カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

生まれるときと 生まれたあとと

あなたが生まれるとき

あなたの母は

命の危険をおかしてまで

あなたを生んだ

出産について 多少でも知っている人なら わかるだろう

どんなに 健康な人でも 子どもが生まれるときは

母体が どんな危険にさらされるか わからないのだということを

失血 血圧上昇 その他 いろいろな危険要素について

子どもを産む人なら ほぼ必ず 病院などで事前に告げられる

それを覚悟のうえで 産むのだ

わかるだろうか

あなたは 

命を失うかもしれないが という

母の覚悟があって

初めて この世に 生まれている

覚悟の程度に差があるように思えても

命をかけてもらったというその事実は 変わらないのだ

ただ 生まれたあと 粗末に扱われた人

たとえば 親の憂さ晴らしに利用され

虐待と呼べる扱いを 受けた人は

そんな事実を わかりたくもないだろう

生まれて以降の 親からのひどい仕打ちに苦しみ

二度とあれを経験したくないと思う人がいることは 重々 承知している

だから そういう人には

それ以上の無理を 押し付ける気は

まったく ない

私がこの事実を 語りたいのは

自分に 価値がないと

思い込んでいる人に向けてだ

あなたが どれだけの母の覚悟を経て

この世に 生まれてきたか

思い知ってほしいのだ

その覚悟とは あなたという

ひとりの人間を

この世に生み出そうと思う

母の 愛だ

その愛を 文字通り全身に受けて

9ヵ月半も お腹のなかで育ち

母の命まで おびやかして

生まれたあなたに

なぜ 価値がないなどと

勝手に言えるのだ?

なぜ あなたがそんなことを 

決めつけられるのだ?

それはあなたが 思い込んでいるだけだ

事実は そうではない

誰にも理解されないとか

嘆く前に わかっておいてほしい

あなたは 生きていい存在だから 生まれたのだ

そして 生まれたあとについての

もうひとつの事実

孤独だったり

うまくいかなかったり

他人をうらやんだり 悔やみ続ける人に 

気づいてもらいたいこと

そのように 最初から価値を持って生まれたあなたが

生まれたあとも 受け入れてもらえる

相手が必ず ひとり いる

あなたが 自分の努力で

受け入れてもらえる相手がいる

それは 自分自身

自分自身だけは

自分を 見捨てる必要がない

本来であれば 見捨てず 受け入れていいのだ

母が あなたを生むことを

受け入れたように

生まれたあなたは 次に

ひとりの人間として

自分を受け入れていいのだ

たとえ どんなに 情けなくても

あなたは あなたの味方であって いい

……こんな言い方をすると 他人にひどいことをして

うれしがるような人間が 自己肯定し

誤解したらどうするのだという声も

聞こえてきそうだが

それは 違う

他人にひどいことををする人もまた 

自分を 受け入れられていないのだ

自分を受け入れられないから

他者を攻撃する

その点では 自分を攻撃している人と 実は 同じである

外を向くか 内を向くかの 違いだけなのだ

同様に 社会に対する怒りから 抜け出せない人

そうした怒りに どっぷり はまってしまう人も

自分を 受け入れられないから

代わりに 社会を攻撃している

自分という 味方が必ずいていいこと

そのことに 気づけたなら

勇気を持って 見つめてほしい

なぜ 自分を 受け入れられないのか

どうしたら 受け入れられるのか

自分が抱えている

この痛みの正体はなんなのかを

恐がらずに 見つめてほしい

自分を 受け入れている人は

誰も 何も 攻撃する必要がない

それで 平穏でいられるのだ

たとえ孤独でも たとえ状況が厳しくても

根本的な怖れからは 解放されたままでいられる

自分を受け入れているから 努力もまた無理なくでき それがだいたいは実る

失敗しても 次を待てる

そしてなおさら 自分を受け入れられるのだ

ねえ そのほうが 心地よく暮らせるとは 思わないだろうか?

エキセントリックで

波乱万丈で

常に常に 刺激的で必死で

他人に振り回され 他人を振り回して

傷つき 嘆き 苦しんで もがいていないとダメだろうか?

そんな暮らしじゃないと

幸せではない……つまらないだろうか?

