カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

ホントの自分を大事にするとき

もし 自分が

優しくて 決断力もあって

スマートにものごとを こなせて

見た目にもすばらしくて

自他ともに認めるような

中身も ふるまいも

カッコいい人だったら いいよね

でも現実の自分は そうじゃない

ドロドロの グシャグシャで

ヨレヨレになってる

ねえ でも それを「認める」のは

そんなに 格好悪いことだろうか?

生きていれば毎日 何かを感じて

テレビを見ただけでも 

笑ったり泣いたりする

感情は揺れ動き 疲れもする

ねえ それは果たして

いけないことなんだろうか?

いつも楽しそうにしてなくちゃいけなくて

いつも元気で 明るくて

かわいらしい性格だの ふるまいだの

面白いこと言って 

周囲をなごませるだの

それを何の苦もなく 疲れもなく

ずっとやってる人にならないと

あなたは ゆるされないのかな?

もしそんな人がいたら

私はその人 ロボットだと思う

暗いこと イヤなこと 感じないで

ひたすら笑い続けて うれしそうで

何も 乗り越えてきたりしていないのに

それを毎日 続けていられるなら

何かどこかの「感じる部分」の機能を

失った人だろうとさえ思う

何かを乗り越えた先に

そこに 到達したのでなければ

ずっとそんなふるまいをする人は

あまりにも 人間らしくない もの

そんな夢物語の人と 自分を比較して

自分を嫌ってるのかな

本当に それでいいのかな?

悲しいこと つらいこと 苦しいこと

それを乗り越えたときに

眼前に広がる世界が

どれほど 美しくて ありがたいか

乗り越えた自分への安堵が

どれほど あたたかいものか

手放した疲れとともに感じる

とてつもない あの「解放感」を

今 自分を嫌っているあなたなら

この先 手にすることができるのに

なぜ ロボットみたいなものを目指して

そんなのと自分を比較して

ひたすらひたすら 卑下するのだろう

なんて もったいないことを

しているのだろう

乗り越えるために 今

その苦しみを 握りしめているのに

乗り越えた その先に始まる

新しい世界は あんなにも

美しく 優しく あたたかいのに

問題はそこではなく

昨日、シャドウについて、コメント欄で少し書き加えたのだけれど、

もう少し付け足そうと思う。

シャドウは、どうしたって、心の中に現れる。

自我と深く関係しているから、

何かが起こるたび、顔を出すのだ。

だが、何かが起こるたび、それがなぜ現れたのか、

自分の過去を探っていくことを繰り返してみるのは、

私は、ある回数やればそれでもう、いいと思えるし、

場合によっては、それをわざわざする必要もないと思う。

もちろん、過去にさかのぼって原因を探り、

そんなことが今の自分にこんなふうに影響しているのか、と知ることは、

考え方を変えるのに役には立つだろう。

自分の思考パターンのクセを知れば、

次に同じようなことが起こったときに、

また、あれかな? という、想像が浮かんできて、

注意を払えるきっかけにはなるから。

でも、自分の分析をどんなに重ねても、

その先、がなければ、意味がない。

そもそも分析も統計も「ある一定の傾向」がありそうなことを

検討することで理論立てて考えるものだから、

その傾向のもとになる「情報」(データ)の集め方次第で、

あるいは、傾向をどう読むか次第で、

さまざまな結論が現れる可能性があるのだ。

分析するのが人、なのだから、

その人が見たいようにデータを読み取る可能性だってありうる。

つまり、分析は、いつまでたっても、ある程度の指標を

示す以外の役割を果たさない(と、言い切ってもいいと思う)。

それをどう使っていくか、のほうが、よほど大切なのだ。

そして、シャドウという、自分にとって嫌な気持ちを引き起こすものは

実際、すでに自分の中にあるのだから、

それをなぜなのか、と、ひたすら悩んで責めなくても、

つまり分析を重ねなくても、ただ「もう、やめよう、これ」と

思えれば、まずはそれでいいのだと感じる。

原因を知ったほうが、やめようと思いやすいかもしれないから、

探るのを止めろとか、そういうことを言うわけではない。

でも、シャドウが現れる原因を探るときは

見たくない自分をみることにもなるから、

痛すぎてその分析自体ができない(やりたくない)ことも、

きっと多々、あると思うのだ。

だから、理由がわからない、わからないから暗いことを思い浮かぶのを

やめられない、と、嘆いているのであれば、

いやいや、そんなことないですよ、と、私は言いたい。

暗いことを思い浮かべる自分がいるんだわ、と認めてあげて、

でも「わざわざ、それを延々と嘆いて何もしない」まま

この先もずっといる必要は、ないのだと。

思い浮かべる自分を認めていければ、徐々にでも、

変えてみるか、と、思えることを、知ってほしいのだ。

変える、つまり、思い浮かべてもそれを責めず、

でも、長い時間、あるいは何度も、それを繰り返す、

また思い続けることは、やめていく。

これには、分析も何も必要ないと思うのだ。

自分が不完全であることを、責めずにちゃんと認めること。

自分が不完全だからこそ、他人が不完全であることも

ゆるせるようになる。

これは昨日の本だけでなく、いろいろな本で言われているし、

私も、そうだろうなと思える。

これなら、今日、今、この瞬間からでも、練習できるのだ。

弱くってダメでバカな自分、いていいんだよ。

あなたの存在自体がすでに貴重で大切で

そのことは、何も変わらない。

だから希望は、捨てなくて、いいのだと。

自分のなかの暗い部分(本の抜粋)

