カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

理屈なしで自分を好きになる

自分はヒドイ人間だ。

でも私は、そのヒドイ自分であることを、今、ゆるしていい。

自分は弱い。

でも私は、弱い自分を今、そのまま好きになってあげていい。

あの人が自分の言うことを聞いてくれなかった。

あの人が愛してくれなかった。

でも、今、私は、私を自ら、愛してあげていい。

私自身が、愛してあげていい。

できてないから。

応えられないから。

動けないから。

そうなのね。そのこと自体は、苦しいよね。

でも、その状態とは何も関係なく、

私は、自分が、自分を愛することを、許可していい。

自分を愛するのに、何か理由はいらない。

まったく、必要ない。

すべての根っこの部分で、当たり前のこととして、

何があろうとも、何ができてなくても、

自分はいていいし、自分は自分に愛されていていいのだから。

アイツが憎い。

社会が憎い。

こうなったのはアイツのせいで、

うまくいかないのはあのことのせいで、

私は悪くない。全部、外側のせいだ。

うん、それもまた、そう感じているの、キツイよね。

でもそれとは何も関係なく、

ただ、そう感じている自分自身をゆるしていい。

苦しんでいる自分を、苦しみとは関係なく、ただ、愛すると思っていい。

かわいそう、と同情するんじゃないよ。

人と比べて自分が云々、じゃないよ。

他人のことは、周りのこととは、一切関係なく、

どんな自分であっても、私は、自分を愛していい。

過去に何があったとしても、

まず、私が一番最初に決めるのは、

今、この瞬間から、

自分を憎むのをやめて、自分の失敗をゆるして、

自分が、自分を、好きでいてもいいんだ、

どんなときも、本当にどんなときも、

自分は自分を見捨てなくていいと、

決めることなのだ。

そのために周囲と自分を比べて、どちらがひどかったか、

量る必要は、一切ないのだ。

ヒドイ他人は、一切関係ない。ヒドかった自分も、もういいのだ。

私は、私のことを、

大事にして、優しくして、好きになってあげていい、

どんな自分も、いつも、ゆるして、愛してあげていい。

一番最初に、

自分でまず、自分に手を差し伸べてあげる、

今から、その許可を自分に出していいと、

ただ、決意するのだ。

たぶん、あなたが、どんなに自分をキライな理由を述べても、

どんなに他者に傷つけられた理由を述べても、

そんなことはもういいんだよ、もう大丈夫だよ、

それがあろうとなかろうと、あなたは、根拠も理由もなく、

自分を愛おしいと思っていいのだと、

心ある人なら、皆、わかるだろうから。

過去に何が起ころうと、何を経験してこようと、

今、ただ、この瞬間から、

自分を愛してあげていい。

自分をゆるし、大切にしてあげていい。

それが土台、それがすべての基本、

それを思っていいのだと、あなたの周りの人は知っているのだ。

あなたも、痛んだ他者をみれば、知っていることに気づくはずだから。

それにね、

自分を愛していい、ということと

自分だけを愛していいということは

全然、まったく、違うから。

自分だけを愛している人は、他者を傷つけるけど、

自分が自分を愛していいのだと知れば、

他者を傷つける必要さえなくなる。

だから。

ブスでも、デブでも、弱気でも、強引でも、

情けなくても、自己チューでも、カッコ悪くても、孤独でも、

傷ついていても、傷つけていても、

あの人がひどくても、社会が原因で苦しんでいても、

