お久しぶりです。ご無沙汰していてすみません。
今日は少しだけ、ある本からの抜粋です。
私も今また、過渡期のような状態にあるので
(苦しんだり、落ち込んでいるわけではないですよ)、
今はここに、文章を書けないでいます。
自分自身の変化のなかで、書くタイミングをはかっている、
というのが、正しい表現かもしれません。
そのようなときに巡り会う本というのは、
たいてい、自分の何かに響くものが多いようです。
今回はそのなかから、他の方にもお伝えしたい、と思えた部分を抜粋します。
この書籍は、心理学と、スピリチュアルが混ざったような種類の本ですので、
抽象的、そして少し、宗教的になります。
そもそも、著者が西洋人ゆえ、中には神さま、という表現も載っていたりしますが、
日本の神さまの捉え方に置き換えても、スピリチュアルの場合、
さほど大きなズレはないでしょう。
西洋やアラブなど、一神教の神さまは、私たちの感覚に置き換えれば、日本の神さまたち、
たとえばアメノミナカヌシと、タカミムスビ・タカギ、カミムスビ、
アマテラス、ヤマトタケル、スサノオ、などなど、
有名どころの神さまも、小さい地元の神さまも、全部一緒にして合体させたような
存在だよ、という捉え方をしても、私はいいと思っています。
ただしこれは、あくまで個人的感覚なので、論争は受け付けておりません。
抵抗を感じた方がいらっしゃったら、心から申し訳なく存じます。
いずれにせよ、いろいろな宗教の本にも、実際の生き方のヒントが説いてあるので、
自分の心に響く部分だけ、使えばいいのだと、私は考えている次第です。
ま、そんなことは前置きレベルで、長くなりましたが、
どうか必要な方に、届きますように。
実際の自分と理想の自分がどうしても一致しないーーーこれは、人間の葛藤の中でも最も重要なものと言えるでしょう。
(中略)
(さらに前略)……なぜこれほど多くの人が今の人生に100パーセント満足できずにいるのでしょう? どうして内面の知恵を活かして有効な選択をし、常に勇気と力強さをもって善意の行動をとれないのでしょう? そしてもっとも重要なことに、なぜ自らの価値観や常識に逆らうような行動をやめられずにいるのでしょう? それは私たちが拒否や無視をしようとしている自らのより暗い部分、「シャドウ(影の部分)」の影響にほかなりません。
(中略、以下、かなり後半の章です)
奇妙に聞こえるかもしれませんが、どんな人にとっても、シャドウはほっと落ち着ける安全地帯です。というのも、シャドウに支配された弱い存在である限り、強くなるための責任を負わなくても済むからです。暗闇に覆われている限り、誰かを輝かせる義務を負わずに済むからです。それゆえ、私たちは“光を避けること”を習慣化してしまっています。そうしていれば「自分は光を照らしてくれるのを待っているのに、いっこうにそうはならない。それは、私たちの中にもともと光の部分などないからだ」と言い訳することができるからです。
以上、「シャドウ・エフェクト」
著者:ディーパック・チョプラ、デビー・フォード、マリアン・ウィルソン、
訳:佐藤志緒、ヴォイス刊、2011年1月
より抜粋
ここでいう、光の部分とは。
いろいろな例が載っていますが、たとえば、善い気持ち、心地良い行い、よい心。
自分を、他人を卑下する必要が「ない」、
自分と他者をともに、お互い 慈しみ合える、
争いではなく解決を目指せる、静かに、幸せに、よい心地で過ごす。
それらを目の前で実現していく力、とでも、説明すればいいでしょうか。
もともと人に、備わっている力です。
自分がそのように感じること、それが相手に伝われば、
他者をもまた、穏やかに、幸せに、光り輝かせることになる。
そういう「伝播(でんぱ、タネのようなものを周囲にまいていく)」の力。
やり方は千差万別であっても、みな、要素としては光の力を持っているのです。
仕事を通じ、伝えることもできます。
人間関係で言えば、家族内でも、職場でも、近所でも通りすがりでも。
そして友情でも恋愛でも、もちろん、自分に対しても。
あらゆるところで、発揮できるのだと。
さらにそれは、規模や時期を問いません。
どんな形でも、どんなに小さくても、たとえあなたがどんな状況にあっても、です。
シャドウへの向かい方(対立や消去ではなく、言ってしまえば融合)も
一応、ざっと解説はされているので、ご興味があればどうぞ。