カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

練習

壊れてしまったものを

新たにしていくとき

同じやり方は しなくていい
 

壊れたときに 感じたことも

もっと 大切にしていい

壊れたことから学んだのだから

それを生かして いいのだ

ただし それは

自分だけが 今後は楽をして得する

そんな方向じゃないほうがいいと思う

それはまた 別の壊れ方を

やがて引き起こしていくだろう

失敗しないで

完璧にできるわけはないし

失敗したからこそ 学べるものがある

なのにもう 失敗したくない

そう思ってしまったら

あなたは 動き出せないだろう

世の中のことは

練習して 失敗して 

学んでいくことが

ほとんどなのだ

一度 壊れたことを恐れるあまり

土台のまま 放置したら

そこには 何も生まれない

望んでいるものがあるなら

それを 作ってみるしかない

そのために と

他人を当てにするのも違う

あなたが あなたのことを

なんとかしたいのと同じように

他の人もまた 自分をなんとかしたい

お互いに協力しあえる部分はあるが

あなたを 作りあげるのは

あくまでも あなた自身である

練習を恐れ 失敗を恐れていたら

あるいは 練習そのものが面倒だと

一足飛びに 望んだ自分に

なろうとするなら

それはもう心の中で 

夢見るしかないのだ

現実を 自分が自力で

変えていかない限り

新しい現実は 生まれないのだから

練習すれば 失敗もまた当たり前

たとえばみんなが

私をわかってくれないとき

あなたもまた

相手をわかろうとしていない

私だけ 私のことだけわかって では

相手を ないがしろにし過ぎている

あなたは 誰かより偉いわけではない

社会的な立場とか 地位とか

お金とか 名誉とか 環境とか

そんなもので

人という存在のそのものに

優劣がつくわけではない

そんな肩書き的なものが

まったくなくても

人から すばらしいと

受け止められる人は

この世の中にたくさんいるのだ

それに ある一つの形で

自分を表現できなくなっても

別の形で 自分を表現していいのだ

たとえばお金や 身体的能力の衰え

それによって 

実現できなくなったことが

あったとしても

ほかに あなたが心地よく

自分を表現していけるやり方は

必ず存在しているから

仕事だって そういう類のものなのだ

だから自分に

レッテルを張らないでほしい

向いてないとか

そんな器じゃないとか

それは単にまだ やってないから

練習を重ねていないから

だけかもしれないのだ

練習が面倒なら

望まなければいい

ただ それだけのことだ 本当はね

望むのをやめ 練習しないか

望んだ以上 練習してみるかは

あなたが選んでいい

でも 望むなら それをやれるように

変えていく練習が必要だということを

そしてその練習は

単なる苦労 という方向ではなく

できる範囲の

これならちょっとは 楽しそうかな?

