カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

今 小さいのも 通過点

ダメな自分 そう卑下する気持ちは 脳の狂いによるものだから 勝手にでてきちゃうのだけれど

そのなかに 何かBIGな自分になりたい! といった欲が隠れていると さらに自分を落ち込ませることになる

単なる出世にとどまらず あんな自分 こんな自分 そういった理想の自分を抱えていると

そのために 一切動くことができない今の事態が さらに情けなさを増していく

本当のBIGは 知名度などなくても気にしないし 何かを誇ったりもしない

別に闇の世界で生きているとか そういう怖い類の話ではなく

泰然自若(たいぜんじじゃく/落ち着いていて動じず 気持ちが常に安らかな状態)なのだ

名誉や欲 見栄に動じないだけでなく 自然に表れてくる気持ちに従って

自分は常に なすべきことをしようとしているだけ

こういう人は 周りから見ればすごい人に思える

そして そういう意味でのBIGな人なら 病さえ 静かに受け容れるのだと思う

そうなってしまった自分がいることを ただ認め あがいたりせず 今なすべきことは 治すことなんだと

静かに受け容れる気がするのだ

有名になりたい? 全国的ではなくても たとえばその業種で その世界で ひとかどの人物になりたい?

もっと小さい単位で言えば 家族や友人達から すごいと認められたい?

それって そこまで達成することも必要だけれど もっと大変なのは その維持 だよ

○○にさえなれば ○○さえできれば と この病では思いがちだけれど

その○○の先にも 人生は普通に続くのだ

であれば 今のこの状態さえ ただの通過点として 学びを得たほうが

よほどあなたのためになるのではないか?