お久しぶりです。ご無沙汰していてすみません。

今日は少しだけ、ある本からの抜粋です。

私も今また、過渡期のような状態にあるので

(苦しんだり、落ち込んでいるわけではないですよ)、

今はここに、文章を書けないでいます。

自分自身の変化のなかで、書くタイミングをはかっている、

というのが、正しい表現かもしれません。

そのようなときに巡り会う本というのは、

たいてい、自分の何かに響くものが多いようです。

今回はそのなかから、他の方にもお伝えしたい、と思えた部分を抜粋します。

この書籍は、心理学と、スピリチュアルが混ざったような種類の本ですので、

抽象的、そして少し、宗教的になります。

そもそも、著者が西洋人ゆえ、中には神さま、という表現も載っていたりしますが、

日本の神さまの捉え方に置き換えても、スピリチュアルの場合、

さほど大きなズレはないでしょう。

西洋やアラブなど、一神教の神さまは、私たちの感覚に置き換えれば、日本の神さまたち、

たとえばアメノミナカヌシと、タカミムスビ・タカギ、カミムスビ、

アマテラス、ヤマトタケル、スサノオ、などなど、

有名どころの神さまも、小さい地元の神さまも、全部一緒にして合体させたような

存在だよ、という捉え方をしても、私はいいと思っています。

ただしこれは、あくまで個人的感覚なので、論争は受け付けておりません。

抵抗を感じた方がいらっしゃったら、心から申し訳なく存じます。

いずれにせよ、いろいろな宗教の本にも、実際の生き方のヒントが説いてあるので、

自分の心に響く部分だけ、使えばいいのだと、私は考えている次第です。

ま、そんなことは前置きレベルで、長くなりましたが、

どうか必要な方に、届きますように。

 実際の自分と理想の自分がどうしても一致しないーーーこれは、人間の葛藤の中でも最も重要なものと言えるでしょう。

(中略)

(さらに前略)……なぜこれほど多くの人が今の人生に100パーセント満足できずにいるのでしょう? どうして内面の知恵を活かして有効な選択をし、常に勇気と力強さをもって善意の行動をとれないのでしょう? そしてもっとも重要なことに、なぜ自らの価値観や常識に逆らうような行動をやめられずにいるのでしょう? それは私たちが拒否や無視をしようとしている自らのより暗い部分、「シャドウ(影の部分)」の影響にほかなりません。

(中略、以下、かなり後半の章です)

 奇妙に聞こえるかもしれませんが、どんな人にとっても、シャドウはほっと落ち着ける安全地帯です。というのも、シャドウに支配された弱い存在である限り、強くなるための責任を負わなくても済むからです。暗闇に覆われている限り、誰かを輝かせる義務を負わずに済むからです。それゆえ、私たちは“光を避けること”を習慣化してしまっています。そうしていれば「自分は光を照らしてくれるのを待っているのに、いっこうにそうはならない。それは、私たちの中にもともと光の部分などないからだ」と言い訳することができるからです。

以上、「シャドウ・エフェクト」
著者:ディーパック・チョプラ、デビー・フォード、マリアン・ウィルソン、
訳:佐藤志緒、ヴォイス刊、2011年1月
より抜粋

ここでいう、光の部分とは。

いろいろな例が載っていますが、たとえば、善い気持ち、心地良い行い、よい心。

自分を、他人を卑下する必要が「ない」、

自分と他者をともに、お互い 慈しみ合える、

争いではなく解決を目指せる、静かに、幸せに、よい心地で過ごす。

それらを目の前で実現していく力、とでも、説明すればいいでしょうか。

もともと人に、備わっている力です。

自分がそのように感じること、それが相手に伝われば、

他者をもまた、穏やかに、幸せに、光り輝かせることになる。

そういう「伝播(でんぱ、タネのようなものを周囲にまいていく)」の力。

やり方は千差万別であっても、みな、要素としては光の力を持っているのです。

仕事を通じ、伝えることもできます。

人間関係で言えば、家族内でも、職場でも、近所でも通りすがりでも。

そして友情でも恋愛でも、もちろん、自分に対しても。

あらゆるところで、発揮できるのだと。

さらにそれは、規模や時期を問いません。

どんな形でも、どんなに小さくても、たとえあなたがどんな状況にあっても、です。

シャドウへの向かい方(対立や消去ではなく、言ってしまえば融合)も

一応、ざっと解説はされているので、ご興味があればどうぞ。