と思えるところからでいいことを

どうか どうか

知っていただけますように

あなたは まだまだこの先

ダメでも 

終わりでも

ないのだから

視点 ~その2~

さて、先ほどの話を少し振り返りつつ。

価値観的な問題では、「正しい」ことはひとつではない。

倫理感だって、文化が違えば異なる。

たとえばアラブ民族の男尊女卑的、一夫多妻制の価値観は、

日本人にとって理解しづらいものもあるかもしれない。

インドの身分制度だってそうだろう。アジア文化圏内での価値観の相違も、よく騒ぎになっている。

でも、ありがたいことに「幸せ」の視点で考えてみるとき、

「思いやり」や「親切」、「親愛的愛情」は、万国共通である。

マザー・テレサを「あの人は間違っている!」と非難“しきれる”人は、

世界中でも、たくさんはいないだろう。

どれも全部、発する側、受け取る側の双方がうれしい。

もっと言ってしまえば、「発した相手に届いた」、

自分のなかから「自然に発露した、そうした思い」が相手に素直に受け止めてもらえ、

喜んでもらえたときが、一番うれしい、幸せなのだ。

そう考えると「相手にだけそれを求める」のは、

相手側の「自然な発露」を待つわけではないから、強要である。

「私がそうしてあげるから、あなたも返して当然よ」だと、これまた「自然」ではなく、

単なる取り引き、もっと言ってしまえば「私も受け取ることありき」の、やはり強要的発想である。

まあ、そうなってほしいと話し合う、双方の着地点を求めるという面においては、まだ余地があるけれどね。

届かない人には、素直に受け止められない人にはどうするか。

これもまた、マザーの話をたとえに出すと、

行動で示し続けることが、理解を得る、ひとつの方法だと思う。

彼女は、おびえて受け取れない人にも世話をして、やがて、心を開いていってもらった。

それは「その人が瀕死」の状況だったからだけれど。

救いが必要だと、誰もがわかる人に真っ先に自分が手を差し伸べたのだ。

ここまでできる人は、そうそういないだろう。

でも、相手側の理解、という面で考えたときも、彼女は争わず、戦わず、

ただ「そのことだけに集中して行動する」ことで理解を得たのだ。

彼女がスラム街に行き、文字通り身ひとつで、倒れている人を助ける活動を始めたとき、

ヒンズー教の人たちは「改宗を意図している」「キリスト教の宣伝行為だ」と彼女を非難し、

スラム街から追い出そうと集まってきた。

そのとき、そうとは受け止めなかった、あるまとめ役の人がいて、その方の発言もすばらしいのだが、

「では彼女の代わりに誰か、この人たちを世話してあげてください」と、援護したのだ。

非難しに集まった人たちは、黙々と世話を続ける彼女に誰も手を出せず、

また、誰も代わりになれず、ひとり、またひとり、立ち去るしかなかった。

受け止めない人に向かって、それでも思いやりを与え続けろというのではない。

あなたが誰かに思いやりを発したいと感じ、

そして「それを求める人」にも、きちんと届いていると感じるのであれば、

周囲の誤解や非難と「わざわざ戦う」必要がないのである。

ましてや、自分が向き合う相手に届かないのであれば、それもまた「戦う」必要がないのだ。

だって相手は、それを素直に受け取れないのだから。

それは相手の問題、相手の価値観である。

そこまで親切に、相手を変えてあげる必要は、本当はない。

相手をとても大切に思い、苦しんでいるのを助けてあげたい、と思えるときだけ、

チャレンジしてみればいいと思う。

ただし、そんな相手であっても、届かない場合もありうる。その点は理解しておいてほしいと願う。

まあ、最初はとくに、あなたの思いを受け止められる人に対して、

幸せになるための思いやりや親切、愛を発してあげれば、それでよいのである。

それを「し続ける」ことで、マザーのように「この人はそういう人だ」と理解できる人が増えて、

周囲にどんどん、その輪が広がっていけば、うれしいよね。

マザーはホント、決して「戦わない」のだ。

寄付を得るために説明、説得には行くけれど。

もちろん彼女も、理解のない人に怒ってはいたらしい。

でもあきらめず、理解してくれる人を求め続けた。欲する人には与え続けた。

彼女の中には「キリスト教」という核があったからできたのだろうけれど、

そこまでいかなくてもちょっとは、学べる部分があると思う。

実際、彼女は「平和を願う集会には出るけれど、戦争反対の集会には出ない」と、はっきり明言している。

人には人の価値観があるということを、それを自分が「相手を変える」ところまで活動しなくても、

もっと他に、やるべき大切なことがあったのだ、きっと。

救いを求める人は、とくに初期の頃、たくさんいたしね。

彼女が活動を始め、やがて、インドの街から「行き倒れ」の人がいなくなった、という事実は、

なんだか勇気を与えてくれるように思える。

幸せって、届くのだ、そして、広がるのだ、と。

こういうやり方も、幸せを求めるひとつの方法だと思える。

なんだか幸せの求め方、みたいな話にもなってしまったけれど、

仕事や対人関係その他、何か問題がある、幸せじゃないと感じたときに、

自分の視点をどこに置くかという面で、参考にしていただければ幸いである。

視点 ~その1~

今日の話は、多少、あるいは多分に、思想的、抽象的なものになると思う。

もしかしたら一部は、宗教的な話に感じられる内容も入るかもしれない。

できるだけわかりやすく、怪しくならいよう(笑)書くつもりなので、

よくわからん、という人は受け取れる分だけ、受け取ってほしいと願う。

人がお金を稼ぎたい、地位や名誉がほしい、恋人がほしいというとき、

それはいったい、何を求めているのだろう。