生まれるときも 生まれたあとも

あなたは 生きる価値のある 存在なのだから

その厳然たる事実を 前提として

何を怖れ 何を求めているのか

見つめてほしいと 心から願う

見つめれば わかる 

やってみて そのとき初めてわかる

その怖れは 必ず消える

求めているものは 必ず 

何らかの形で 現れる

……あくまでも やってみれば だけどね

幽霊の正体見たり 枯れ尾花 なのだ

案ずるより 生むが易し

百聞は一見にしかず……

やってみてほしい

目指すもの

まず先に、一言、お詫びします。

昨日のブログで、ワザと説明を省いて

言葉を記したところが2ヵ所、あります。

ひとつは、

外側の光の服を脱いだとき普通の人に「成り下がる」

と書いた部分、

もうひとつは、思いやりや愛、についての説明でした。

なぜ、成り下がると(カギ括弧をつけてはいますが)

書きっぱなしにしたか。

それは、光の服が大好きな人ほど、この言葉を強く感じて

ドキッとされるだろうと思えたからです。

周りが、というよりご本人が一番、そう感じておられるのです。

恐れとして。

それを、意識して欲しかったのです。

なので、憤慨された方がいたら、どうぞお許しください。

思いやりのほうは、今日の話に回したかったので、

これまたあえて、あっさり書いてそのままにした次第です。

こちらも、言うのは簡単だよ! と思われた方がいたらすみません。

さて、本題。

成り下がる、ことと思いやり。

この2つは、結構リンクしているように、私には思える。

実例を挙げながら、話していこう。

私の知り合いに、ある程度都会的なところから、

田舎の里山にご家族で引っ越しされた方がいる。

まったくの無関係な土地ではなく、親族の旧家のようなところ。

だが、兄弟など直接的な知り合いがいるわけではない土地。

自然の豊かなその場所で、早めにセカンドライフを楽しもうと、

移住されたのである。

が、しかし。

その里山には、問題のあるお爺さんが住んでいた。

その土地の、昔の名士……まあ、権力者だったらしい人(地主か、

地方議員も少しやってたか、そんな話?)で、引退されてからも、

その土地を守ろうと「大義名分」上は考えていたらしい。

知人のご家族は、なぜか彼に敵意をもたれてしまった。

たぶん、彼を敬うような行動を、最初の頃に

知人たちが取らなかったからだとは推測されるが、

そんなの引っ越し後、いきなりわかるはずがない。

しかもそうなるまでの期間はあっという間であり、

彼を知り、話し合う余地も時間もなかったそうなのだ。

まあそういう感じで、お爺さんからの敵視が始まった。

で、このお爺さんは何をしたか。

車の中から、毎日に近い頻度で知人宅を監視したり、

ときには嫌がらせとして、ガラス破片などを

知人の家の前にばらまいたりしたのだ。

やってることは、ほぼストーカー行為に近い。

でも、彼の表面上の意識は、この不審な新参者が

村に悪影響を及ぼさないよう、俺が見張って守らなければ、

という正義である。

そして心の奥底で求めているのは、

俺はこの村の、光輝く名士なのだ!

昔からの住民は皆、それを知っているから

俺を敬っている!(事実は単なる「触らぬ神に祟りナシ」の扱い)、

だからお前達も、俺の威光にひれ伏すべきなのだ!