関係ない。構わない。なんら自分を愛する妨げに使わなくていい。

何の理由も理屈も納得もなく、

今までがどんな自分であっても

今から、今、この瞬間から、

私は、私を好きでいい、愛していい、大切にしてあげていいと

ただ、決めてほしい。

過去から丸ごと、自分をゆるして、もうこれからは、

ずっと、何があろうとも、自分を愛していいのだ、と。

過去の苦しみを整理したいときだけ、

たとえば、他者に打ち明ければいいよ。

自分をもっと愛するために、そんなふうに整理する。

整理すればその苦しさを、手放すきっかけをつくれる。

愛しているからこそ、整理できる。

これから先も、何が起こっても、

自分を愛していいし、

その土台はもともと、揺るがないまま、

存在していていいものだったと、

実際、決めてやってみれば、

その後でやっと、気づくから。

この先も、何かがあったら、整理すればいい。

ただ、それだけのことなのだ。

どうか、今、まず最初に、自分を抱きしめてあげてください。

心の中で、優しく、温かく。

肯定感を持つために

先に書いた、他者の前で自分の痛みを見つめることは

自分を客観視することにつながる。

そのときの自分がどういう状態にあったかを、

苦しい思いのみにとどまらずに

見ていくことになるのだ。

人間関係で苦しむ人の場合、

ときに、自分の思いにこだわるあまり

他者の感情を客観的に想像できない、という事態が起こる。

それはなぜかというと、どう思われるかが、怖いから。

怖いからこそ、自分の感情のみに注意を払ったり、

怖いからこそ、過度に、他者への影響を心配するのである。

相手は傷ついているのに、そのことに気づけない。

あるいは逆に、相手はなんとも感じていないのに、

自分が何かしてしまったのではないかと、

ビクビクして顔色をうかがってしまう。

そんなことはない、自己愛のひどい人、自分勝手な人は、

自分のことを優先して、大事にしているではないか、と

思われるかもしれないが、強烈に自分勝手に振る舞う人の心の中には、

逆説的に、人から見捨てられるかもという強い恐れがある。

横暴な父親は、自分を愛していることを示してもらうために、

横暴・命令的に、振る舞ったりするのだ。

もちろん家族がそのことを安易に指摘しようものなら、

とんでもない逆襲に遭ってしまうけれど……。

他者が怖いから、先に相手はひどい人間であると仮定して攻撃する。

他者が怖いから、常に自分を悪者ではないかどうかチェックする。

そのような緊張関係を、自ら作り出してしまうのだ。

そしてそんなにも他者が怖いのは、自分が傷つくのが怖いから。

傷つけられたときに、立ち直るすべを、

自分は持っていない、そういう弱い人間であると、

決めつけているからである。

どちらも、自分自身を信用していないからこそ、起こる。

心理学的には、例えば幼少期に親との関係がうまくいかなかったなど、

子ども時代に適切な自我が芽生えなかったことが、

こうしたいびつな関係性を生むとされている。

確かに、幼少期の体験は、その後の人格形成に

大きな影響をもたらすらしい。

しかし、100%、必ずゆがむかと言えば、そうではない。

あとから学んでいくことができるからだ。

だから今、大人になってから、改めてそのゆがみを

別の形に変え、新たな自分を取り戻していくことは、できるのだ。

そのために、恥だと思って隠してきたこと、

自分で許せない自分、の部分を、ゆるしていくやり方がある。

他者に打ち明けるというのは、そのひとつの方法なのだ。

親と、大人になってから(場合によっては親の死後でも)

