カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

できない言い訳

自分が嫌い という人は

同時に必ず できないことを

たくさん 抱えている

なぜ できないか

それは 自分が嫌いだからだ

この 堂々めぐりに 気づいてほしいと思う

こうしてみれば? と言われたら

それは○○だからできない と言う

じゃあ ああしてみたら? と言われたら

それは△△だから できないと言う

○○や△△に当てはまるのは

自分の能力不足や性格 周囲の環境

さらにはどうせやっても無駄だという

あきらめや 過去の失敗談が入る

できない理由は100個でも思いつくのだ

そして とりあえずやってみたら

と言われたら

そんなことして 何の意味があるのか

と返事する

要は やりたくないのだ

変わりたい と言いながら

変わるのが怖いのである

また失敗したら 自分にさらに失望するから

うまくできない自分を 直視しなくてはいけないから

そんなこと したくないのである

失敗が 前提になっているのである

うん

でも 変わりたいんだよね

できないことを できてこなかったことを

新たに できるようにしていくんだから

最初はうまくいかなくても 当たり前だよね

そんな言葉は その人には 届かない

完璧にできないものには 格好悪いから

手を出せないのだ 恥をかきたくないのだ

だって 周囲の人は できているように思えるから

自分だけができないと 世間にさらしたくはないのである

でも今 できているように見える人は

それまでに何度も失敗しながら

努力して 少しずつ できるようになったはず

それなのに その人には

そんなことは 見えないのである

ただ 今の自分と 

周囲の差 しか 見えないのだ

怖がっていたら 失敗を恥だと思ったら

何も練習できず 何も上達しない

それは仕事や勉強に限らない

人間関係だって 全部そう

友達 家族 恋愛 学内 社内

全部 練習練習の 連続なのだ

鬱 という病は やる やらない以前に

自分がまったく 動けなくなる

物理的にも 精神的にも

止まってしまう 病だ

そんなときに できない と責めても

できなくて 当たり前だ

身体ごと 作動がまるまる 狂いを生じているのだから

それを認められなければ 病も治らない

そこはまず 開き直って

自分を治していくしかないのだ

自分を責め続けても 時間がかかるだけである

悪い状態の日々が 長引くだけである

そして 鬱から脱し始めたとき

何を自分ができないと決めつけていたか

なぜそんな決めつけしか できなくなっていたのか

ようやく 探し始めることができるのだ

病が軽くなっても

また 病ではなくても

自分を嫌っている人は

まず その

「ただもう とにかく 自分が嫌い」

な その訳を

冷静に 解いていくしかないのである

あなたは今まで あまりに主観的すぎたのだ

自分の考えだけに 固執し過ぎてきたのだ

できない理由を100個並べても できるようにはならない

失敗しながら 覚えていくしかない

それが 普通 なのだ

できない理由を他人にもかぶせているなら

なおさら なぜ自分は その人のせいにしてきたのかを

冷静に 考えてみてほしい

誰でも 失敗は嫌だ

そんなことは 当たり前である

でも失敗を繰り返しながら 覚えていくしかないことを

失敗が嫌だからと言って やらなければ

あなたは一生 自分が嫌いで

一生 言い訳を続けて

一生 それができないままになる

それは 幸せでは ないよね

わざわざ 自分を 不幸せな檻に

閉じ込め続けるほうを 選択していくってことだ

最初は できなくて 当たり前

できない自分を罵る必要もないし

何より 不出来な自分を嫌うからこそ

できない言い訳を 並べてしまうのだと

どうか 気づいてほしい

あなたがそれを できないのは

できない と 自分にレッテルを貼って

そういう自分を嫌うからこそ なのだ

いいじゃない できなくても 当たり前

自分を 戒めるよりは

自分を 明るく励ますほうが

よほど できるようになる 近道になるよ

すべては 時間のかかる 練習なのだ

やりながら 軌道修正していくものなのだ

だから まずは できない自分を ゆるしてあげてね

やってみて だめでも 責めないでね

何より 格好悪いと言い訳並べて

動かないままで いないでね

動かないほうが よほど 格好悪いよ

人の価値は

何を成し遂げたかでなく

何を成し遂げようとしたかで決まる

この言葉は 本当だと 私は思う

きっと すべては 途上で いいのだ

聖人君子じゃ あるまいに(自戒のことば)