これは私が鬱になっていろいろな本を読む中で、哲学でも宗教学でも人間学でも社会学でも

触れられていた話だった。

たとえば、お金をもっと稼ぎたい、または単純にお金がたくさん欲しい、というとき。

その理由は、家族をもっと楽しませてあげたい、ラクにしてあげたい、あるいは不足なく養いたい。

ほしいものを自由に買いたい、もっと旅行にいきたい、などになるだろう。

では、「そうすること」によって何を得られるのか。

自分の満足感、達成感である。

自分が満足感、達成感を得られたとき、人はどうなるか。

「幸せ」を感じるのである。

このようにして落とし込んでいくと、お金も、自由になる時間も、他者との関係も、

自分が「幸せ」を得る、感じるために、求めていることになる。

さらに言えば。

ここでは恋愛を例にして考えてみよう。

自分が何とも思っていない、好意も嫌悪も感じない人から好きと言われても、

うれしさは多少もらえるものの、それ以上ではない。

キライな人から好きと言われたら、うざったさ、嫌悪感、拒否感を感じるだろう。

自分が好意的に感じる人、あるいは惚れている人から「好き」と言われたら、

幸せなのである。

そこにまず、「自分が」という視点が入る。

相手以前に、先に自分ありき、なのである。

よく、○○してもらえたらいいのに、とか、○○できたら、してくれたら、私は幸せなのに。

という話を聞くが、その前提には「相手が自分にとってそういう立場の人だから」がくっついているのである。

さて。

自分に自分の意志があるように、自分が関わる相手にも、相手の意志がある。

そしてそれは、それぞれが「持っていていいもの」である。中身の是非はともかくとしてね。

ここまでは、わかると思う。

でも、関わる相手が、「自分にとって不都合」な行動をしたとき。

夫が服を脱ぎ散らかす、または子どもがおもちゃを「あとでまだ遊ぶから」と出しっぱなしする、でもいい。

それが「イヤ」だった場合、あなたは、心地よさを感じない。

せっかく毎日、苦労して整理整頓・掃除してるのは、誰だと思ってるのよ! と感じるかもしれない。

ところが。

とりあえず服を脱ぎ散らかすことを、夫は「悪い」と思っていないかもしれない。

だってどうせ洗濯するんだし。あとから洗濯カゴにまとめて放り込めばいいじゃない、と。

もっと価値観が違う人なら「洗濯するときに集めればいいじゃない」という人だっているだろう。

子どもだってそうかもしれない。最後に片付ければいいじゃない、と。

そう、「その状態が心地よくない」、幸せじゃないのは、あなた自身なのである。

ではその状況をどうするか。

「私が正しい! だから面倒くさいと思わず今すぐ片付けろ!」と主張しても、

「何で?」と返されるかもしれない。

「私はその状態だと、部屋を歩くときにモノを踏むのがイヤだし、

よけるのも、足元に気をつけなくちゃいけない。急いでいたら転ぶこともあると思うから、

そういう状態ではなくしてほしい」と説明する。

これなら選択肢が生じるので、相手にも考える余地が生まれるかもしれない。

もっと言ってしまえば、「私が心地よくないから、私が片付ける」という選択肢だってあるのだ。

まあでも、これをやると、いつまでたっても価値観の違いは埋まらず、

子どももお父さんの真似をして、将来、お嫁さんに嫌がられるかもしれない(笑)

ただ、そういう捉え方、何を良いと思えるか、幸せな状態だと感じるかは

個人差があるし、その差を埋める方法もいくつかあるし、

選択肢もいくつかあって「正しい」のはひとつではないのだ、と、理解してほしいのだ。

で、さっきも言った、「自分ありき」の視点で考えてみると。

相手が自分と同じ価値観で、同じように考えて行動してくれたら、それはもう、幸せだろう。

部屋の中がきちんと片付いている状況が好きな人なら、相手にそうしてほしいと思うだろう。

でも、それは決して、あなたが「正しい」からではない。

あなたがたまたま、「そう感じる」のだ。

そして部屋を散らかす相手のことを「手抜き」だの「面倒くさがり」だの、と、

決めつけたりするわけだ。相手には「手抜き」の範囲じゃないかもしれないのに。

相手に変わってほしいなら。

まず自分が「なぜそう感じるのか」を、捉えてみるといいと思う。

そこに横たわっている、あなたが「幸せ」だと思える価値観を。

夫は、のちほど、洗濯置き場の近くに行くときついでに持っていくけれど、

まずはスーツから解放されてホッと一息つく瞬間に、幸せを感じているかもしれない。

子どもは、やりかけた遊びを、少しノドが乾いたから、または飽きたから「休憩して」、

でもあとでもっとやり尽くせる、味わい尽くせるんだな、という「状況を保つ」こと自体に、

うれしさを感じているかもしれない。

そういう視点で見つめてみると、そこに「自分が何を幸せと思えるのか」という

自分の感じ方を捉える機会が生まれる。

さらに話し合う余地があるなら、相手と向き合って

「どうすればお互いが、より『幸せ』に近い状態で折り合えるか」という視点が生まれる。

双方にとっての「ベストな着地点」を、探すことも可能なのだ。

相手にばかり「変わってほしい」と願っているな、とか、

相手に「何かしてほしい」とばかり願っていると思えるなら、

自分が求めている「幸せな状況」を一度、見つめてほしいと思う。

自分が自分の価値観をとても大切にしていいように、

幸せを求めていいように、

相手も、相手の価値観を大切にしていいのだ、本当は。

それがどんなに「おかしい」と思えるものであってさえ、

相手がそれを幸せと感じるとき、

どこまで歩み寄るのか、を選択していいのだ。

価値観についてはもう少し語りたいのだが、長くなるのでその2に続く。