やがてはまっとうな生活になりたいとか 温かい家庭を築きたいとか そうした夢が 悪いわけじゃないけれど

王子様とお姫様が「幸せにくらしましたとさ」というような伝聞は

幸せに暮らしきってからこそ 生まれるもので

その間 きっと 王子もお姫様も 幸せに暮らす努力は必要で

いろいろなことを お互い 乗り越えていく必要があるのだ

人生に いいことばかりじゃないことは確かで 嫌なことが起こる場合もある

でも どちらもやがて 時間とともに 変化していくのだ

この先 奴隷のように 永久的に ある仕事に従事しなくちゃいけないなんてことも ない代わりに

なんの努力もいらない幸せも ありえない

それを夢に描きすぎていたら 幸せになったあと 今度は現実とのギャップに苦しむだろう

「こんなはずじゃなかった」 というパターンである

万物は 変化する そのことだけが真実なのであれば

今の病も 小さいと思っている自分自身も ただの変化の最中であり 通過点である

だから 自信過剰にもなり過ぎず 卑下もし過ぎず 変化をよい方向へ導くために

今の自分を見つめて 学びのきっかけにして よりよい自分を新たに 構築していってほしい

鬱という病は 自分を見つめ直し 他人を見つめ直し 自分をひとまわり大きくするための

絶好のチャンスにさえ なりうるのだ

どうしていくかは ただ あなた自身の気持ち次第である

静かに 思いを探ってみてほしい

「責める」という感情

自分であれ 他人であれ 責めることは 何もよいものは生み出さない

ひたすら 自分を苦しくさせるだけである

黒い気持ちを感じ続けることは 単純に 人を疲弊させるから

黒い気持ちの自分 そのこと自体で 自分をまた 嫌になるから

責めたい気持ちが 湧くのは仕方ない

その感情を「持たない」ようにするには 相当の鍛練が 人には必要で

たとえばあなただけが悪いから そんなふうに感じるわけではない

怒り 腹立たしさ 情けなさ

その感情は 人として普通に湧くものである

ただ 鬱々とした気分のときには

の感情にとらわれ 自分をど真ん中に置いてしまいがちになるため

その黒さをもろに感じて よけいにいたたまれなくなるのだ

だからなおのこと 苦しくなる

その「責める」感情は 何らかのことが今 または過去に起こって

自分を 相手を そのように「受け止めた」ときに湧く

過去のことであれば そのときの感情を ふたたび思い出すほど

あなたにとって つらい経験だったということだろう

でも ど真ん中にいたままでは あなたが 苦しいだけだ

相手が悪い 自分が悪い そうやって 感情の渦に巻き込まれ続けても

何も変わらないから

そのことで さらに 落ち込んでしまうから

ねえ じゃあ こういうふうにはできないだろうか

自分はなぜ そういう受け止め方をしてしまうのだろう

なぜ そう考えてしまうのだろう と 見つめてみるのである

なぜ を考えはじめると 過去の似たような経験に 思い当たるかもしれない

あるいはそのときの自分が もともと憂鬱な気分だったな とか

周囲に目を向けられる状況じゃなかったな とか

いろいろなことを「可能性として」 思うことになる

それが本当の原因かどうか まずは別にして

自分の状態を 考えてみるのだ

他人に対する責めの感情でも その相手が どういう状況かを 考えてみると

相手が つらい状態だったり 実は自分の不満を 人に転嫁していたり

もしかして 何かが怖いから 人を攻撃していたのかもしれない

自分ではどうしようもない感情を他人にぶつけることは

幼い と思えるだろうけれど

悲しいかな その人は そのときそれしかできなかったのである

それを選択したのは 相手の何らかの事情による

もしかして幼少のころ 他人に痛い目に遭わされ続け

その人もまたそういう「受け止め方」しかできなかくなっているのかもしれない

別に同情しろと 言っているわけではない

そういうわからないものに対して あなただけが正しい と叫べるとは限らない ということだ

あなたにはあなたの背景があるように 相手には相手の背景があるのだから

そしてまた あなたの常識は 世の中でのひとつの選択肢であり

あなたもそのときたまたま それ以外の選択をしなかったのだ

では さらに 自分にはどんな選択肢があったか なぜそれを選んだのか

相手の問題にまで踏み込む必要はない 相手の問題は相手のことだから仕方ない

今は あなたの選択について考えてみたときに

それを選んだ理由から ひとつの価値観や 判断基準や 自分の受け止め方 世の中の見方がわかってくる

そうやって 自分というものを 冷静に捉えられれば

相手や自分を責めるだけの感情からも 少し 離れることができるのだ

どうしようもない 自分の「クセ」のようなものに気づいて

またそこで新たに 落ち込むかもしれないけれど

それをまた「なぜ」そうなのか と考えてみることで

自分が自分をどう捉えているかも 見えてくる

責める というのは 必ずどこかに「非がある」と感じているわけだから

それを「なぜ」と見つめてみたとき

最終的には 自分を発見することにつなげられる

掘り下げていけばいくほど だんだんと 仕方ない と思えることも 多いし

変えられる部分だって 見つかるかもしれないのだ

自分が何を 責める材料 つまり「非」と捉えているのか

そこには自分の どんな経験や受け止め方 考え方が隠れているのか

責める気持ちが生まれたときを幸いと思い

ぜひ一度 見つめ直してみてほしい

できる、できない、でなく。

痛んでいる人が無理をすると、ときに大きな失敗をする。

それはすでに気持ちが平穏ではないからで、

ただ、静かに集中して向かうことが難しいからである。

これは、とても「普通」のことで、誰だって集中できないときがあるし、

集中できなければ痛んでない人だったって

失敗の確率は上がるのだ。

でも、痛んでいる人はその「普通」にも、ときに気づけない。

すべては自分だけが劣っていて、自分だけがダメなせいで

自分だけが、やっぱりもう上手に生きていけないんだ、と、

未来まで含め否定してしまうのだ。

自分でそう思い込み、未来さえ自分自身が決定してしまう。

そんなふうに、うまく出来ない、と自ら決めつけてしまえば、

ますますその「意志」によって畏縮し、緊張し、

実際に失敗する確率が高まるだろう。

そのうち、それをやることさえイヤになるのも当たり前で、

だってこれ以上、自分にがっかりしたくないし、

迷惑をかけて他人にがっかりされるのはもっと怖くて、イヤだからだ。

その一番の原因は、自分が病によって、

うまくできなくなっているときがあることを、

自分で認め、ゆるしていないことにある。

病になったんだから、仕方ない、できる範囲だけ、ゆっくり丁寧に

向き合っていこう、という割り切りができないゆえ、なのだ。

もちろん、人に迷惑をかけることはある。

だからそうそう、開き直ることはできない、ということもわかる。

それでもなお、病を認め、現状がそうであることを受け入れ、

そこからあらためて回復していかない限り、抜け出せないのだ。

わかってるよ、そんなこと、という怒りを感じるのであれば、

あなたはまだ、昔の自分という見栄を忘れていない証拠だ。

私自身がまさにそうだったから、少し厳しいことを言えば

その見栄こそが、あなたを病に追い込んだ可能性だってある。

できる自分じゃないと、ゆるせなくて。

逆に、できない自分を決めつけて追い込んだ人もいるだろう。

場合によっては、他人に追い込まれて、できなくなった人もいるかもしれない。

うん。そうだよね。つらいよね、いずれにしても。

それを身にしみて知っているからこそ、私はこう言う。

いいのだ、今、あるいはもう、できなくても。

あなたの価値は、できるとかできない、という部分にあるのではない。

人に優しかったり、元気だったり、意志が強かったり、

きちんと真面目にものごとをやりとげようとしたり、

体力をしっかり維持できていたり、面白いことを言って人を楽しませたり、

他人の話を聞けたり、思いやりがあったり、落ち着いていたり。

そういう人間味という部分には、あなたの良さが、しっかり現れている。

そしてそれは、病が治ればまたすぐ、回復できるのだ。

できる、できないという類のものに比べれば、

ずっとずっと簡単に。

あなたが備えているその宝石は、他の誰にもないあなたの輝きであり、

その「味」は、病によって一時的に弱くなることはあっても、

必ず、あなたからにじみ出ている。

そしてそれは、できる、できないより、ずっと大切なことなのだ。

だいじょうぶ。自信をもっていいよ。あなたはあなたという、

とてもステキな個性をもった、1人の大切な、人間だから。

すべてをあきらめてしまわないで、もう一度、ここから。

やり直す、のではなく、病の原因を知って、

よりよい、新しい自分になっていって、いいからね。

その道を、探して、いこう。