聖人君子じゃ あるまいに

さもありなんと そんなこと

なぜに おまえは 思うのだ

なぜに おまえは 決めるのだ

自分のなかの いつわりの

勝手な 理想を 持ち上げて

そうならないのは 人のせい

そうならないのは 親のせい

そうならないのは 友のせい

そうならないのは 上のせい

そうならないのは 下のせい

どこまで走る その理由

そうかと思えば その次は

自分のせいだと 決めたらば

あらゆることは 自己のせい

自分をひたすら 下げまくる

おびえたいなら おびえなさい

ふるえたいなら ふるえなさい

泣きたいときは 泣きなさい

苦しみたいなら ご自由に

周囲の理屈を どう捉え

周りの評価を どう感じ

世間を気にして 生きるのも

できないダメだと 決めるのも

すべては 自分の決断だ

正しいことは 何なのか

よいこと よいもの よいくらし

そこに囚われ もがくなら

私は一生 苦悩する

私は一生 苦労する

知っておくのは 自己のこと

そういう自分が 馬鹿なこと

正しいことは 普遍にあらず

時代によって 変わるのだ

変わらぬものは ないのだと

今がどんなに つらくても

そこから 学びを得る者は

やがては 脱皮 していける

やがては 変化 していける

……そこから 変われるのは

自分自身を 許し 認め

もうこんな捉え方は やめようと決めて

自分に 周囲に 優しくなれたときである

立派に すばらしく成功して

評価や地位を得る必要など どこにもないのだ

100年経てば 私がいた痕跡など どこにも残らないだろう

人生は ときどきのうれしさと楽しさと

ときに静かな満足を得られれば

それで十分である

自分の小ささを 祝え 私

こんなはずじゃなかった?

