問題はそこではなく

昨日、シャドウについて、コメント欄で少し書き加えたのだけれど、

もう少し付け足そうと思う。

シャドウは、どうしたって、心の中に現れる。

自我と深く関係しているから、

何かが起こるたび、顔を出すのだ。

だが、何かが起こるたび、それがなぜ現れたのか、

自分の過去を探っていくことを繰り返してみるのは、

私は、ある回数やればそれでもう、いいと思えるし、

場合によっては、それをわざわざする必要もないと思う。

もちろん、過去にさかのぼって原因を探り、

そんなことが今の自分にこんなふうに影響しているのか、と知ることは、

考え方を変えるのに役には立つだろう。

自分の思考パターンのクセを知れば、

次に同じようなことが起こったときに、

また、あれかな? という、想像が浮かんできて、

注意を払えるきっかけにはなるから。

でも、自分の分析をどんなに重ねても、

その先、がなければ、意味がない。

そもそも分析も統計も「ある一定の傾向」がありそうなことを

検討することで理論立てて考えるものだから、

その傾向のもとになる「情報」(データ)の集め方次第で、

あるいは、傾向をどう読むか次第で、

さまざまな結論が現れる可能性があるのだ。

分析するのが人、なのだから、

その人が見たいようにデータを読み取る可能性だってありうる。

つまり、分析は、いつまでたっても、ある程度の指標を

示す以外の役割を果たさない(と、言い切ってもいいと思う)。

それをどう使っていくか、のほうが、よほど大切なのだ。

そして、シャドウという、自分にとって嫌な気持ちを引き起こすものは

実際、すでに自分の中にあるのだから、

それをなぜなのか、と、ひたすら悩んで責めなくても、

つまり分析を重ねなくても、ただ「もう、やめよう、これ」と

思えれば、まずはそれでいいのだと感じる。

原因を知ったほうが、やめようと思いやすいかもしれないから、

探るのを止めろとか、そういうことを言うわけではない。

でも、シャドウが現れる原因を探るときは

見たくない自分をみることにもなるから、

痛すぎてその分析自体ができない(やりたくない)ことも、

きっと多々、あると思うのだ。

だから、理由がわからない、わからないから暗いことを思い浮かぶのを

やめられない、と、嘆いているのであれば、

いやいや、そんなことないですよ、と、私は言いたい。

暗いことを思い浮かべる自分がいるんだわ、と認めてあげて、

でも「わざわざ、それを延々と嘆いて何もしない」まま

この先もずっといる必要は、ないのだと。

思い浮かべる自分を認めていければ、徐々にでも、

変えてみるか、と、思えることを、知ってほしいのだ。

変える、つまり、思い浮かべてもそれを責めず、

でも、長い時間、あるいは何度も、それを繰り返す、

また思い続けることは、やめていく。

これには、分析も何も必要ないと思うのだ。

自分が不完全であることを、責めずにちゃんと認めること。

自分が不完全だからこそ、他人が不完全であることも

ゆるせるようになる。

これは昨日の本だけでなく、いろいろな本で言われているし、

私も、そうだろうなと思える。

これなら、今日、今、この瞬間からでも、練習できるのだ。

弱くってダメでバカな自分、いていいんだよ。

あなたの存在自体がすでに貴重で大切で

そのことは、何も変わらない。

だから希望は、捨てなくて、いいのだと。

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