という、ふんぞり返った傲慢さである。

彼にひれ伏さないから、相手に罰を与えていたのだ。

彼が若き頃、この町を守ろうと最初に決意したときは、

確かに、夢に燃えたかもしれない。

この村を、よくしていこうと。そしていろいろ頑張って、

感謝されることも、もしかしたらあったかもしれない。

彼は、その光輝く服を、たいそう気に入ったのだ。

その立場を退いてからも、村の長老的役目を

果たしたかったのかもしれないのだが。

残念なことにその対立は、彼が亡くなるまで解けなかった。

知人も、周囲の人の及び腰を残念に思いつつ、

自分たちに味方することで実際、その方々にも

迷惑がかかる可能性が高かったため、あきらめた。

あまりにひどい場合には苦情も伝えたりしたが、

基本的には、相手にしないという方法を選んだ。

そこで暮らして生きたかったから。

とても好ましい自然がある土地だったから。

そのお爺さんが亡くなった年、初めて、知人は、その里山の秋の美しさに

心から見とれたそうだ。こんなに美しいとは知らなかった、と。

それほど、緊張の日々だったのだ。

私は知人の気持ちのほうがよりわかるため、

個人的には、こう書きたくはないのだが、

ここから先は、あえて冷静に書いていく。

訳のわからないうちに敵視され、ストーカー的な行為をされたら、

その相手と冷静に話し合い、和解を目指そうと

努力し続けることは難しい。

知人たちも何度か、落ち着いた話し合いにチャレンジして

あきらめたらしいのだが、それはもう、そうなっても

仕方のない話だ。

だからその部分では悲しい、と思う。

ただそれでも、お爺さん、腹を割って話し合いしませんか、

という方向へ、何かをきっかけとして持っていくことは、

本当にまったく、できなかっただろうのだろうか、と。

相手に立ち向かうのではない、苦情を言うだけではない視点。

憐れみ、と書くと語弊があるかもしれないが、

お爺さんの悲しさをひも解く方向。

ホンモノのストーカーにもしそれをやったら、愛情が絡むから

さらに誤解を生む危険もあり、絶対に止めてほしいのだが、

この場合は、そのような視点から働きかけられる可能性は

0パーセントだったのだろうか、とも思うのだ。

現実的には、とても厳しい話だとわかっている。

わかっているから、視点の話として書いている。

実際に直接、お爺さんにやらなくてもいい。

時が経ってから、そのように考えてみることで心が落ち着くのであれば、

いかがでしょう、という提案レベルの話。

たぶん、慈悲、という言葉を使うのが、イメージとしては

一番伝わりやすいかと思う。

そしてお爺さんのほうには。

外側の服を保ちたければ、内面から光を放つことで、

自然に人は、信頼と感謝を寄せてくれるのだということを、

知る機会はなかったのだろうかと。

見張っている時間があるのなら、道で困っている人を探して

淡々と普通に手助けすることだって、できたと思う。

過去の、外側の光の服の思い出に、そんな思いやりがプラスされれば、

あんなに立派で思いやりのある人だからこそ、

やはり名士にふさわしいと、人々は受け止めてくれただろう。

ある意味、最強である。

それはまた、周囲の人も感化していく状況を生み出し、

まさに住民の暮らしやすさ、村の暮らしの向上にもつながっただろう。

そんなチャンスがあったのに、彼は見向きもしなかった。

もちろん、名誉目的の計算された思いやりは、

すぐバケの皮がはがれるから(それをやると名誉どころか、

信用が地に堕ちるだろう)、やめたほうがいい。

でも単純に、発すれば気持ちよく、返ってくればうれしいことを、

お爺さんがみすみす見逃したのはとてもとても、残念である。

今日はこの実例だけで話を終える。

何を受け止められるかは、人によってさまざまだと思うが、

この実例を知ったうえで、自分と、自分の周囲を一度、

見つめ直してみてほしいと願う。

外にまとう光と、内から放つ光

このところ、なんとなく、外側の価値と内側の価値、

というようなことが気になっていて、

このブログでもときどき触れたりしていた。

先日の視点2、の話とかね。

そうしたら、やはり、そういう書物に出会う。

何冊かあったけれど、具体的で物語として面白かった、

宮部みゆきさんの小説の表現を、少しお借りしながら話してみようと思う。

私か読んだのは、最近文庫本となった『英雄の書』上・下巻。

ストーリーはヒロイックファンタジーに分類されるが、

そこはさすがに宮部さん、普通のファンタジーではない。

人が、光輝く英雄になりたい、と思ったとき、

その裏側に必ず影はでき、この2つは離れることはない、

というような視点が含まれている。

外側の、立派なもの。

