決めるかは 

自分が選んできた そのことだけでも

怖くても きちんと認めてもらえたらな と願う

そして 自分が能動的に 何を見て何を次につなげるか

自力で選んでよいのだということも

実際に 練習して しっかり感じていってもらえれば と 願う

あなたは「振り回され続ける人」を

別にもう 選ばなくていいのだ

あなたが 決める それでいいのだ

異質性の排除

まずは最近、たまたま連続で聞いた、子育て関係の話から。

あるキッズダンスのチームがあって。

専門の先生に習いながら、みんなと一緒に踊る練習をしていた、

一人の女の子のお母さんが、

衣装も振り付けも決まって、さあ、これから踊りこみ! というときに

自分の娘がそのダンスで目立たないことを、どうやら不満に思ったらしい。

お金を払って習わせてるのに、と思ったのだろう、

そのお母さんは、ある夜、先生のところへ電話して

「振り付けのあの部分、格好悪いので、こう変えましたから。

それから、○○ちゃんは外して、ウチの子をこの位置にしてください」

という要望を伝えてきたそうだ。

気に入らない他の子は外して、かつ、振り付けも

気に入らない部分は自分の好みにして(昔、なんらかのダンスを

ご自分もやっておられたのでしょうかね?)、

自分の娘が一番目立つように工夫しなきゃ。

お金を払ってるのはこっちなんだから!

……というお考えなのであろう、このモンスター母ちゃんは、

チームでダンスを踊る、ということをまったく理解していない、

と言える。

その子も、他の子と踊りを揃えることの大切な意味を理解するのは、

もしかしたら、なかなか難しくなってしまうだろうと。

アイドル歌手のダンスみたいに、周りにおだてられつつ

センターで踊りたいなら、

配置や振り付けの際に、実力も考慮されるダンスチームのレッスンでなく、

発表会で、大人が協力したりしてセンターで踊らせてくれる

個人レッスンみたいなものを選んだほうがよいと、素直に思える。

また、ある学校でいじめがあったときのこと。

いじめに「無理やり参加させられていた」らしい、

ある男の子のお母さんが、参加を強要した首謀者の「いじめっ子」を

別のクラスに変えてほしい、と訴えたそうだ。

私立なんだから、それくらいできるでしょ、と。

そもそもうちの子は、巻き込まれた被害者である、と。

いじめられた子の、いじめを受けてきた間の気持ちも、

いじめを始めて「しまった」子の、たぶん背景にある苦しみも、

完全に「ウチの子とは関係ない」らしい。

友達、という関係性は、なかったことにできるらしい。

……異質なものを排除さえすれば、よい?

そうすれば子どもは、立派でよい子で素晴らしい子に育つのかしら。

自分の思いとは違う、異質なものに遭遇したとき、

その子が何を感じ、どうその問題をクリアしていくか。

それを一緒に考えてあげる、あるいは信じて見守ってあげるほうが

よほどその子のために、その子の力になるんじゃないだろうか?

でね、これは誰にでも起こりうることだな、と私には思えたのだ。

自分は、他者に対して理想を押し付けすぎてないだろうか?

さらには「自分に対して」、理想を押し付け続けてないだろうか?

なぜそうしたいのか、なぜそう考えるのか。

そこが自分の予想、希望、理想と違ったときに、

拒否しすぎていないだろうか?

あなたが自分の考えを真っ向から完全拒否はされたくないように、

相手も自分の考えをそんなふうには否定されたくないのでは?

さらにあなたも、自分をそんなふうに、否定したくないのでは?

自分に対して、わざわざ真っ向から否定するから、

かえってうまくいかなくなっているのではないだろうか?

自分の考え、性格、たとえば臆病さ、さえも、

「絶対にあってはならない」ものではない。

短所は長所につながる面が、ほとんどの場合、あるから。

それに他者が、時間が経つことで変わることがあるように、

今は自分だって、変わっていく最中なのでは?

それは、ある意味「多様性」を認めるということなのだと思う。

理想・希望以外の他人、理想以外の自分。

人は変化「できる」から、みな、今はその過程なのだと。

今は、あなたはそう考えるのね。

今はまだ私、そう考えちゃうのね。

うん、それでいいのでは?

そういうふうに「ゆるめる」ことは、そんなにいけないこと、だろうか?

たとえばね。

三鷹市のストーカー事件の記事で、ある大学教授が

ストーカーに特有の「殺害してしまえば、相手が

他の人と付き合わないから安心」という心理を説明していた。

さすがにここまでの極端さに至ってしまうと、

こういう人を自分の身の回りから「排除したい」と思うのも当然だけれど。

そもそもこういう人がなぜ、こんな考えを持つに至ったかというと

「自分だったらどう感じるか」の想像力が、抜けてしまっているからだ。

その練習が足りていないから、

「自分がそれをした場合」「自分がそれをされた場合」の

どちらかの想像力が、抜けてしまう。

そして。

あえて言うなら、先の例に挙げたお母さんたちもまた、

ストーカーとさすがに同列に並べるつもりはないが、

別の面においては、決して、その練習が「足りている」とは

言えないのではないだろうか。

いろいろな感じ方があり、それはその人の自由であっていいのだ、

と思うことは、同時に、自分の考え方も自由であっていい、

「こうあらねばならない」という、ガチガチのその枠を外していいと、

知ることにもつながらないだろうか。

他者にせよ、自分にせよ、まず多様性があってよいと知ること、

次に知るだけでなく、なるべく、どう折り合いをつけられるか、

日常面で実行してみる練習が、必要なのだろうと。

そうでないと「絶対」を、そう思っていない他者に、

もしかして自分にも、押し付けてしまうから。

そうすると、対話ができなくなってしまうから。

そして、違いを知ること、どう折り合うかを実践すること、

この練習って実は、人が生きていくうえで、

みんなそれぞれ、お迎えが来るまで、どこかで

練習していくものなのかもしれない、とも、思えるのだ。

だから私は、とくに人間関係や自己への否定感情で今、

苦しんでいる人に、こう伝えたい。

決して あなただけが 下手なんじゃないよ

みんな どこか何かが きっと下手で

それぞれ自分の元にやってきた課題のなかで 何らかの形で

ずっと 練習していく種類のものなんだよ

と……。

厳しい、あるいは身勝手な意見だと感じられたらごめんなさい。

私も、ストーカー個人に対してまで、容認するつもりはないです。

ただ、それをどう改善できるようにしていけるかは、考えてみたい。

社会や教育の問題も含んでいると思えるから。

キレイごとでなく、自分が体験したから、こんな体験をする人を

減らしていくにはどうしたらいいのか、考えたいのです。

誰かの命にかかわるようなことを除き、

自分との違いを知る、あるいは自分に対しても

ありのままを認め、肯定も否定もしないということは、

ある程度、練習したほうがいいと思えます。

多様性を、あまりにもムゲには、否定したくないと。

そんなことない! それではダメだ! と、

もし怒りを感じる方がおられたら、どうぞおゆるしください。

私には今はまだ、そう思える、ということで、

今のところはご容赦いただければ幸いです。