昨日の話の続きのようなものになる。「BIG」というかなり抽象的な言葉を使ったが、

現状を「こんなはずじゃなかったのに」と

ひたすら嫌がっている人に向けて、話してみたかった。

鬱という病にかかれば、誰しもが「こんなはずじゃなかった」という気持ちに陥る。

そりゃそうである。望んで病にかかる人など、まずいないだろうと思う。

しかも、自分の気持ちから、脳の具合まで悪くして、暗いことしか考えられなくなる病気なのだ。

誰が「ラッキー」などと思うだろうか。

この病のキモは、「気持ち」である。

ということはあなたは、気持ちで、自分を追い込んでいるのである。

気持ち……もっと具体的に言えば、あなたのその「考え方」「価値観」「思考パターン」で。

こうなりたい、という目標があることは、悪いことではない。

それがお金持ちになりたいとか、有名になりたいという抽象的なものでも、

仕事で○○になりたいでも、恋人がほしいでも、結局はそれによって「幸せになりたい」のである。

自分がそう感じることによって満たされれば、幸せになれるから。

お金も名誉も、仕事で何かを成すのも、本当はそれが最終目標ではなく、

それによって満たされて、幸福感を得たいのである。

家族が円満に、とか健康に、というのもそうだろう。

でも、その幸福を得る手段を「その方法だけ」で得ようと思ったり、

人よりなんらかの形で優位に立つ(家族がうまくいくことだって、そういう視線で、他の家と比べて、

なんて考え方をする可能性はある)というところだけで得ようと思ったら、

表面的なことにこだわり始めてしまう。

体裁をつくろったり、とにかく達成すればいい、ってことになったり。

そうなると、人間関係が崩れてしまうかもしれないことは、容易に想像できるだろう。

その目標は「あなたが」幸福になりたいためのもので、そこにこだわり始めたら、

周囲の人は「協力してくれないと困る存在」になってしまうから。

仕事関係しかり、家族・友人・恋人関係しかり。

その目標のために協力してください、場合によっては利用します、ということになりうる。

で、協力を得られなければ「どうしてわかってくれないの」となってしまう。

あれ? 自分のことを自分で立派に成し遂げようとしているのに、なぜかうまくいかなくなってきて、

人間関係まで面倒くさくなってきたぞ? ってことになってしまうのだ。

自分の努力は確かに必要である。

でも、自分だけがなんとか努力すれば、あなたが幸せになれるわけではないのだ。

で、先の話に戻る。

「こんなはずじゃなかった」というあなたの視点は、今、どこを向いているだろう。

何かを成す、こうする、ああしたい、だけに、集中していなかっただろうか。

周囲も含め、よく見て全部幸せにしろとか、そういう話をしているのではない。

夢、目標の設定において、あなたは「幸せになる」ために、それを設定したはずなのに、

いつのまにか、夢や目標だけが、一人歩きしていなかっただろうか?

だから現実とのギャップや、自分の努力が足りない云々で、うまくいかない歯車のずればっかり気になってきて、

自分を追い詰める結果になってしまったのではないだろうか?

もちろんこれは思い切り、自戒をこめて語っている。私がまさにそれだった。

周囲を犠牲にしたわけではないけれど(笑)、幸せになるためには達成しなくちゃいけない、が

さらに「達成しさえすればいい」にすり替わってしまっていた。

イイ感じで幸せになる、というような最終目標が消えて、

単なる自己満足だけを求めていたのである。

そりゃ、いろいろなことが起こるんだから、歯車がかみ合わなくなって、理想通りに進まなくなって、

自分を追い詰めて、鬱にもなるわさ。

外側だけの、つじつまを合わせようとしてたんだから。それで自己満足しようとしてたんだから。

本当に「幸せだ」と思える人は、外側で少々、大変なことがあっても、動じないでいられる。

それはなぜかというと、自分が自分を信頼できているからである。

お金や名誉や、「○○したい、なりたい」という達成の欲は、

まあ、それも「幸せの味わい方の、楽しみのひとつ」であって、という感覚。

自分に対する信頼感が先なのだ。

社会的立場や、表面的な成功、お金が先ではなく、自分の中身が先、なのである。

だから、この鬱という病にかかった人にとって、今はチャンスなのだ、と、私はあえて言う。

病を治すためには、自分の考え方やこだわりや思考パターンを見つめ直さざるをえなくなる。

それをしないまま、なんとか目の前の出来事だけこなして、達成しようと思ったって、

またどこかで、自分で自分を嫌になる。うまく動けないのだから、当たり前である。

自分を見つめ直すことは、中身をつくることに、つながるのだ。

動じなくなること。優しくなれること。温かい気持ちで見守ること。

広い視野を持つこと。他者を、ただ非難するのではなく、

その人がなぜそうしたか、相手の奥の気持ちまで見つめながら受け止められること。

自分に対しても同様に、なぜ私は今、こう考えているのか、その奥まで、見つめられること。

視点の変え方はいくらでもあって、気づいていくたびに、あなたは、自分の価値観を変えていくことになる。

そういうふうに、できるチャンスなのだ。

そうしたいなら、まずは身体を養い、脳の働きを取り戻していくこと。

脳の作動がおかしくなったままでは、落ち着いた視点でものごとを見つめ直すことはできず、

また暗い思考の回路に、自分をはめてしまうだけだから。

鬱になった今だからこそ、自分を、周囲を、見つめ直せるかもしれないのだ。

あなたはたまたま、そういうやり方を選んだ。自分をとことん追い詰めるまで、気づけなかった。

そのことを無視して、今まで通り、表面的な達成とそれによる自己満足だけを見つめていたら、

鬱という病は治りにくくなる一方で、

幸せになりたいはずが、いつの間にか死にたくなるところへいってしま