名誉、地位、財産、偉いと人から思われそうな職業、

いわゆる社会的立場、肩書きはもちろんのこと、

家族内での強い力、友人関係における強さなど。

それを、自分で意識したとき、その裏では必ず、「驕り」(おごり)という

危険性が含まれる。

簡単に言ってしまえば、他人に向かって

「私はエラいんだ!」と力を示したがる危険性である。

それは常に、「他人に示すこと」を目的とする類のもの。

他者と自分を比較し、優劣をつけようとしている印なのだ。

別に、社会的な話に限った話ではない。

正しくありたい、自分のほうが正しいことを世間に証明したい、とか、

私の強さを、素晴らしさを、才能を、周囲に知らしめたい、

人に認めさせたい、と思うことも、驕りに容易につながる。

それを、目の前の家族にやるか、会社でやるか、

もっと大きく社会的にやるか、の差はあっても、

自分のほうが……という思いは同じである。

誰かがそう思ったとき。

それを知った他の誰かが「ああ、そんなやり方をしていいんだ」と知り、

私は私でエラいんだから、それを示していいや、と思ったとき。

正しい、正しい、が、いろいろなところで現れ、

互いに自分のほうを認めさせようと争いが起こる。

その端的な例が秋葉原のあの事件であったり、

世界各地の紛争、人種差別であったりする。

自分の素晴らしさ、正しさを証明するめに、争って戦い、

理解しない人を傷つけていいのである。

だからその争いを収めるため、世の中に法律が存在しているが、

その法律でさえ、解釈はマチマチで、国によっても違うのだ。

他人に示す、英雄的な自分の光。

それは自分の外側の、もうひとつの「服」のようなものだ。

その立場が崩れた瞬間、服が脱げる。例えば地位を失ったりしたら、

その人はとたんに、自分では意図していなかった

服のない普通の人に「成り下がる」。

さらに、思いこみによって人道的倫理観をも超え行動した人は

裁判によって「犯罪者」になりうるのだ。

外側の光の服はそれほどもろく、危うい面をはらむ。

振りかざしてしまった瞬間、光の裏側の闇があっという間に現れ、

光を放っていたはずの服が暗闇の服に変わるのだ。

その一方で、先日も書いた「思いやり」や「親愛的愛情」は、

本来、自分が立派だと思われたいから発するものではない。

本来、と断りを入れなければいけないところが悲しいが、

計算高く自分を演出したい人以外は

普通、自然に現れるものだろう。

これもまた、光のようなものであるが、

人の心をほのかに照らし、あたたかしてくれる、

そういう優しい光だ。

光が強ければ、影も濃い。

輝く服は、輝かせれば輝かせるほど闇が強くなるし、

私たちが太陽本体を直接見られないように、

人にはちょっときつすぎるものとなるかもしれない。

そもそも影があるから、私たちはモノをモノとして認識できる。

真っ白なまばゆい光が部屋中に満ちると影さえ消え、

モノの形はわからなくなる。

それは結局、真っ暗闇と同じことなのだ。

だからね。

影、闇の部分が、自分の中にある、と思える人、

自分が暗いとか、嫌いな面がある人は、

同時に必ず、光も備えているはずなのだ。

あなたが今は、見ていない、見えていないだけで。

弱さが優しさに通じるようなものだ。

驕り高ぶる人が光しか見ていないのとちょうど正反対。

これまた、やっていることは同じなのだ。

でも、ほのかに温かい光なら、それを意図的に強くしない限り

(強くすると影、できちゃうよね…)、

影もまた、薄いままで済む。

しかもそれは、失う心配のあまりないものだ。

つい忘れてしまうことはあっても、上手に使えないときがあっても、

その光の温かさを思い出すこと自体は、大抵の人にできるだろう。

イヤな人に愛を放て、とか言ってるわけではない。

いきなり、そんな難しいことにチャレンジしなくてもいい。

でも周りの人、特に、先に自分がその光を届けてもらった人だったら、

自分もまたやがて、温かい光を返したくなる……。

このことは、わかるだろうと思う。

ということはつまり、あなたがそれを先に放てば、

直接ではなくてもだんだん、温かい光が返ってくるのだ。

それって、うれしいし、幸せな循環になるよね。

自分のなかの、闇だけを見つめないこと。

外側に示す光を求めているのなら、その闇の濃さも心に留めること。

内側から発する光は、本当はなくならず、

地位も名誉も財産も関係ないところで

あなたを幸せにしてくれるということ。

求めるのであれば、外側の光り輝きまくる服、ではなく、

内側の温かい光を放てる機会がより多くなるように、

意識して、求めてほしいと思える。

とくに、自分の暗い闇を見つめている最中の人には、

それを願う次第である。