和解できる点を探すこともできる。

自分が「そうだったんだ」と理解できればいいのだ。

ただ、もしかしたら長い間に渡って、

あまりにも自分自身の感情のみに意識を集中してきたのであれば、

他者の気持ちを的確な範囲で感じ取る練習から、

始めなくてはいけない場合もあるだろう。

その練習を、恥じることのないようにするためにも、

まず先に、否定している自分のことを、

否定しなくなるように、変えていく練習を始めてほしい。

他にも、例えば、他者との関係で自分を見つけることはできる。

他者が頼ってくるのがわずらわしい、と感じるなら

人に頼ることはいけないのだ、と決めつけている自分がいるかもしれない。

それは、その苦しさを打ち明けてみることで、

いけないことではないのだ、と気づけたりもする。

だからこそ、他者との対話は、そういう気づきの上でも、

大切にしていってほしいと思えるのだ。

ただ、どうしても他人に打ち明けられないし、

自分を好きになれない、というのであれば、

無理やり呪文のように、自分に向かって

「○○(自分の名前)、愛してるよ」と言い続けてみる方法もある。

これは、私が傷を自分で癒やすためにさまざまなことを

知っていくうち、スピリチュアルな方面で知り合いとなり

助けをもらった、癒羽(ゆう)さんから教えてもらったやり方だ。

詳しい方法は癒羽さんのホームページに載っているので後で紹介する。

私はこの方法で、幸せ、と感じるまでには至らなかったが、

ある日、やっていたら、ふと泣けた。

その涙は、お馬鹿な自分をゆるしていくために

必要なものだったように思う。

スピリチュアルが嫌いな人でも、自分を少しくらいゆるすことは

できると思うので、どんなに嘘っぽく感じてもいいから、

我慢して、しばらく、例えば1ヵ月、やってみてほしい。

1日5秒だけで終わるようでは、ほとんど意味がないけれど……。

自分に自分を信じさせることが、まずは大切だからこそ。

今よりよくなる可能性はあっても、悪くはならないから、どうか……。

最後に、癒羽さん、今回は勝手ながらご連絡せずに

ここでホームページの一部を紹介させていただきます。

事後承諾になり申し訳なく存じますが、どうかご容赦ください。

◎癒羽さんの解説ページ

http://healingspaceyou.com/work.html

外側からの愛 内側に隠された愛

外側からの愛で 自分の穴を埋めようとする人は

自分で自分を否定したまま

誰かに認めてほしいと願っている

自分のことを わかってほしいと

ステキな ちゃんとした人間だと

思ってほしいと願っている

なぜ 自分を否定したままなのか

なぜそんなふうに 自分を自分でいじめ続けるのか

その点については 放置したままでね

しかし相手には 相手の意思がある

あなたの思う通りにはしてくれない

だから 相手に振り回される

あなたは願う

少しでも自分を見てくれたのなら

もっとちゃんと見てほしいと

もっと自分を愛してほしいと

しかし 一方的なそれは 一方的であるがゆえに

ときに相手に 押し付けとさえ受け取られてしまう

そのとき何が起こっているかというと

絶対に 埋められないと信じこんでいる自分自身の穴を

自分の外側のもので 必死に埋めようとしているわけだ

ねえ その前提が もう違うよ

人は 自分のことを 好きになっていい

ダメでも 弱くても 好きでいていいのだから

自分のことを 一番大切にしてあげられるのは

まず何よりも 自分自身なんだよ?

そんなことできるはずがないと 思い込んだのはいつ?

理想通りに進めないとダメだなんて

決めつけたのはいつ?

思い通りのよい人生を

他の人はちゃんと送っていると

勘違いしたのは 何がきっかけだったのだろう?

理想を追い求めるあまり

常に“今の”自分を否定し続ける人は

この先も決して 思い通りの人生を歩めないし

理想にだって到達しないよ?

だって 通過点を歩んでいる最中の

練習している自分を

馬鹿にしているだけなんだもの

一足飛びに上達するのが普通だと

世の中の他の人はその「普通」だと

思い込んで もうしっかり

決めつけてしまっているのだから

そんなやり方で 思い通りの人生に

到達はできないし

そもそも思い描いた通りの人生を

歩んでいる人なんて 皆無といっていい

そんな予定調和のとれた

美しい素晴らしい理想的な人生なんて

誰も歩んでなどいないのだ

日々 状況は変わり

悲しいことも 辛いことも

楽しいことも うれしいことも

交互にやってくる

その中で人は常に少しずつ学び

感じ方を変え 意識を変え 歩んでいく

そこにやっと 進歩が生まれるのだ

まだ理想的なものを

何も持っていないのは

それが今 通過点だからに過ぎない

だから決して 自分を否定する必要はないし

通過点の自分を 否定してはならないとさえ言える

否定すればするほど あなたは理想と今との距離感だけを味わい

そこから 進めなくなることだろう

人生とは 歩み続けていくこと

つまり どこか 何かの点では

必ず通過し続けているということだ

だから 理想的な状況に

達してないからといって

あなたが ダメなわけではないのだ

一生 可能性を抱え続けていく

唯一無二の存在であるあなたは

生まれてこの方 ずっとそうであったし

これから先も そういう存在なのだ

あなたは 今の自分をまず

そのまま 今すぐ 許してあげていいんだよ?

通過点で当たり前だし それでいいんだよ?

あなたには 何も欠けていないの

あなたは自分の中に すでに

たくさんのたくさんの 可能性の種を持っている

自分自身への否定をやめることで やっと

その種の存在に少しずつ 気づけるのだ

だからこそ 否定という枠を

まず取り払わないといけない

必要ならば記憶をさかのぼって

自分を否定し始めた その記憶自体を

もう許して 手放してあげるのだ

過去における あなたの最大の過ちは

起こった出来事のひどさや

出来なかった成果云々ではない

それは何らかのきっかけで

自分を否定し始めたという事実

その点にあるのだから

失敗は成功の学びに変えられるから

それもまた 単なるひとつの学びでしかなかった

本当に ただそれだけなのだ

あなたはまず 外側からの愛より先に

内側からの愛と信頼を 取り戻さなくてはいけない

それはあなたの内側で

巧妙な言い訳や理由をたくさんくっつけて

すでに隠されてしまっているけれど

あなたにもう一度 気づいてもらうことを

ずっと待ち望んでいるのだ